加藤(1995)による〔『地球の水圏−海洋と陸水』(88-94p)から〕


目次

(2) 深層水大循環
 化学トレーサーによる深層水循環の実証−放射性トレーサー

 深層水循環はどの程度の時間規模の現象なのであろうか。アメリカのおこなった大洋縦断地球化学計画(Geochemical Ocean Sections Study、略称GEOSECS)は、1969年から1978年にかけて、全世界の海洋を網羅する大海洋観測を実施した。水温、塩分、溶存酸素、栄養塩、アルカリ度などの海水の化学分析をおこなうとともに、集められた多数の海水試料を使って、炭素14、トリチウムなど放射性トレーサーも測定された。これによって、全海洋における各種成分の分布が明らかとなり、物質の挙動、海水の循環に関する知識は飛躍的に増大した。
 トリチウム(3H)(注:3は質量数で元素記号Hの左肩に書かれる。以下同様)は上層大気中で宇宙線によって生成する放射性核種であるが、それが雨水や微粒子(エアロゾル)にとり込まれて海水に加わる。ところが、1954〜1963年の大気圏核実験による大気汚染で、その濃度は急増し、海洋へのトリチウムの供給量は1963年が最大であった(ワイズ・ロイザー、1980)。つまり海洋に入った時間がわかっていて、その後時間の経過とともに、汚染された海水がどのように動いていったのかを観測するのに都合がよかった。図2-48(略)は大西洋西側におけるトリチウムの鉛直断面図である。一見して、大西洋の北緯20度より北の海域における等濃度線が深層にまでおよんでいるが、南緯50度までの南大西洋では、表層混合層の下部までしかそのような傾向がないことがわかる。北大西洋高緯度海域は、表層水が沈降して深層水を形成しているのである。その潜り込みは5000mまで追跡できるが、トリチウムは表層の濃度の約1/10となる。単純に見積もってみても、5000mまで潜り込むのに約40年かかっていることになる。残念ながらトリチウムは半減期が短かすぎて、その後の北大西洋深層水の動きを説明できないが、放射性炭素14C(注:質量数14の炭素)は半減期が5730年なので、1970年代後半には全海洋における分布が明らかにされ、海水の年齢がわかった。
 図2-49(略)は14C年齢の緯度方向の鉛直分布である。北大西洋高緯度の海水の14C年齢は、表層から深層まで50年より若く、南に向かって徐々に古くなる。大西洋の中層には南に舌状に張り出す比較的若い海水があり、“北大西洋深層水”と名づけられている1つの水塊である。南極からは平均して1000年の年齢をもった“南極底層水”が、大西洋の底層を北上しながら、若い北大西洋深層水と鉛直に混合し、むしろ見かけ上若くなっている傾向が認められる。もう1つの水塊である“南極中層水”は、北大西洋深層水より軽いので、その上層である深度約1km付近を北上する。この水も、上下の新しい海水との混合によって北上しながら、見かけ上の年齢は若くなる。
 太平洋において、大西洋といちじるしく異なっている点は、北太平洋の高緯度には年齢で50年よりも若い海水は表層混合層にしかなく、深層に潜り込むような傾向が見いだされないことである。そして、深層水は南極周辺で形成され、その若い南極底層水が北上しながら、太平洋の2〜4kmの中深層にひろがる古い“太平洋深層水”と上下に混合し、年齢をかさねていくようすがみえる。その分、太平洋深層水は南太平洋では若がえり、北太平洋の深度2km層あたりには、年齢2000年以上の、世界でももっとも古い海水が存在していることになる。海水の14C年齢は、新しい海水と古い海水の混合によって決まる、平均的な年齢であることを銘記しておかなければならない。
 図2-50(略)は表層水の年齢を現在としてみた、深度3kmの海水の年齢分布である。深層水の誕生する海域であるグリーンランド沖の海水の年齢がもっとも若く、南にいくほど古い。南極周辺は、大気二酸化炭素の溶解した若い14Cを含んだ海水が沈降するため、どこでも500年より若い。その海水はインド洋へ、そして太平洋へとひろがっていき、この深度においては北緯20〜40度の海水の年齢がもっとも古く、約2000年の年齢をもっていることがわかる。また等年齢線の傾向から、大西洋では新しい“大西洋深層水”が、むしろアメリカ大陸よりに南下していること、インド洋や太平洋では、大陸を左に見て深層水が北上するように理解できる。
 トレーサーとしての酸素、栄養塩
 海水中の溶存酸素は、大気から溶解するか、光合成によって遊離するかの2通りの方法によって表層水中に加わる以外、供給の道はない。グリーンランド沖や南極周辺海域でいく分過飽和に溶解した酸素は、深層水循環の道程において、表層水から落下してきた生物起源有機物の酸化分解に消費され、時間とともに減少するのみである。図2-51(略)は水深3km面における溶存酸素の水平分布である。北大西洋深層水の溶存酸素濃度は南に向かって低くなり、その傾向はインド洋、南太平洋、そして北太平洋へとつながっていく。この分布から、北大西洋の深層水は若く、インド洋、太平洋の深層水はそれよりも古いことがわかる。また栄養塩類も基本的には、溶存酸素が減少した分、硝酸塩やりん酸塩は海水中に回帰し、珪素は生物の遺骸から溶解する。つまり、年齢の古い海水中は溶存酸素濃度が低く、AOU(注:見かけの酸素飽和量、Apparent Oxygen Utilization;海水の温度と塩分によって決まる酸素飽和度から溶存酸素量を差し引いた値で、有機物の酸化により消費された酸素量を表す)、硝酸塩、りん酸塩、珪酸塩の濃度は高い。各水塊のAOUや珪酸塩濃度の代表値と海水の14C年齢との関係は図2-52(略)となる。Δ14CとAOU・珪酸塩のあいだには、海水の年齢が古いほどAOUおよび珪酸塩濃度が大きくなるという、一定の関係にあることがわかる。Δ14Cは1950年を基準(核実験以前の自然大気の14C濃度)として、それよりも海水がどれだけ古いかを表した値で、マイナスの数字が大きい方が年齢が古いことを表す。またその起点は北大西洋にあり、北大西洋起源水がもっとも若く、もっとも小さいAOUと珪酸塩濃度をもち、北太平洋深層水がもっとも古くて、もっとも高いAOUと珪酸塩濃度を示すことがわかる。その途中経路に存在する各水塊の代表値は、この直線上にほぼプロットされるのである。これは、みかけの酸素消費量、そして珪酸塩濃度がともに海水の古さのトレーサーとして考えてよいことを表している。
 海洋ベルトコンベアー
 海洋全体では、深層水の形成が北大西洋高緯度海域と南極海でおこなわれ、その深層水は大西洋からインド洋と太平洋の深層にひろがっていき、もっとも年齢の古い海水は北太平洋の中層にあり、平均年齢は2000年である。ブロッカー(W.S. Broecker、1991)は、この海水の大循環をベルトコンベアーにたとえて、図2-53(略)のような大胆な海洋大循環像を提唱している。大西洋で沈降してベルトコンベアーとなった深層水の流れは、インド洋北部海域と北太平洋で湧昇し、表層水と混合しながらもとの出発点にもどるのである。たとえば、大西洋の表層で大気二酸化炭素を溶かし込んだ表層水は、深層にひろがっていき、やがて太平洋で湧昇して表層に現われる。表層から落下してベルトに乗る陸起源の微細な砕屑物質もあるであろう。また生物粒子は、ベルトが移動するにつれて変質しながら運ばれる。このように海洋大循環は、海水のみならず海水が抱き込んだ物質も運ぶのである。』



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