宮本(1989)による〔『環境経済学』(106-120p)から〕


第2節 公害問題と資本主義
1 公害の基本的特徴

 環境問題の性格は、公害にもっともよくあらわれている。公害は次の三つの特徴がある。

生物的弱者
 第一は、被害が生物的弱者からはじまることである。先述の水俣病のように、公害の前史は汚染に弱い植物や動物の損傷や死滅からはじまる。そして、人類の場合、環境が悪化すると抵抗力の弱い病人、高齢者や子供がまず健康を害する。1987年3月末現在、日本の大気汚染認定患者9万8694名の年齢別構成をみると、14歳以下の年少者が33.9%、60歳以上の高齢者が28.5%で合計して62.4%になっている。これは水俣病の場合にも同様で、発病時には年少者(胎児性水俣病患者をふくむ)や高齢者が多かった。いまは圧倒的に高齢者でしめている。イタイイタイ病の認定患者は中年の経産婦の発病が中心であったが、これは妊娠という生物的弱者の状況にあったときに発病の原因をみたといってよい。
 病弱者、高齢者と年少者に被害者が集中するのは、生物としての性格によるだけでなく、社会的行動様式にも原因がある。これらの人たちは一日の行動圏が住居を中心とした学校区のような狭域社会に限定されている。汚染は食物連鎖や大気拡散などによって、地理的には汚染源とは離れた場所におこる場合もあるが、局所的な場合が多い。これらの生活行動が狭域に限定されている人たちは、24時間、汚れた空気を吸い、汚水を飲み、騒音・振動にさらされることになり、被害が深刻になる。この人たちと同じように「全日制市民」とよんでよいような、主婦や自営業者の場合も局地汚染の被害にあいやすい。このことは大気汚染認定患者のうちで、20代から50代の青壮年層の部分で男より女に被害者が多いことにあらわれている。たとえば、自動車沿道汚染の被害は典型的に主婦にあらわれる。被害者が生物的弱者や主婦を主体とするということは、資本主義社会において公害が経済問題となりにくく、公害対策がおくれた理由のひとつである。なぜならば病弱者、高齢者、年少者や主婦は企業に雇用されていないために、彼らの被害は企業にとって、なんらマイナスにはならない。個別企業にとって損失とならないだけでなく、短期的には資本主義経済全体にとってもマイナスにはならない。むしろ、公害患者の発生による医療費の上昇は医薬企業にとっては新しい市場を生みだし、GNPのプラスとなってあらわれる。この社会では、人間は商品として売買される労働力として評価されるのであるから、労働力を商品化していない生物的弱者は市場価値がなく、その健康問題は経済の中ではきりすてられてしまう。つまり公害は資本主義企業あるいは国民経済の損失とはならず、その点では労働災害とはちがうのであって、自動的に救済あるいは防止策がとられないのである。またこれは労働組合が企業内対策を労使交渉で要求できる問題でもない。したがって、資本主義の市場原理の外側から社会的正義あるいは人権の擁護という立場で公共的介入をしなければ、公害は社会問題化せず、また公害対策は始まらないのである。

