『5.2 水の起源と進化
(1) 水の変遷の歴史の描き方
既に表3.1に示したように、地球上の水の92%は海水である。海水は蒸発して降水となり、河川水や地下水となる。水の変遷の歴史は海水のそれであると考えられよう。その海水の源は表5.4に示した二次原始大気である。この二次原始大気は、地球形成の初期に大気に出つくしたと考えられる。
表面がマグマの海の状態の原始地球は、放熱して冷えてくる。そこで、大気中に大量に存在していた水蒸気は液体の水となり、現海水量に近い海は既にそのとき誕生した。
さて3.1節の(3)項で詳述したように、地球上で水は海から出て海に戻る大変速やかな循環の旅を絶え間なく続けてきたし、未来永劫続けていくことになろう。海水の平均滞留時間はたった4,000年、地球大気中の水蒸気の滞留時間はたったの10日間であることも、既に表3.1に示し、3.1節で述べた。
古い時代の海水を今、入手することはできない。古い海洋堆積物中に海水が包蔵されていることもあるが、海水の二次的な変質が激しくて、それから当時の海水の化学像を推定することは困難である。ともかく、海水の化学組成の変遷の事実を刻みこんでいる証拠物質が欲しい。その1つは海で生成した堆積物である。海水の化学組成を指示する証拠物件として最も確かなものは、現海洋水、現海洋堆積物、そして大陸上に隆起した古いいろいろの時代の海洋堆積物である。現海洋堆積物としては、今から約2億年前までのものが存在しているだけであり、それより古い堆積物は現海底には存在しない。一言だけでその理由をいうと、海洋底のプレートの動きによっているからである。
このことを、もう少し詳しく説明してみよう。
全海洋にわたって海洋堆積物を直接採集して、その堆積物の年齢を測定するか、堆積物の堆積速度と堆積物層の厚さから堆積に要した時間を推定することができる。これらのどちらによっても、現海洋堆積物はこの2億年くらいの間にできたものということになる。しかし、実際には海洋水は、固体地球ができた今から45億年ほど前には存在していたと考えられているので、海洋水が存在する限り45億年にわたる堆積物があっていいはずである。これは矛盾であるように見える。実は、それが矛盾ではないのだということを説明しよう。
1960年の初め頃から海洋底の山脈、海嶺の存在が注目され始めた。大西洋、インド洋、太平洋などのほぼ中央部の海底に南北に走る海嶺と呼ばれる山脈が発見された。図5.3(略)に示すのは、中央大西洋海嶺の断面図であり、2〜4kmの隆起を持ち、南北に2,000〜4,000kmも延びているものである。形はほぼ対称的で、その中心の位置が隣接大陸からほぼ等距離にある。このことは大西洋とインド洋では顕著で、太平洋ではやや漠然としている。海嶺の中央部は一般に地殻熱量が大きく、地震活動も活発で、マグニチュード6くらいの地震が頻発している。海嶺の岩石がウラン、トリウム、カリウムなどの放射性同位元素を多量含んでいれば、熱が出ても地震があっても納得できようが、実際にはそこの岩石を採って分析したところ、それらの放射性同位元素含有量が特に大きくはないことがわかった。
結局は、海底の中心部では地下からマントル物質が上昇してきて、これが海水の圧力で上にもりあがることができず、海底で両翼に拡がっていく。このマントルのベルトコンベアに乗って、海洋堆積物は両大陸方向に移動し、やがて大陸塊にぶつかって、そこで大陸の下に没していくことになる。このベルトコンベアの動く速度は1年に5cmほどであるので、最も広い太平洋を横断するのに2億年ほどかかる。つまりマントルのコンベア、マントル対流に乗って海洋堆積物は2億年で地球内部に沈みこんでしまい、現海洋底からはそれより古い堆積物は姿を消してしまうのである。海洋の歴史が45億年あっても、現在の海洋底に2億年より古い海洋堆積物が発見できないのはそのためである。ハワイは日本の方に動いており、インド大陸はヒマラヤ山脈の下にもぐりつづけている。
さて、2億年より古い海洋堆積物は、二次的に変質している危険性はあるが、陸上に隆起したものとしては存在し、私どもは採集できる。それとても今から20億年から30億年前までのものが精一杯である。
新しい時代ほど証拠物件は豊かである。図5.4(略)に示すように、まず現実的には現在を出発点として、できるだけ古い時代の海水の化学組成を描き出すことに努める。この攻め方では、どんなにさかのぼってみても生命の誕生後の今から30億年前後までが限度である。それ以前の証拠物は、まず見出しがたいからである。
