北野(1992)による〔『化学の目でみる 地球の環境−空・水・土−』(73-86p)から〕


目次

5.2 水の起源と進化
(1) 水の変遷の歴史の描き方

 既に表3.1に示したように、地球上の水の92%は海水である。海水は蒸発して降水となり、河川水や地下水となる。水の変遷の歴史は海水のそれであると考えられよう。その海水の源は表5.4に示した二次原始大気である。この二次原始大気は、地球形成の初期に大気に出つくしたと考えられる。
 表面がマグマの海の状態の原始地球は、放熱して冷えてくる。そこで、大気中に大量に存在していた水蒸気は液体の水となり、現海水量に近い海は既にそのとき誕生した。
 さて3.1節の(3)項で詳述したように、地球上で水は海から出て海に戻る大変速やかな循環の旅を絶え間なく続けてきたし、未来永劫続けていくことになろう。海水の平均滞留時間はたった4,000年、地球大気中の水蒸気の滞留時間はたったの10日間であることも、既に表3.1に示し、3.1節で述べた。
 古い時代の海水を今、入手することはできない。古い海洋堆積物中に海水が包蔵されていることもあるが、海水の二次的な変質が激しくて、それから当時の海水の化学像を推定することは困難である。ともかく、海水の化学組成の変遷の事実を刻みこんでいる証拠物質が欲しい。その1つは海で生成した堆積物である。海水の化学組成を指示する証拠物件として最も確かなものは、現海洋水、現海洋堆積物、そして大陸上に隆起した古いいろいろの時代の海洋堆積物である。現海洋堆積物としては、今から約2億年前までのものが存在しているだけであり、それより古い堆積物は現海底には存在しない。一言だけでその理由をいうと、海洋底のプレートの動きによっているからである。
 このことを、もう少し詳しく説明してみよう。
 全海洋にわたって海洋堆積物を直接採集して、その堆積物の年齢を測定するか、堆積物の堆積速度と堆積物層の厚さから堆積に要した時間を推定することができる。これらのどちらによっても、現海洋堆積物はこの2億年くらいの間にできたものということになる。しかし、実際には海洋水は、固体地球ができた今から45億年ほど前には存在していたと考えられているので、海洋水が存在する限り45億年にわたる堆積物があっていいはずである。これは矛盾であるように見える。実は、それが矛盾ではないのだということを説明しよう。
 1960年の初め頃から海洋底の山脈、海嶺の存在が注目され始めた。大西洋、インド洋、太平洋などのほぼ中央部の海底に南北に走る海嶺と呼ばれる山脈が発見された。図5.3(略)に示すのは、中央大西洋海嶺の断面図であり、2〜4kmの隆起を持ち、南北に2,000〜4,000kmも延びているものである。形はほぼ対称的で、その中心の位置が隣接大陸からほぼ等距離にある。このことは大西洋とインド洋では顕著で、太平洋ではやや漠然としている。海嶺の中央部は一般に地殻熱量が大きく、地震活動も活発で、マグニチュード6くらいの地震が頻発している。海嶺の岩石がウラン、トリウム、カリウムなどの放射性同位元素を多量含んでいれば、熱が出ても地震があっても納得できようが、実際にはそこの岩石を採って分析したところ、それらの放射性同位元素含有量が特に大きくはないことがわかった。
 結局は、海底の中心部では地下からマントル物質が上昇してきて、これが海水の圧力で上にもりあがることができず、海底で両翼に拡がっていく。このマントルのベルトコンベアに乗って、海洋堆積物は両大陸方向に移動し、やがて大陸塊にぶつかって、そこで大陸の下に没していくことになる。このベルトコンベアの動く速度は1年に5cmほどであるので、最も広い太平洋を横断するのに2億年ほどかかる。つまりマントルのコンベア、マントル対流に乗って海洋堆積物は2億年で地球内部に沈みこんでしまい、現海洋底からはそれより古い堆積物は姿を消してしまうのである。海洋の歴史が45億年あっても、現在の海洋底に2億年より古い海洋堆積物が発見できないのはそのためである。ハワイは日本の方に動いており、インド大陸はヒマラヤ山脈の下にもぐりつづけている。
 さて、2億年より古い海洋堆積物は、二次的に変質している危険性はあるが、陸上に隆起したものとしては存在し、私どもは採集できる。それとても今から20億年から30億年前までのものが精一杯である。
 新しい時代ほど証拠物件は豊かである。図5.4(略)に示すように、まず現実的には現在を出発点として、できるだけ古い時代の海水の化学組成を描き出すことに努める。この攻め方では、どんなにさかのぼってみても生命の誕生後の今から30億年前後までが限度である。それ以前の証拠物は、まず見出しがたいからである。
 そこで一転して、原始時代を出発点として新しい時代に下ってくる攻め方をすることにする。図5.4を見て欲しい。そこでは表5.4に示す二次原始大気の存在を出発点とし、温度が下がるにつれて登場する液体の水、海水を想定し、その頃分布していたであろう岩石とその水との接触による化学過程、水質も変わるが堆積物生成も起こることを考えあわせ、海水の化学組成の変遷を描き出し、生命の起源の頃まで、原始の古い時代から新しい方向に下ってくる。生命の誕生というのは大事件であり、基本的な環境の推定は可能である。私は、生命の誕生した頃で、現在からさかのぼって描き出せる変遷の物語と、原始からくだる変遷の物語とを矛盾することのないように繋ぎ合わせて、一貫した海水の化学組成の変遷の物語を構成させることにした。その攻めの結果を次に示したい。


