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地震−日本の地震−

最終更新日:2019年8月10日

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【日本の地震】

【関東大震災】

地震

全国首都直下東海東南海・南海広島県愛媛県大分県安芸灘〜伊予灘〜豊後水道日向灘

《全国》

2011

【2011】

《首都直下》

2011

【2011】

《東海》

2011

【2011】

《東南海・南海》

20112012

【2012】

【2011】

《広島県》

2014

【2014】

《愛媛県》

2014

【2014】

《大分県》

2014

【2014】

《安芸灘〜伊予灘〜豊後水道》

2014

【2014】

  • ウィキペディア(HP/2014/4)による『芸予地震』から
    文部科学省が公表するこの地域でのフィリピン海プレート内のスラブ内地震とされている代表的な地震

    発生日

    名称

    震央

    規模

    備考
    1649年慶安2年)
    3月17日
    伊予安芸大震 北緯33.7度
    東経132.5度
    M7.0 ・推定震度:松山・宇和島で5〜6、広島で5
    松山城宇和島城の石垣崩壊
    広島城下の侍屋敷・町屋破損
    1686年貞享2年)
    1月4日
    北緯34.0度
    東経132.6度
    M7.2 ・推定震度:広島・松山・大洲5強
    ・広島で死者、宮島・萩・岩国
    松山で建物崩壊
    ・道後温泉で泥湯噴出
    1854年安政元年)
    12月26日
    豊予海峡地震 北緯33.2度
    東経132.2度
    M7.4  江戸時代後期の1854年12月26日嘉永7年/安政元年11月7日)下刻-上刻(9-10時頃)に、豊予海峡を震源として発生したマグニチュード(M)7.4の地震である。豊予地震豊予大地震とも呼ばれる。
     震源地は現在の九州大分県四国愛媛県との間にある豊予海峡のやや大分県寄りで、安芸灘から伊予灘を経て豊後水道に至る領域を震源とするプレート内地震のひとつと考えられる。
     この地震の直前には、12月23日の安政東海地震
    (M8.4)、12月24日の安政南海地震(M8.4)巨大地震が相次いで発生している。本地震は南海地震の約40時間後に発生し、豊前では南海地震より強く感じられた。
     河角廣
    (1951)は規模MK = 4.3 を与え、マグニチュードは M = 7.0に換算されている。宇佐美(2003)は M = 7.3-7.5と推定している。
    1857年(安政4年)
    10月12日
    伊予大震 北緯34.0度
    東経132.5度
    M7.3 ・推定震度:広島県南部・愛媛県中予南予・山口県東部で5
    ・特に愛媛沿岸部に被害大、今治城内破損
    1905年明治38年)
    6月2日
    芸予地震
    (1905年芸予地震)
    北緯34.1度
    東経132.5度
    M7.2  1905年(明治38年)6月2日 14時39分(日本標準時)に発生した地震の震源は倉橋島の南。マグニチュードは7.25から7.3と推定されている。東は東京・西は長崎と広範囲で揺れたが、大きな被害は広島湾岸と伊予灘に面した地域と局所的なものに留まった。
     この本震の前々年から前震が多発しており、1903年
    (明治36年)に9回、1904年(明治37年)に3回、そして1905年1月から5月の間に3回と続き、6月の本震となった。その後も余震が続き、中でも同年同日19時55分(緯度34.0度・経度132.5度・M6.0)、同年12月8日12時08分(緯度34.1度・経度132.6度・M6.1)、同年12月8日13時25分(緯度34.0度・経度132.4度・M6.2)が代表的なものとなった。
     1905年当時はまだプレートテクトニクス理論が提唱されていない状況下で、震災予防調査会のメンバーは地震の原因についていくつか考察している。今村明恒は震源地付近の海の状況から海底下の断層による地震
    断層地震説ではない別の原因の可能性を、小藤文次郎中央構造線断層帯の影響によるものとして原因を模索している。
     調査および研究資料は比較的少ない。1905年に震災予防調査会がまとめた報告書では、源地付近に存在した呉鎮において被害状況はいくつか記載されている。報道機関は、当時の直前の日露戦争での日本海海戦勝利を重視し、軍港を襲った地震である芸予地震はあまり報道しなかった。また、海軍工廠は機密保持体制にあった。
    2001年平成13年)
    3月24日
    芸予地震
    (2001年芸予地震)
    北緯34.1度
    東経132.7度
    M6.7  2001年(平成13年)3月24日 15時27分(日本標準時)に発生した地震の震源は上蒲刈島の南。マグニチュードは、気象庁マグニチュードでMj 6.7、モーメントマグニチュードでMw 6.8。震源の深さは公式発表で51km。最大震度は6弱。被害総額約193億円。
     中国地方においては2000年10月に起きた鳥取県西部地震
    (Mj7.3、Mw6.6)から5ヶ月ぶり、瀬戸内海に面した地域としては1995年の兵庫県南部地震(Mj7.3[42]、Mw6.9)から6年ぶりとなる被害地震となった。これらと比べて芸予地震は規模としては同等であったが、これらが震源深さ20km前後の直下型地震だったのに対し芸予地震は更に深部でのスラブ内地震であった。一部の地震学者が唱える"西日本地震活動期説"の根拠となった地震の一つ。
     なお鳥取県西部地震の後、気象庁マグニチュード検討委員会によりマグニチュード計算式の見直しが図られ、芸予地震後である2001年4月23日から先行導入される形で新しい計算式によるマグニチュードが修正された。芸予地震のマグニチュードを6.4としている資料は修正前の旧計算式でのものである。ちなみにこの新計算式は2003年9月25日に正式採用され現在に至っている。
     余震発生域は本震を北端として南に約20km・深さ40から50kmの範囲に分布し、最大余震は翌々日の26日5時40分
    (JST) に発生した安芸灘を震源とするMj5.2、深さ50km、最大震度5強の地震であった。
     表面最大加速度は、震源地付近が海であることから観測点が少なかった一方で、広島県湯来町での830
    m/s2を筆頭に広島市三原市・愛媛県東予市と震源地から少し離れた3つでピーク域が観測された。これは地層に起因するものであり、この3地域では特異な被害を受けている。
     山陽地方側は事実上地震空白域だったため住民の危機感が薄く、地震直後も普段と変わらない生活をおくったものがかなり存在した。これは被害が大きかった広島県呉市を除き、自治体による避難勧告がほぼ出されなかったためでもある。自治体・企業が、兵庫県南部地震規模の地震を想定し地震対策を行っていたため、被害が小さかった部分もある。住民が災害情報を得たメディアは9割近くがテレビ・ラジオだったことに加え、この地震や先の鳥取地震が起きた2000年代初頭は行政側が公式ホームページ上で情報を公開しそれをインターネットを通じて住民が得る状況になった。

