関根良弘先生は2004年(平成16年)5月24日に逝去されました。(1924年〜2004年、享年80歳)
高知大学理学部の東 正治教授による追悼文(2004/06/07)を以下に示します。


功 績 調 書

関根良弘(せきねよしひろ)

 同人は大正13年1月15日に滋賀県に生まれ,滋賀県立膳所中学校および旧制第六高等学校を卒業後,戦時中に東京大学理学部地質学科に入学して昭和21年9月に卒業した。東京大学大学院を中退後は,昭和22年9月から東京大学理学部に副手および助手として勤務し,昭和28年12月から通商産業技官として工業技術院地質調査所に昭和46年4月まで勤務した。さらにその後は金属鉱業事業団での9年間の勤務を経た後,昭和55年4月より高知大学理学部教授を務めた。高知大学では昭和57年4月より2年間にわたって学生部長を歴任した後,昭和62年3月には停年により退職し,平成16年5月24日に死亡した。
 この間,同人は教育研究活動と高知大学内の管理運営にも努めた。高知大学においては,理学部地学科に新設されたばかりの資源地学講座担当教授として講座の充実を推し進めたばかりでなく,理学部発展と全学的な諸問題の解決にも寄与した。在任期間には,地学科主任や,人事委員,予算委員,事務の在り方委員などを務めながら学科間の利害調整を行って学部長を補佐するとともに,また,学生部長として寮費負担問題や課外活動などで紛糾が続いた全学的な学生問題を粘り強い話合いで解決するなど優れた手腕と活躍が見られた。
 教育面においては,金属鉱床学を中心にして,燃料地質学鉱物資源学海洋資源学など,資源地学分野のほぼ全領域を網羅する授業科目を担当した。これらの授業では,地質調査所と金属鉱業事業団在職中に自らが国内外での各種プロジェクトリーダーとして推進した鉱物資源調査と探査に関する内容が永年の経験に裏打ちされた理論と実際の両面から多くの実例に基づいて教育された。現在,卒業生の多くが全国の官公庁や教育機関,資源地質関連企業などで技術者として活躍している。また,退職時には鉱床学および鉱物学関連の貴重な蔵書を多く寄贈し,地学科の図書整備と充実にも貢献した。
 研究面においては,同人は,鉱物資源の調査や探査に直接的に役立つ鉱床学の確立と実践に努めた。我が国の代表的な銅鉱床である含銅硫化鉄鉱鉱床(愛媛県積善鉱山)や鉱脈型多金属鉱床(兵庫県明延鉱山)などの成因に関する研究を通じて,各成因型の鉱床はある地質時代のマグマ活動と地質構造運動に関連して特定の“鉱床区”を形成して発達することを明らかにした。その一方で,未知鉱床の存在の可能性については,既知鉱床の性状や規則性を重要視した判断よりも,巨視的・地球化学的立場から有用金属元素の濃集と挙動を確率論的に取り扱うことがより合理的であるとし,日本と米国の既知埋蔵金属量を統計的に処理する新しい解析手法を導入して検証した。この研究は,鉱物資源の将来見通しには鉱床の生成に関する定性的な側面だけの追究に留まらず定量的な検討と予測が必要で役立つことを指摘してその解析手法を提唱したことが高く評価され,昭和37年度の日本鉱山地質学会賞を受賞した。さらに昭和30年代の我が国経済発展期には,大学研究者を積極的に参加させる官民一体となった新方式の金属鉱物資源探査計画を創設して,自らがプロジェクトリーダーとして国内各地で実施された金属鉱物広域調査を牽引する一方で,2000m以深の地下掘削にも対応できる新しい試錐技術の開発にも取り組んで成功するなど,国内鉱業を振興する上での新規方策や技術改善と開発での貢献も大であった。同人の主な国内学会活動は日本地質学会,日本鉱物学会,日本鉱山地質学会(現資源地質学会)であったが,特に日本鉱山地質学会では創立委員として活躍し,評議員を5期務めたほかに副会長と会長の要職を歴任して学会の発展に尽くした。高知大学在任時には,中国四国地方鉱山保安協議会四国部会長を務め,地域にも貢献した。
 同人の社会への直接的な貢献としては,鉱物資源の国際的開発問題に関する国連関連の諸会議や国際学会の集会に実務者として我が国を代表する立場で数多く出席するとともに,また,南米・アフリカ・アジア地域の多くの開発途上国に対しても国際協力事業団とも連携しながら我が国の優れた鉱山開発技術や資源探査技術を技術移転するなどして鉱物資源を将来的に安定して確保するための国策事業を推進した功績も大きい。この間に歴訪した外国は40カ国を超えている。
 以上のように,同人は,学術研究,教育,大学の管理運営の面においても豊かな経験と高い学識をもって貢献し,また数多くの優れた人材の育成に尽力するとともに,地域社会や国際社会の発展にも尽力し,それらの功績は誠に顕著である。』



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