(2) 現在から過去にせまる攻め方
(A) 海洋堆積物の鉱物種から−海水の主要化学組成が決まるからくり

 現海水の主要化学成分濃度は、表4.4(略)に示されている。
 海水の蒸発量の大小によって、海域で濃度に多少の違いはあるが、河川水などの影響の著しくはない世界中の海水の主要成分の濃度比はほとんど変わってはいない。したがって海水の電気伝導度を測れば、海水中の各主要成分の濃度は充分な精度で算定できるほどである。全地球上の海水の主要成分がどうしてこのように一定なのかを明らかにすることは、大変興味ある大課題である。
 さて、海洋は決して閉じた系ではない。陸地からは河川水など、海上では降水や降下物などを通して水を含む大量の物質が海水中に供給され、一方、海水からは堆積物生成、大気への蒸発を含む逸散を通して水を初め物質が除かれる。さて、固体地球と海の歴史は45億年といわれる。45億年も経つと、自然界における物の動きはその自然の環境に応じて安定な状態になっている。つまり、概観すれば、海水に供給された物質はそのまま海水から除かれており、海水の量もその海水に溶存している主要化学成分の各総量も変わらないようになっている。こんな状態を私どもは定常状態(steady state)と呼ぶ。そこで海洋は開いた系ではあるが、閉じた系として取扱うことが可能である。ただし、近年の人間生活のせっかちさ、激しさのために自然、特に沿岸域における物の動きが急激に乱されてきたと心配されていることは付記しておこう。
 ここでは、主要成分のみを取りあげているが、表5.1(略)に示すように海水は実に多種類の少量および微量元素をも含んでいる。海水中のそれらの挙動は1つ1つ違っており、その動きをしっかり追うことは海に関連するさまざまな事象を理解するうえで有用であることは、いくら強調しても決してしすぎるものではない。
 さて、海では各種の粘土鉱物、炭酸塩などが堆積している。それら各鉱物が海で生成し、堆積する事実からかなりの幅はあるが、海水の化学組成の範囲を各鉱物について独自に想定することができる。すなわち、例えばモンモリロナイトという粘土鉱物が海で生成し、堆積し、存在するということは広い幅はあるが、海水の化学組成はある範囲内にあることを示唆する。石灰石にしてもその生成、堆積、存在はモンモリロナイトとは無関係に海水の化学組成がある範囲にあると示唆される。何種類かの鉱物が海底に共存しているという事実は、図5.5(略)に示すように海水の化学組成は、それぞれの鉱物の存在が独自に指示する化学組成の共通部分ということになり、かなり狭い範囲にあることが示唆される。
 さて、世界中のどこの現海底の堆積物にも、同じ何種類かの鉱物が見出されるという事実がある。このことから、全地球の現海水の主要化学成分がかなり似ているものになると推論できる。この定量的な熱力学的取扱いは、あまりにも専門的に過ぎるのでここでは詳しくは紹介しないが、私の書いた本(注:『地球環境の化学』および『炭酸塩堆積物の地球化学』)には書いてあるので、興味のある人はそれを参照されたい。
 それにしても、簡単に筋書きだけは書いておくことにしよう。表5.5をごらん頂きたい。例えば、海水中に溶けているNa+(ナトリウムイオン)を取りあげて話を進めてみよう。これは他のイオンにもあてはまる論理である。Na+は海洋堆積物中に存在している全ての鉱物と化学平衡にあると考える。ただ、化学平衡にあることを示す平衡関係が定量的に、いいかえれば数値的に測定を通して正しい値がえられる鉱物種をえらぶことが要請される。Na+の場合は海洋堆積物中の粘土鉱物のモンモリロナイトであり、K+の場合は粘土鉱物のイライトである。それぞれのイオンに対して、それにふさわしい鉱物をえらぶ。
表5.5 海水と化学平衡にあって海水中の主要成分イオン濃度を規定する鉱物種