そこで一転して、原始時代を出発点として新しい時代に下ってくる攻め方をすることにする。図5.4を見て欲しい。そこでは表5.4に示す二次原始大気の存在を出発点とし、温度が下がるにつれて登場する液体の水、海水を想定し、その頃分布していたであろう岩石とその水との接触による化学過程、水質も変わるが堆積物生成も起こることを考えあわせ、海水の化学組成の変遷を描き出し、生命の起源の頃まで、原始の古い時代から新しい方向に下ってくる。生命の誕生というのは大事件であり、基本的な環境の推定は可能である。私は、生命の誕生した頃で、現在からさかのぼって描き出せる変遷の物語と、原始からくだる変遷の物語とを矛盾することのないように繋ぎ合わせて、一貫した海水の化学組成の変遷の物語を構成させることにした。その攻めの結果を次に示したい。
(2) 現在から過去にせまる攻め方
(A) 海洋堆積物の鉱物種から−海水の主要化学組成が決まるからくり
現海水の主要化学成分濃度は、表4.4(略)に示されている。
海水の蒸発量の大小によって、海域で濃度に多少の違いはあるが、河川水などの影響の著しくはない世界中の海水の主要成分の濃度比はほとんど変わってはいない。したがって海水の電気伝導度を測れば、海水中の各主要成分の濃度は充分な精度で算定できるほどである。全地球上の海水の主要成分がどうしてこのように一定なのかを明らかにすることは、大変興味ある大課題である。
さて、海洋は決して閉じた系ではない。陸地からは河川水など、海上では降水や降下物などを通して水を含む大量の物質が海水中に供給され、一方、海水からは堆積物生成、大気への蒸発を含む逸散を通して水を初め物質が除かれる。さて、固体地球と海の歴史は45億年といわれる。45億年も経つと、自然界における物の動きはその自然の環境に応じて安定な状態になっている。つまり、概観すれば、海水に供給された物質はそのまま海水から除かれており、海水の量もその海水に溶存している主要化学成分の各総量も変わらないようになっている。こんな状態を私どもは定常状態(steady
state)と呼ぶ。そこで海洋は開いた系ではあるが、閉じた系として取扱うことが可能である。ただし、近年の人間生活のせっかちさ、激しさのために自然、特に沿岸域における物の動きが急激に乱されてきたと心配されていることは付記しておこう。
ここでは、主要成分のみを取りあげているが、表5.1(略)に示すように海水は実に多種類の少量および微量元素をも含んでいる。海水中のそれらの挙動は1つ1つ違っており、その動きをしっかり追うことは海に関連するさまざまな事象を理解するうえで有用であることは、いくら強調しても決してしすぎるものではない。
さて、海では各種の粘土鉱物、炭酸塩などが堆積している。それら各鉱物が海で生成し、堆積する事実からかなりの幅はあるが、海水の化学組成の範囲を各鉱物について独自に想定することができる。すなわち、例えばモンモリロナイトという粘土鉱物が海で生成し、堆積し、存在するということは広い幅はあるが、海水の化学組成はある範囲内にあることを示唆する。石灰石にしてもその生成、堆積、存在はモンモリロナイトとは無関係に海水の化学組成がある範囲にあると示唆される。何種類かの鉱物が海底に共存しているという事実は、図5.5(略)に示すように海水の化学組成は、それぞれの鉱物の存在が独自に指示する化学組成の共通部分ということになり、かなり狭い範囲にあることが示唆される。
さて、世界中のどこの現海底の堆積物にも、同じ何種類かの鉱物が見出されるという事実がある。このことから、全地球の現海水の主要化学成分がかなり似ているものになると推論できる。この定量的な熱力学的取扱いは、あまりにも専門的に過ぎるのでここでは詳しくは紹介しないが、私の書いた本(注:『地球環境の化学』および『炭酸塩堆積物の地球化学』)には書いてあるので、興味のある人はそれを参照されたい。
それにしても、簡単に筋書きだけは書いておくことにしよう。表5.5をごらん頂きたい。例えば、海水中に溶けているNa+(ナトリウムイオン)を取りあげて話を進めてみよう。これは他のイオンにもあてはまる論理である。Na+は海洋堆積物中に存在している全ての鉱物と化学平衡にあると考える。ただ、化学平衡にあることを示す平衡関係が定量的に、いいかえれば数値的に測定を通して正しい値がえられる鉱物種をえらぶことが要請される。Na+の場合は海洋堆積物中の粘土鉱物のモンモリロナイトであり、K+の場合は粘土鉱物のイライトである。それぞれのイオンに対して、それにふさわしい鉱物をえらぶ。