社会的弱者
 第二は、被害が社会的弱者であることだ。第2章でみたように、現代社会では企業とくに大企業が環境を独占する傾向がある。良好な環境をもつ住宅地は高価となり、高額所得者が居住する傾向がある。たとえば、1986年大阪市内に立地する一部上場企業(大企業)常勤重役2334名中、環境の劣悪な大阪市内に居住する者は157名(全体の6.7%)にすぎず、高級住宅地として有名な西宮、芦屋、宝塚、神戸などの兵庫県に832名(35.6%)、他は大阪府下でも豊中などの環境のよい都市や京都・奈良両市に住んでいる。大企業は集積利益をもとめて大阪市へ集中し、ここは面積当り日本一の製造出荷額をもっている(東京都区部の1.6倍、全国平均の51倍)のだが、それから生ずる集積不利益も日本一で、みどりが少なく、大気・水汚染もひどいので、重役たちはその所得源の大阪市から避難しているのである。大阪市は大阪府下31市中、一人当りの市民税は23位(1985年度9万4323円)、兵庫県芦屋市の28万6830円にくらべ33%にすぎない。つまり、大阪市は日本ひいては世界の有数の商工業都市(株式取引量世界第3位)であるが、低所得者の街なのである。日本でもっとも人口当りの公害病認定患者の多い大阪市の西淀川区、大正区などの臨海部は、その中でも、低所得者層の人口が集積している地域である。これは川崎市南部、尼崎市南部、名古屋市南部などの古くからの臨海工業地帯に共通している。しかも、これらの地域は、工場の汚染がひどいだけでなく、幹線道路や高速道路が区域に設置され、自動車汚染も相乗している。
 一般的にいって、汚染地域の住宅は事業所に隣接しているので、交通費が不要であり、環境が劣悪なために地価や家賃が安く、また物価が安いので低所得者が居住している地域である。低所得者の住宅の質は悪いので、大気汚染や騒音・振動などの被害にあいやすい。低所得者は栄養条件も悪く、疾病にかかりやすい。彼らは公害が発生した場合に、対抗策として、自前で二重窓に改造しエア・クリーナー装置をつけるというようなことはできず、また専門的な良い医療をうけたり、弁護士に依頼して法的救済をうけることも困難である。日本の場合は、医師、弁護士あるいは研究者が自発的に集団となって被害者の側にたって無料あるいはそれにちかい形で被害者の救済とそのための調査研究をしているが、アメリカのアラマゴールド水銀中毒事件と農薬キーポン中毒事件やカナダのインディアン水俣病事件の被害を現地でしらべた経験によると、低所得の被害者は適正な医療をうけられず、また資金が不足するために裁判すら継続できない状況である。E・J・ミシャンは『経済成長の代価』の中で過去10年のイギリスの高速道路などの道路建設を例にとって、道路公害の被害者はつねに労働者階級ないしは下層中産階級であるといっているが、欧米の場合も日本と同様に汚染の影響をうけやすく、また救済の困難なのは社会的弱者なのである。
 さきに大阪市を例にとったが、公害の深刻であった川崎市南部、富士市、四日市市、尼崎市南部などの工場都市には、汚染源の社長・重役はもとより、工場の管理者とその家族は住んでいない。工場長はほとんど単身赴任をしている。その理由は現地にはよい学校や病院もなく、環境が悪いというのである。高額所得者は、居住の選択が自由であり、居住環境が汚染されても、住居は堅牢で騒音や振動にあわず、エア・クリーナー装置をつけ、汚染されていない食品を選択できる。かりに公害にあっても、専門の医師や弁護士をえらぶことができる。社会的強者たる大企業の経営者や有力な政治家のみが公害にあうとするならば、自主自責にまかせても解決は可能である。したがって、このような公害は、人道上の問題であっても、政治経済学がとりあげるべき問題ではないであろう。
 政治経済学が公害を重視するのは、被害が社会的弱者に集中し、貧困と相乗して生活困難を生みだすためである。公害の被害者は貧困な農漁民や労働者階級を中心とする下層市民であり、欧米ではとくに少数民族である。近年は多国籍企業の進出によって、産業公害は次第に発展途上国の社会的弱者になる傾向がでている。このような経済的特徴をもっているために、ここにはM・フリードマンのいう「選択の自由」はない。自主自責という資本主義の原理にまかせれば、社会的不平等がおこり、被害は救済されない。どうしても公的救済と公的対策(所得保障、安全な住居、適正な医療などの総合的な対策)が必要となるのである。ローマクラブのいうように、汚染は終局的には地球人類全体の損害へとつながっていくのだが、環境破壊による損失、とくに健康障害あるいは死亡には経済的序列がある。環境破壊がはじまると、まず貧困者が犠牲に供されるのである。この社会ではその間は放置され、それが金持ちあるいは社会的地位の高い人たちにも恐怖をあたえるようになると、はじめて本格的な対策がはじまるのである。