イオン

鉱物種
ナトリウムイオン (Na+ Na-モンモリロナイト
カリウムイオン (K+ K-イライト
塩化物イオン (Cl- 0.55(あたえる)
硫酸イオン (SO42- 炭酸ストロンチウム、硫酸ストロンチウム
カルシウムイオン (Ca2+ 灰十字石
マグネシウムイオン (Mg2+ 緑泥石
リン酸イオン (PO43- OH-リン灰石
二酸化炭素 (CO2 方解石
フッ化物イオン (F- F-CO2-リン灰石
水素イオン (H+ 陰イオン数からほかの陽イオンの数を差し引く
ストロンチウムイオン (Sr2+ 炭酸ストロンチウム、硫酸ストロンチウム

(J.R.Kramer、1965)


 さて、海水中の主要成分としては、表5.5に示す11種類を考えれば充分である。それぞれの主要成分と定量的に化学平衡にある海洋堆積物中に存在する鉱物は、表5.5に示される通りである。化学平衡関係を示す式の中には、主要成分は濃度として入ってくる。11の主要成分を問題とするときには、11の化学平衡式が書ければ、各主要成分濃度は算出できるはずである。しかし、海水中に最も多量に溶けているCl-(塩化物イオン)については、それと定量的に平衡にある適当な鉱物を海洋堆積物中に見つけ出すことができないので、Cl-の濃度は合理的な値を与えてやることにする。現海水中のCl-の濃度は全海洋水中ではほとんど等しい値を示しているし、また原始海水から現海水に至るまで、大筋では海水中のCl-濃度はほとんど変わってきてはいないと、一義的には考えてよかろう。もう1つ、全ての主要成分を取りあげているので、陽イオンの数(当量数の和)と陰イオンの数は等しいという式が書ける。すると、平衡関係を示す式は9つあればよいことになる。
 その9つの式と、その9つの平衡関係を示す定数は、表5.6に示される通りである。ここに示される定数は、実験室内で測定された値である。
表5.6 海水中の溶存主要化学成分と海洋堆積物中の鉱物との間の化学平衡関係

反応系

定数
H-モンモリロナイト+Na+=Na-モンモリロナイト+H+ (H+)/(Na+)=10-7.4
H-イライト+K+=K-イライト+H+ (H+)/(K+)=10-5.7
Ca2Al4Si8O24・9H2O(灰十字石)+4H+
4SiO2(石英)+2Al2Si2O7・2H2O(カオリン)+2Ca2++7H2O
(Ca2+)/(H+2=1013
Mg5Al2Si3O14・4H2O(緑泥石)+10H+
SiO2(石英)+Al2Si2O7・2H2O(カオリン)+7H2O+5Mg2+
(Mg2+)/(H+2=1014.2
Ca10(PO4)6(OH)2=10Ca2++6PO43-+2OH- (Ca2+10(PO43-6(OH-2=10-112
[Na0.286Ca9.56][(PO4)5.35(SO4)0.30(CO3)0.33][F2.04] 定数=10-103
CaCO3(方解石)=Ca2++CO32- (Ca2+)(CO32-)=10-8.09
SrSO4=Sr2++SO42- (Sr2+)(SO42-)=10-6.55
SrCO3=Sr2++CO32- (Sr2+)(CO32-)=10-9.15

