植田(1996)による〔『環境経済学』(38-39p)から〕


日本の公害:水俣病と四大公害裁判
 日本の水俣病は、世界史に残る公害事件である。
 水俣病は、チッソ付属病院長細川一氏が「月の浦の海岸地区一帯に原因不明の中枢神経疾患が多発している」と熊本県水俣保健所に届け出た日に、公式発見されたとされている。1956年5月1日のことであった。水俣病は、医学的には有機水銀中毒による神経疾患を指すが、しびれ・言語障害・難聴・精神異常などの症状を伴い、重症では死亡する。同時に、水俣病は、現代社会における企業活動が生み出した20世紀最大の公害事件の1つであり、公害に対する企業と国家の責任を問うた象徴的な事件でもある。
 水俣病は、チッソの工場排水に原因があったが、その確定には時間がかかった。水俣病の公式発見は1956年である。ところが、有機水銀中毒であるとされたのが1959年、アセトアルデヒドの製造工程に原因があると学界が確定したのが1963年であった。それでも、チッソも政府もこれを認めなかった。政府が、水俣病はチッソの公害であると発表し、水俣病を公式認定したのは1968年であり、公式発見からだけでも12年経っていた。この間に、新潟県阿賀野川流域でも第2水俣病が発生した。
 さらに、潜在していた水俣病患者が大量に顕在化するのは、1973年の第1次水俣病裁判判決での原告の完全勝訴を契機とし、全国的な公害健康被害補償制度が制定され、行政的な救済が受けられるようになってからである。すでに、第1、第2水俣病認定患者だけで約3000名に上っている。このことだけからでも、水俣病の被害がここまで大きくなった責任は、チッソだけではなく政府にもあることは明らかである。
 水俣病問題が世界の経済発展や地域開発に与える教訓は数知れない。水俣病の発生を繰り返してはならないことはいうまでもない。しかし、現実には、世界の各地で水銀汚染が発見され水俣病に似た症状や複合汚染による新しい症状が報告されている。
 重化学工業を中心とした急速な経済成長は、日本各地で深刻な公害を引き起こした。なかでも、水俣病、第2(新潟)水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病は、四大公害と呼ばれ、日本の産業公害の典型的なものであった。
 四大公害は、表に示すように加害企業に対して訴訟が起こされ、いずれも原告(被害者)側の勝訴に終わった。これを、四大公害裁判と呼ぶ。
 被害者の救済は長期にわたる課題である。1973年に成立した公害健康被害補償法により認定されている公害病患者は、四大公害以外の鉱毒事件なども含めて大気汚染を中心に10万人を超えており、すでに死亡した患者も1500人に達している。
  水俣病 新潟水俣病 四日市ぜんそく イタイイタイ病
典型的症状 魚介類を食べて中枢神経がおかされ、めまい・手足のしびれから死亡に至る。 水俣病に同じ。
気管支炎からぜんそく症状、肺炎・肺気腫から死亡に至る。 骨軟化から骨折し、「イタイイタイ」と叫びつつ死亡に至る。
被害地域 熊本県水俣湾周辺地域 新潟県阿賀野川流域 三重県四日市市 富山県神通川流域
原因 工場排水中の有機水銀。 水俣病に同じ。 石油化学コンビナートから排出された硫黄酸化物・窒素酸化物。 神岡鉱山から排出されたカドミウム。
提訴 1969年6月 1967年6月 1967年9月 1968年3月
判決の概要 1973年3月
原告勝訴
1971年9月
原告勝訴
因果関係の立証責任は企業にあるとした。
1972年7月
原告勝訴
コンビナート各企業の共同不法行為の考えを示した。
1972年8月
原告勝訴
疫学的因果関係の証明があれば賠償請求できるとした。