絶対的不可逆的損失
 第三は、公害をふくむ環境問題が、他の経済的損失とちがい、事後的に補償が不可能な絶対的不可逆的損失をふくんでいることだ。資本主義経済には補償原理があり、ある経済行為によって利益をうるものは、損失をうけたものにその利益の一部で補償をすることによって、社会的公平が達成されるとされている。だが、公害・環境破壊には、この補償原理は十分に作用しない。たとえば、臨界コンビナート開発を例にとろう。海岸を埋立ててコンビナートが造成される場合、補償原理によって、コンビナートの企業(埋立て主体が支払う場合でも、補償金は地価をふくめて売るので、実質的には企業)から漁業権を喪失する漁業者には漁業補償金、海浜を利用していた海水浴場業者には見舞金が支払われる。しかし、このコンビナートが操業後公害をだした場合には、この補償原理は自動的にはたらかない。世論や運動の結果、公害の事実と加害の責任がみとめられた場合に、公共団体が条例あるいは法律をつくって行政的に補償するか、裁判や直接交渉で企業責任がみとめられて、はじめて賠償がおこなわれる。
 資本主義社会では、人間の健康や生命の価値は、稼得能力(商品としての労働力の生涯価値)を基準にして貨幣に換算して評価する。被害者が金銭賠償をうけるのは、当然のことであるが、問題はこれによって被害者が原状に回復しないということである。たとえば新潟水俣病患者今井一雄はエリート農民であり、余暇はギターを弾く気性の明るい青年であった。水俣病の結果、彼の手足は麻痺し、農業経営を創造するたのしみを失い、二度とギターをひくこともできなくなった。この青年が裁判で900万円の賠償金をもらったが、それによって彼の健康は回復せず、彼の輝かしい農民としての人生はもとにもどることはない。
 このように、公害病は治癒できない場合が多い。ましてや死亡してしまえば、賠償をうけても、生命はもとにもどらない。
 このような不可逆的損失は自然や街並みの破壊についても発生する。ハイテク企業などによるシリコンバレーの地下水の汚染、工場・家庭排水による琵琶湖やアメリカの五大湖など閉鎖水面の汚染、あるいは開発による瀬戸内海の埋立てや奈良の歴史的景観のある丘陵地の宅地開発などは、とりかえしのつかない損失をまねいているといってよい。イタリアのヴェニスは、対岸の石油コンビナートの建設によって、大気汚染と地盤沈下が進行しているが、この中世都市の博物館といってもよいヴェニスをもう一度再生することは困難であり、いまの状況は人類史の遺産を失いつつあるといっても過言でない。
 絶対的損失とは、(1)人間の健康障害および死亡、(2)人間社会に必要な自然の再生産条件の復旧不能な破壊、(3)復元不能な文化財、街並みや景観の損傷などである。このような損失は事後的な補償では不十分であり、損失のおこる行為を停止するか、予防しなければならない。かりに経済過程において絶対的損失が発生した場合には、ただちに、その生産、交通を一時停止し、危険商品の取引や消費を差しとめ、代替手段をさがし、もし代替手段がなければ、そのような生産、流通、消費は完全に停止しなければならない。このように、公害・環境破壊は賠償だけでは対策にならず、差止めが必要なのは、絶対的不可逆的損失が生まれるためである。
 絶対的損失が発生して以後、どれだけ貨幣的補償をしても、社会的損失は回復しないとすれば、環境アセスメントをおこなって絶対的損失が発生しないように予防することがのぞましい。開発行為にあたっては、費用便益分析がおこなわれることがあるが、それだけでは不十分で、環境アセスメントが必要な理由はここにある。したがって、アセスメントによって絶対的不可逆的損失が予測される場合は、開発の方法などを変更するか、対策がみつかるまで延期するか、あるいは中止すべきことになる。
 予防や差止めという対策は、他の経済政策とちがって、企業や個人にとってきわめて厳格であり負担が重くなる可能性がある。そこで、政府や企業は絶対的損失の範囲をできるだけ小さくしようと考える。科学の未発達もあって、相対的損失と絶対的損失とは明確に区別できず、図3-2のようにその中間に「薄明」の部分がある。たとえば、大阪空港や新幹線の公害事件では、騒音障害がこの「薄明」の部分とされた。政府や当時の国鉄は、騒音や振動は水俣病のように重症の病気はおこしていないので、相対的損失であるとして差止めをみとめず、損害賠償ですませようとした。しかし、被害者は騒音や振動にたえずなやまされ、いらいらしたり、不眠になり、明らかに不健康な症状があらわれて絶対的損失が生じているとした。そして、大阪空港事件では夜9時以降翌朝7時までの夜間航行の停止、新幹線事件では110キロメートルへの減速という差止めを要求した。裁判所は政府や国鉄の主張をみとめて、差止めはみとめなかった。騒音や振動による健康障害がつづけば、病気へと進行する可能性はとくに生物的弱者には大きい。また、かりに難聴のような明確な疾病にならなくても、正常で健康な生活や家庭の静穏な中での夜間の団欒がうばわれるというのは、絶対的損失と考えてもよいのではないか。アメニティの要求が切実になれば、絶対的損失の範囲が大きくなってくるであろう。この「薄明」の部分は、絶対的損失と認定して対策をたて、もし科学的な安全が保証されれば、その段階で相対的損失とすべきではなかろうか。科学的に100パーセント証明されないからといって、絶対的損失をみとめず、差止めをのばしてきた失敗は、水俣病や四日市ゼンソクなどの過去の公害事件で経験ずみのことである。
図3.2 社会的損失
(注:原著は円形)