5℃、1気圧、( )は活量

(J.R.Kramer、1965)


 これらの式を解くと、各主要成分の濃度の計算値がえられるが、その値は表5.7からわかるように、現海水の実測値と驚くほどよく一致しているのである。ともかく、海水中に溶存している主要化学成分の濃度、すなわち海水の質については、海水と海に存在する堆積物とが最も安定な平衡状態になっていれば、海水の化学組成は現在のそれになってしまうということができる。
表5.7 計算による海水の主要化学成分濃度と観測による現海水の主要化学成分濃度との比較
PCO2はCO2の分圧、炭酸アルカリ度は当量l-1、イオンはモルl-1
イオン 計算結果 現在の海水
ナトリウムイオン(Na+ 0.45 0.47
カリウムイオン(K+ 9.7×10-3 1.0×10-2
カルシウムイオン(Ca2+ 6.1×10-3 1.0×10-2
マグネシウムイオン(Mg2+ 6.7×10-2 5.4×10-2
フッ化物イオン(F- 2.4×10-5 7×10-5
塩化物イオン(Cl- 0.55(あたえた) 0.55
硫酸イオン(SO42- 3.4×10-2 3.8×10-2
pH 7.95 7.89
炭酸アルカリ度 4.3×10-3 2.3×10-3
PCO2 1.7×10-4 4×10-4
全リン(P) 2.7×10-5 1.5×10-5
ストロンチウムイオン(Sr2+ 5.5×10-4 4×10-4

(J.R.Kramer、1965)