    ウィキペディア(HP/2014/4)による『芸予地震』から

  • 地震調査研究推進本部(HP/2014/4)による『安芸灘〜伊予灘〜豊後水道のプレート内地震』から 

     この領域では、17世紀以降現在までに、1905年の芸予地震(M7.2)や「平成13年(2001年)芸予地震」(M6.7)など、M6.7〜M7.4の地震が6回発生しています。
     この領域で今後30年以内に地震が発生する確率は40%程度です。


    ○将来の地震発生の可能性
     地震の規模  : M6.7〜7.4
     地震発生確率: 30年以内に、40%程度  (地震発生確率値の留意点
     平均発生間隔: 約67年

     詳しい内容を知りたい方は、「日向灘および南西諸島海溝周辺の地震活動の長期評価」( html版PDF版(19MB) )をご覧下さい。


    ○安芸灘〜伊予灘〜豊後水道のプレート内地震の過去の発生状況と被害

    発生年月日

    地震の規模

    被害等
    1649年3月17日
    (慶安2)
    M7.0 有感地点は東は京都、西は佐賀まで及び、推定震度は松山・宇和島で5〜6、広島で5。松山城、宇和島城で石垣・塀が崩れ、広島にて家屋破損を生じた。また、死者を伴った。
    1686年1月4日
    (貞享2)
    M7.2 岩国・宇和島から諏訪にかけて有感であり、広島・松山・大洲・萩で震度5強と推定される。広島県中部で被害が大きく、死者2名、家屋倒壊147棟を伴った。宮島・萩・岩国・松山で建築物に被害を生じ、道後温泉では泥湯が湧出した。
    1854年12月26日
    (安政元)
    M7.4 大分県の府内・臼杵、および愛媛県八幡浜近傍で推定震度5。被害は2日前の安政南海地震(M.4)によるものと分離ができないが、愛媛県伊予大洲・吉田、大分県鶴崎、および福岡県小倉で潰家があった。
    1857年10月12日
    (安政4)
    M7.3 広島県南部、愛媛県の西条から宇和島にかけて、および山口県柳井でに被害があり、その近傍での推定震度は5。今治では城内破損、郷町で潰家3棟、死者1名を伴い、郡中(現・松山市)で死者4名を伴った。
    1905年6月2日
    (明治38)
    (芸予地震)
    M7.2 広島市・呉市・松山市の付近で最大震度5〜6を観測し、死者11名、負傷者177名を伴った。広島市では埋立地で被害が大きく、家屋等の倒潰で死者4名、負傷者70名、家屋全壊36棟を伴った。呉市では死者6名、負傷者86名、家屋全壊5棟を伴った。愛媛県でも被害が大きく、松山市ほか5郡で負傷者17名、家屋全壊8棟を伴った。この地震では本震より半年以内にM6程度の余震が3回発生している。
    2001年3月24日
    (平成13)
    (平成13年(2001年)芸予地震)
    M6.7 広島県南部の一部の地域で最大震度6弱を観測し、死者2名、負傷者261名、住家全壊48棟, 半壊274棟を伴った。文教施設の被害が多く、今治市ではマンション1階のピロティが圧壊した。余震発生域は、概ね南北に20km余りにわたっており、深さは40kmから50kmに分布していること等から、西に向けて引っ張られ、かつ曲げられたフィリピン海プレート内部が破壊して起こった地震であると考えられる

    (「日向灘および南西諸島海溝周辺の地震活動の長期評価」より)

    地震調査研究推進本部(HP/2014/4)による『安芸灘〜伊予灘〜豊後水道のプレート内地震』から 

《日向灘》

2014

【2014】

関東大震災

2004|−|2015

【2015】

【2004】

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2011

【2011】


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