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ナトリウムイオン | (Na+) | Na-モンモリロナイト |
カリウムイオン | (K+) | K-イライト |
塩化物イオン | (Cl-) | 0.55(あたえる) |
硫酸イオン | (SO42-) | 炭酸ストロンチウム、硫酸ストロンチウム |
カルシウムイオン | (Ca2+) | 灰十字石 |
マグネシウムイオン | (Mg2+) | 緑泥石 |
リン酸イオン | (PO43-) | OH-リン灰石 |
二酸化炭素 | (CO2) | 方解石 |
フッ化物イオン | (F-) | F-CO2-リン灰石 |
水素イオン | (H+) | 陰イオン数からほかの陽イオンの数を差し引く |
ストロンチウムイオン | (Sr2+) | 炭酸ストロンチウム、硫酸ストロンチウム |
(J.R.Kramer、1965) |
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H-モンモリロナイト+Na+=Na-モンモリロナイト+H+ | (H+)/(Na+)=10-7.4 |
H-イライト+K+=K-イライト+H+ | (H+)/(K+)=10-5.7 |
Ca2Al4Si8O24・9H2O(灰十字石)+4H+= 4SiO2(石英)+2Al2Si2O7・2H2O(カオリン)+2Ca2++7H2O |
(Ca2+)/(H+)2=1013 |
Mg5Al2Si3O14・4H2O(緑泥石)+10H+= SiO2(石英)+Al2Si2O7・2H2O(カオリン)+7H2O+5Mg2+ |
(Mg2+)/(H+)2=1014.2 |
Ca10(PO4)6(OH)2=10Ca2++6PO43-+2OH- | (Ca2+)10(PO43-)6(OH-)2=10-112 |
[Na0.286Ca9.56][(PO4)5.35(SO4)0.30(CO3)0.33][F2.04] | 定数=10-103 |
CaCO3(方解石)=Ca2++CO32- | (Ca2+)(CO32-)=10-8.09 |
SrSO4=Sr2++SO42- | (Sr2+)(SO42-)=10-6.55 |
SrCO3=Sr2++CO32- | (Sr2+)(CO32-)=10-9.15 |
5℃、1気圧、( )は活量 (J.R.Kramer、1965) |
イオン | 計算結果 | 現在の海水 |
ナトリウムイオン(Na+) | 0.45 | 0.47 |
カリウムイオン(K+) | 9.7×10-3 | 1.0×10-2 |
カルシウムイオン(Ca2+) | 6.1×10-3 | 1.0×10-2 |
マグネシウムイオン(Mg2+) | 6.7×10-2 | 5.4×10-2 |
フッ化物イオン(F-) | 2.4×10-5 | 7×10-5 |
塩化物イオン(Cl-) | 0.55(あたえた) | 0.55 |
硫酸イオン(SO42-) | 3.4×10-2 | 3.8×10-2 |
pH | 7.95 | 7.89 |
炭酸アルカリ度 | 4.3×10-3 | 2.3×10-3 |
PCO2 | 1.7×10-4 | 4×10-4 |
全リン(P) | 2.7×10-5 | 1.5×10-5 |
ストロンチウムイオン(Sr2+) | 5.5×10-4 | 4×10-4 |
(J.R.Kramer、1965) |
(A) 全海洋水中の溶存量(kg) |
(B) 10^8年間に海洋に流入する非海水起源成分の量(kg) |
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溶存SiO2 | 0.008×1018 | 40×1018 |
HCO3- | 0.19×1018 | 190×1018 |
SO42- | 3.7×1018 | 30×1018 |
Cl- | 26.1×1018 | 0 |
Ca2+ | 0.6×1018 | 50×1018 |
Mg2+ | 1.9×1018 | 10×1018 |
Na+ | 14.4×1018 | 7×1018 |
K+ | 0.5×1018 | 5×1018 |
(北野 康、1980) |