 こういうことになると、表5.5に示した鉱物がどれくらい前までの海洋堆積物中に見出されるかが、関心の的になる。というのは、海にそれらの鉱物が存在する限り、海水のCl-濃度は今のそれに近いと考えられるので、海水の主要化学成分の各濃度は、現在のそれに近かったと推論できるからである。
 大陸上に存在する古い時代の海洋堆積物を調査した結果、今から20億年ほど前まで、少々推理をたくましくすると、今から30億年ほど前までは、それらの鉱物種が存在していたと考えてよいようである。したがってこの線でいくと、今から20億年前、少々無理すると、30億年前から現在までの海水の主要化学組成は、既に現在のそれにかなり近かったといえそうである。これは大変重要な知見といわねばなるまい。
(B) 貝殻化石中のストロンチウム含有量から
 この6億年ほどのいろいろの時代にわたり、貝殻化石が地球上で発見され、入手できる。いろいろの時代のある同種類の貝の化石(主成分はCaCO3、炭酸カルシウム)を入手し、その中のストロンチウム(Sr)含有量を測定したところ、その値はこの6億年間の同一種の化石試料では、それぞれほぼ同じ値であり、それが現海水中で生育しているその種類の貝の殻に含まれるストロンチウム含有量に等しかった。図5.6(略)に示すように、その貝をいろいろのストロンチウム濃度をもつ海水で生育させ、貝殻中のストロンチウム含有量を測定すると、海水中のストロンチウム濃度と貝殻中のストロンチウム含有量との間には、正比例関係のあることが確認されている。
 これらのことから、少なくともこの6億年間の海水中に溶存するストロンチウム濃度とカルシウム濃度の比は、現海水の値と同じであったことがわかった。ここまでの結論はよい。ただそのとき、この結果から少なくともこの6億年間は海水中の主要化学組成は現海水のそれに等しかったという結論が同時に提出された。表4.4(略)からもわかるように、海水中に溶存するストロンチウムイオン濃度は8mg/l、そしてカルシウムイオン濃度は400mg/lと小さい。海水の主要成分の濃度は約35g/lと大きく、少量のストロンチウムとカルシウムイオンの濃度比が不変だからといって、多量に含まれる各主要化学成分濃度が不変であると結論づけるのは、飛躍しすぎるのではないかという疑念が生じよう。しかし、その点については、前項(A)で述べた堆積物中の鉱物と、海水中の溶存主要成分との間の熱力学的な定量関係から出された論理と結論をうけ入れるとすると、海水中に溶存するストロンチウムとカルシウムの濃度比が不変ならば、海水中に多量溶存する各主要成分濃度も違ってはいないといってよいと考えられる。ただし塩化物イオン濃度は不変だと別の根拠から考えるのである。これらのことは前述した通り、専門的すぎるのでここでは詳述せず、結論だけを述べることにした。
(C) 海洋を舞台とした化学元素の動き
 既に4.4節の(1)主要化学成分の地球化学的収支の項で表4.12(略)を示し、1年間に海洋水中に運びこまれる各主要成分量、その中の海水起源の部分を除いた岩石などからの溶出に由来する非海水起源の各主要成分の量を示した。非海水起源成分は、初めて海水に運びこまれるものだと一義的に考えてよかろう。
 さて、本章5.2節(2)項の(A)および(B)で、この6億年間はもちろん、この20億年間ほどは海水中に溶存する各主要成分濃度も、また海水の総量も現海水のそれらに近かったと考えられることを述べてきた。この1億年間は、それらが不変であったことは間違いない。
 さて、既に表4.12の説明はしたが、ここでは今から述べることに関係する数値を採録することにする。表5.8に、全海洋水に溶存している各主要化学成分の各総量と、表4.12に示した1年間に海洋水に運びこまれている非海水起源の主要成分量を1億倍した、すなわち海洋にこの1億年間に運びこまれた非海水起源の各成分の量を示す。
表5.8 全海洋水に溶存する主要成分量と、1億年間に海洋に流入する非海水起源の主要成分の量
  (A)
全海洋水中の溶存量(kg)
(B)
10^8年間に海洋に流入する非海水起源成分の量(kg)
溶存SiO2 0.008×1018 40×1018
HCO3- 0.19×1018 190×1018
SO42- 3.7×1018 30×1018
Cl- 26.1×1018 0
Ca2+ 0.6×1018 50×1018
Mg2+ 1.9×1018 10×1018
Na+ 14.4×1018 7×1018
K+ 0.5×1018 5×1018

(北野 康、1980)


 表5.8を見ると、この1億年間に海洋水の組成とは全く違う組成の成分が、海洋水中に含まれる全成分量の実に約7倍も、初めて海洋水に供給されていることがわかる。
 すなわち、表5.8からもわかるように、海水では陽イオン濃度はNa+>Mg2+>Ca2+、陰イオン濃度はCl->SO42->HCO3-であるのに、海洋水に初めて運びこまれる非海水起源成分の量は、陽、陰イオンとも海水とは全く逆である。
 全く組成の違う成分が、1億年間だけでも現海水の溶存成分量の7倍も供給されているのに、海水に溶けている各主要成分量が不変であるということは、表5.8の(B)欄に示した海に運びこまれる非海水起源の成分は、そのまま海水から沈殿として除かれていると考えざるをえない。海水飛沫で大気に逃失した分は、既に差し引かれているからである。
 なお、次の一言を付け加えておきたい。それは現河川水の主要化学成分濃度を1億倍して、1億年間に海水へ運びこまれた非海水起源成分量を算出したことについてである。まず、地球上の水の総量と太陽からの放射エネルギーもこの1億年間は不変であったと考えられるので、水の循環体の1つを占める河川水の総量も不変であると考えてよかろう。陸水が接触する岩石の種類も不変であるので、主として岩石から溶け出る非海水起源成分組成も大きく変わっていたとは思えない。万一濃度が2分の1というように小さかったとするならば、1億倍したところを2億倍すれば同じ値になり、論理はそのまま適用できよう。この2億年間も海水の状態は現在のそれに近かったと考えられるからである。
 どんな成分がどれだけ海水に供給されていても、それがそのまま海水から除かれていれば、海水の組成は不変ですむわけである。どんな鉱物がどれだけ生成され、海で堆積するかについては、既に4.4節(1)項の表4.14に示した通りである。
 海水の量も化学組成も、この20億年以上もの間不変であったという表現は、一見海は“静的”に見えるが、水の蒸発と供給、化学成分の供給と沈殿および逃失という大変激しい“動的”な世界がその背後にあることを強調しておきたい。

