酒井・松久(1996)による〔『安定同位体地球化学』(iii-vp)から〕


 まえがき

 安定同位体地球化学の目的は軽元素(特に水素、炭素、窒素、酸素、硫黄)の安定同位体比の変動を利用して地球のいとなみを探ることにある。これらの軽元素は大気、海洋、火山などの地殻表層から上部マントルまでの大小さまざまなシステムに主成分あるいは微量成分として存在し、かつシステム間を行きかっている。たとえば酸素は水素とともに水として海洋を構成する一方、岩石の主成分でもある。岩石と海洋の酸素は全く独立した成分であるかに見える。しかし実際には長い地質時代を通じてみると−もし万能の神がいて岩石の酸素と海洋の酸素に目印を付けていて下さったらの話であるが−かつて岩石中にあった酸素の一部はいまでは海洋にあり逆に海洋にあった酸素が岩石中に見出される、といった酸素の交換が行われていることがわかるであろう。岩石と海洋の酸素の交換は大気や河川水による岩石の風化、海洋底への堆積物の蓄積、海底堆積物の固結、陸地化などの地球的プロセスを通して行われる。酸素に目印がついていれば地球的プロセスの進行速度を解析することができる。より身近な例としては大気中の二酸化炭素を挙げることができる。もし我々が使用する石油や石炭の炭素に目印を付けることができたとしよう。目印を追うことによって我々が大気中に放出する人為起源の二酸化炭素がどんな速さで大気中に広がり、海洋や森林にどんな割合で混じり込んでいくのかを見定めることができるであろう。このような観察が実際にできれば大気中の二酸化炭素濃度がどのようにして決められ、過去どのように変化したか、近未来にどんな濃度が予測されるかなど、環境地球科学の諸問題に答えることができる。
 安定同位体の歴史は1912年のトンプソン(J.J.Thompson)によるネオンの発見までさかのぼることができる。しかし安定同位体が実は万能の神が元素に付けた目印であったこと、特に上記の5つの軽元素の安定同位体が地球科学者にとって特別に便利な目印であることに気づくまでにさらに30年が必要であった。ある学問分野の中に新しい考えと手法が誕生するきっかけは多様である。安定同位体地球化学の場合にはユーリー(H.C.Urey)という1人の巨人が現われ、彼の灯した大きな松明の輝きに魅せられて集まった人々によって、研究の環がどんどん広がり、深められていった。彼の同位体分別に関する論文が現われたのは1947年であるから、まさに第二次世界大戦が終わり、科学者が武器をつくることから解放され若者たちが大学に戻って来た時である。当時のアメリカは戦勝国として自信に満ち世界で最も豊かな研究生活が保障された国であった。
 安定同位体地球化学の誕生から約50年を経た現在、かつては特殊な装置と技術が必要であると考えられた安定同位体比の測定は、造岩鉱物の酸素同位体比の測定など特殊な試料作成法が含まれる場合を除けば、ごく日常的に行われるようになった。日本でもこの20年くらいの間に安定同位体比用の質量分析計を設置した大学や研究機関の数は15を下らないと思われる。しかし安定同位体地球化学の技術的な壁が除かれてきた反面、同位体分別に関する初歩的な知識やそれを地球化学的問題に応用する際の方法論の普及は残念ながら大変遅れている。日本語で書かれた専門的な教科書がほとんどないといってよいこと、また同位体地球化学の論文がほとんど英文誌に発表され日本の大学の学部の学生の目に触れにくいことなどが理由として挙げられる。本書はこのようなギャップを埋めることを第1の目的として書かれた。しかし執筆に当っては次の点にも留意した。第1に安定同位体に限らず一般地球化学の教科書としても十分利用できる内容とすること。このため本書では水素、酸素(水、岩石)、硫黄、炭素、窒素の地球化学的サイクルを背景に安定同位体比の応用例を述べながら、最近の地球化学のホットな問題点がのぞけるようにした。第2にユーリーの灯した明かりがどのような研究者によって、どのようにして広がっていったかを、なるべく人間くさく記述すること。これによってある研究分野が生長していくためには天才ではない個性的で好奇心に満ちた多くの研究者の努力の積み重ねが必要であることを強調したかった。
 安定同位体地球化学は決して独立した学問分野ではない。目印という点から見ても親元素の放射壊変に起因する同位体組成の変動を示すストロンチウムやネオジムなど、また極端なイオン半径のために仲間外れの挙動を余儀なくされる不調和元素など、安定同位体に勝るとも劣らぬ目印が地球化学を支えている。地球のいとなみを明らかにする過程は多くの未知数をもつ連立方程式を解く過程にたとえられる。これらの目印を共有する連立方程式、同位体についていえば“同位体連携方式”あるいは“マルチ・アイソトープ方式”が地球化学の手法として確立されつつある。本書でも限られた紙面ではあるがこのような例を挙げることに努めた。
 本書は歴史(第1章)、理論(第2、3章)および各論(第4〜8章)から成っているが、どの章から読みはじめてもよい。もっとも生物地球化学に興味のある読者は3-4節も読まれることをおすすめする。同位体比は標準試料に対する千分率偏差(δ値)で表わしてある。δ値と標準試料については5ページにまとめてある。
 本書を筆者が書きはじめたのは10年も前のことである。筆者の遅筆と怠慢それに最近の思わぬ長期入院生活によってほとんど諦めかけていた本書が遅まきながら日の目を見ることができたのは、筆者を10年間励まし、責め続けて下さった東京大学出版会の清水恵氏と、窮状を見かねて共著者として参加され第4章と8章を執筆した松久幸敬氏のおかげである。この間未発表データを含め貴重な情報を提供して下さった多くの友人諸氏と、筆者の心身両面の健康回復に尽くした酒井定子に感謝したい。

     1996年4月
酒井 均』



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