(財)日本エネルギー経済研究所計量分析部(編)(2001)による〔『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』(217-219p)から〕


5.石油危機と日本の石油備蓄
 日本は2度にわたる石油危機と湾岸危機を経て、国家備蓄と民間備蓄の体制を整えた。2000年3月末現在で、国家備蓄84日分、民間備蓄72日分の合計156日分の石油を蓄えるに至っている。

(1)2度にわたる石油危機

 1973年10月、エジプト、シリア両国とイスラエルとの間に勃発した第4次中東戦争は、開戦から終戦まで36日間という短いものであった。しかし、この戦争に前後して開始されていた中東産油国の‘石油を武器とする戦略’にとってはこれが有利に働いた。つまり、この戦争により先行きの原油供給が逼迫するという市場の観測が、原油1バレル当たり2ドル程度だった原油価格を、1974年の年明けには産油国をして12ドル近くにまで押し上げさせた。これが第一次の石油危機である。これを教訓に日本も石油危機に備えて1976年には石油備蓄法が制定され民間備蓄が義務づけられた。1978年には国家備蓄も法制化され1978年9月からタンカーによる国家石油備蓄を開始している。
 1979年には、世界第3位の産油国であるイランが原油輸出をストップしたのを契機に原油価格が上昇し、一気にOPECが値上げを決議した。1979年にイラン革命、1980年にはイラン・イラク戦争の開始もさらに緊張感を高め、同年末には、バレル当たり40ドルにも近づく原油価格のピークを迎えた。これが第二次石油危機である。第一次石油危機後、OECDの下に世界エネルギー機関(IEA)が設置され石油備蓄が促進されたが、日本も「1980年3月末90日分」の石油備蓄目標に向かって、すでに1975年から民間備蓄の積み増しを開始していた。しかし、イラン革命のため目標達成が1981年3月に遅れた(図V-2-19:略)。

(2)湾岸危機
 1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻した。1991年1月には米国を中心として多国籍軍がイラク空爆を開始、2月末には事実上多国籍軍の勝利に終結したものの、クウェートに侵攻したイラク軍は油田をことごとく破壊し、その復興には長い期間を必要とした。戦争終結後、国連はイラクに対し経済制裁を課したため、クウェートと併せて日量400万バレルの原油が失われたといわれる。
 しかし、消費国は2度の石油危機を経験しているため冷静な対応をする事ができ、さして大きな混乱もなかった。日本もこのころには、民間備蓄・国家備蓄を合わせて約140日分を持つに至っていた(表V-2-6)。
表V-2-6 第一次・二次石油危機/湾岸危機の概要

時期

項目

第一次石油危機 第二次石油危機 湾岸危機 参考 1999年度
73年10月〜74年8月 78年10月〜82年4月 90年8月〜91年2月  
経緯 第4次中東戦争を契機にアラブ石油輸出国の原油供給削減 イラン革命の進展により原油供給中断、湾岸でのタンカー輸送途絶  イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争へ  
一次エネルギーに占める石油の割合 77.4% 71.5% 58.3% 52.3%
(1999暦年)
備蓄水準 67日分

民間備蓄:67日分
国家備蓄:0日分
92日分

民間備蓄:85日分
国家備蓄:7日分
142日分

民間備蓄:88日分
国家備蓄:54日分
156日分
(2000年3月末)
民間備蓄:72日分
国家備蓄:84日分
原油輸入量 2億8,861万kL
(73年度)
2億7,714万kL
(79年度)
2億3,848万kL
(90年度)
2億4,853万kL
(99年度)
原油の中東依存度 77.5% 75.9% 71.5% 84.6%
(出所) 石油連盟、「今日の石油産業」1999年4月をもとにエネ研作成


(3)石油備蓄の現状
 政府は各地に国家石油備蓄基地を建設し、1998年には国家備蓄目標の5,000万kLを達成した(図V-2-20:略)。この過程では、国家備蓄の増強と同時に、民間備蓄の軽減を進めてきた。1989年の民間備蓄義務日数90日分から毎年4日分を軽減し、1993年には義務日数70日体制となった。
 2000年3月末現在、民間備蓄は72日分、国家備蓄は84日分の合計156日分である。』



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