(3) 原始地球形成以後の海水の化学組成の変遷−二次原始大気の変遷
 本章5.1(2),(3),(4)項で詳述し、表5.4に示した二次原始大気は事実上の現地球の大気、水圏、生物体の材料物質で、地球形成時に既に存在していたと考えられている。マグマの海(magma ocean)の原始地球は熱を宇宙空間に発散させて、地球は冷え、水蒸気は海水となる。微惑星衝突で放出された二次原始大気の中の水素ガスやヘリウムは軽すぎて惑星空間に逃失してしまうが、水蒸気などは地球に残った。原始海水の源の二次原始大気の原型は塩酸ガス(HCl)を含んでいたと思われるが、マグマや岩石と接触してカルシウム、ナトリウム、鉄などを溶かし出してかなり中和されたであろう。中和されたといっても、塩酸は原始海水中には含まれていたであろうが、その酸性の海水もやがて岩石と接触して、カルシウムなどを溶かし出して中和されてしまったであろう。ケイ酸塩岩石から元素が溶出するとき、その岩石は粘土に変質する。海水が酸性である間は二次原始大気(表5.4)中に水蒸気(H2O)の次に多量含まれていた二酸化炭素(CO2)は、海水には溶けこめなくて大気に存在するが、海水が中和されて中性になるとCO2は海水に溶けこむ。海水では岩石から既に溶けこんでいたカルシウムイオン(Ca2+)と、この溶けこんだ炭酸物質とは水に難溶の炭酸カルシウム(CaCO3)を無機化学的に大量堆積した。結局、大気中から大量のCO2を固体のCaCO3として除いてしまったと想像される。
 このCaCO3中には、マグネシウム(Mg)もとりこまれ、また粘土にもとりこまれてしまう。したがって海水に大量溶けていたカルシウムイオン(Ca2+)も、またかなりの量のマグネシウムイオンも海水から除かれたことであろう。もう少し詳しく話してみよう。岩石からはCa2+、Mg2+が溶けやすく、したがってごく初期の塩酸酸性の原始海水ではCa2+が最も多く、次いでMg2+やNa+が多かったであろう。ケイ酸塩岩石が塩酸で化学的に風化されると、岩石自体は粘土に変質し、充分な量の粘土の存在は、海水を中性またはアルカリ性に保ちつづけたものと予想される。したがって大気中のCO2は大変能率よく大気から海水に溶けこみ、無機化学的に能率よくCaCO3を生成、堆積したものと思われる。こうして恐らく初期の原始海水では、陽イオンとしては最も多量に溶存していたであろうCa2+が、そしてまたMg2+もK+も粘土などにとりこまれ海水から除かれ、ナトリウムイオン(Na+)は取り除かれにくいので海水中に残り、陽イオンではNa+を、そして陰イオンでは塩化物イオン(Cl-)を主成分とする現海水に似た化学組成に変容したものと想像される。
 CaCO3の生成・沈積により、大気中のCO2も激減し、海水の主要化学成分も現海水のそれに近づいてきた、今から38億年ほど前に、地球では海水中で原始的な生物であるバクテリアが誕生した。その頃、大気中にも海水中にも酸素ガスは存在しなかった。原始的な生命は海水中で進化し、やがて緑色植物登場する。緑色植物は太陽からの光がさしこむ50〜100mほどまでの表面海水中で光合成作用を行って、CO2を取りこんで有機物の身体を作る一方、酸素ガス(O2)を放出する。私どもが生きていくのには、空気中に21%含まれている酸素ガス(O2)が必要である。その空気中のO2について、もう少し話をつづけておこう。
 二次原始大気には、酸素(O)という原子は存在していた。H2OとかCO2、ケイ酸塩鉱物中には酸素原子は、それらの構成元素として存在していたのである。しかし、H原子の数はO原子の数よりはるかに多かったので、OがHと結合してH2Oという化合物になってもなお、Hは多量残り、HはH2として存在することになった。
 二次原始大気中には、酸素ガス(O2)は存在してはいなかったのである。このことは岩石が説明してくれる。
 例えば鉄は空気中にO2があると、酸化されて3価の鉄となり、赤褐色のFe2O3の形で存在するが、O2がないと鉄は2価のままのFeOの形で岩石中に存在する。このことは、岩石中のある元素の存在状態から大気中にO2があったかどうかを判定する可能性を示唆する。岩石中のウラン(U)という元素は、その存在状態が大気中のO2の量によって大変敏感に変わる。今から30億年ほど前の岩石試料をグリーンランドの氷の下から採取して、Uの存在状態を測定したところ、その頃の空気中のO2の分圧は10-9気圧というように大変低く、大気中にO2は事実上、存在していなかったと推定された。
 大気へのO2の登場は、生物の光合成によるものである。私どもが生きていくのに必要な空気中のO2の総ては、緑色植物が作ってくれたものである。
 塩酸酸性の原始海水中には岩石から鉄が溶け、原始海水は2価の鉄イオン(Fe2+)を溶存していたと思われるが、海水中にO2が登場するとそのFe2+がO2で酸化されてFe3+となり、このFe3+は水に不溶な水和酸化物Fe2O3・nH2Oとして沈殿、堆積したと考えられる。大量のFe2O3・nH2Oが海で沈殿したのは、緑色植物が登場した今から20億年前のことであったであろう。実はこうしてその頃生成し、堆積した鉄の酸化物が現在の鉄文明を支える鉄の材料なのである。私どもの現代の繁栄を支える鉄鉱石は、生物が今から20億年ほど前の海で、O2を出して作ってくれたのであり、私どもは生物のこの働きを決して忘れてはならない。
こうして海水に溶けていた鉄も海水から除かれ、またさらに海水の化学組成は現海水のそれに近づくことになる。そして緑色植物の作ってくれたO2は海から大気にやっと出てくることができ、大気中にO2が登場することになる。
 それからというものは、特に本章の5.2(2)節の(C)項で詳述したように、おおざっぱに筋だけ述べると、河川水を通して海洋に運びこまれた主要化学成分は、海水から表4.14に示すような鉱物を作って除かれ、海水の化学組成はほぼ一定の値をとりつづけてきたのであろう。
 なお、前述した無機化学的に生成し、堆積して大量のCO2を大気から除いてくれたCaCO3は、その後陸上に隆起して降水によって溶けてしまい、その溶かし出されたCa2+を使って海で生物が自らの炭酸殻を作って堆積することになった。現在地球上に分布する全ての大量のCaCO3(石灰岩、炭酸カルシウム)は、こうして海洋のプランクトン、貝殻、さんご礁物質など、生物の殻の変容したものである。無機化学的に生成されたCaCO3は消えて、生物性のCaCO3に置きかわったことになる。ここでも、大気の化学組成形成に対する生物の大きな働きのあることが知らされる。
 私どもが生存するためには、大気中の21%のO2の存在が必要だし、CO2は0.03%というのが好適である。酸素ガス(O2)ゼロの大気を21%O2にし、30気圧下97%CO2の原始大気を1気圧下0.03%CO2にしてくれたのも、全て生物なのである。このことを、もう一度繰返し述べておきたい。
 大気も水も地球形成後、割合早い時期に現在のそれらの像に近いものとなったことになる。大事件は地球形成時とそのあとの比較的短い間に起こってしまったことになる。だから、“地球創成紀”の自然界における物の動きは、すさまじく劇的であったと想像できる。』



戻る