相対的損失


区分不明の領域


絶対的損失



 
2 公害とはなにか
定義

 庄司光と私は『日本の公害』(1975年)において、現代の公害問題を次のように定義した。少し修正して再記しよう。@公害とは都市化工業化にともなって大量の汚染物の発生や集積の不利益が予想される段階においてA生産関係に規定され、企業が利潤追及のために環境保全や安全の費用を節約し、大量消費生活様式を普及しB国家(自治体をふくむ)が公害防止の政策をおこたり、環境保全の支出を十分におこなわぬ結果として生ずるC自然および生活環境の侵害であって、それによって人の健康障害または生活困難が生ずる社会的災害である。
 したがって、公害は自然災害とはちがって、経済政策や経済制度の改革や変革によって、制御または防止できる社会問題である。公害は現代社会に共通して発生しているが、国民経済の成長率が高く、大企業の競争がはげしく、産業構造が汚染型であり、大都市化が急速で、大量消費生活様式が普及している国で、かつ基本的人権が確立せず、言論出版の自由や住民参加などの民主主義(とくに地方自治)の未発達あるいは総合的文化や環境教育の未熟な国ほど、深刻な様相を呈している。資本主義国では、被害者は労働者階級、農漁民を中心に貧困階層や差別された少数民族に集中してあらわれるので、他の貧困問題と相乗して社会問題化するのである。
 この定義は都留重人の定義をはじめとする1970年代初頭の論者の意見を参考にして、日本の実態をふまえてつくったものである。第1章でのべたように、素材から体制へという規定にプラスをして経済構造、政治制度などを総合したものである。基本的に修正をする必要はないが、その後の変化をふまえて、若干の説明をつけ加えたい。

現代社会主義と公害
 まず、この規定は現在資本主義の公害についてのべたものだが、社会主義の公害をどう理解するかである。東欧や中国では資本主義の高度成長期の日本と類似のあらゆる公害がおこっている。この原因を考えてみると、現代の社会主義国は資本主義をのりこえた未来の社会形態としてとらえてよいかどうかという基本問題とかかわってくる。たとえば、中国が台湾にくらべて、いちじるしく生産力が低く、かりに商品生産のみで表示すると、1987年で台湾は一人当り国民所得は5000ドルだが、中国は300ドルであり、他の生活水準でくらべても格差が大きいのはなぜかということである。台湾は大学への進学率は日本と同様で世界でも最高の教育水準を示している。台湾には貧富の大きな格差があり、社会保障が十分でなく、公害問題が深刻化しつつある。また国民党独裁政治をようやく離脱したばかりで、民主主義の発展はこれからであり、国際的には孤立し、アメリカとの関係などたくさんの問題点がある。しかし、中国が台湾とくらべていちじるしい生産力や教育文化水準の格差があるのはなぜかということは、十分に検討すべき課題と思われる。
 今後の研究の発展をみねばならぬが、私は現代社会主義国の現状について次のように考える。現代の社会主義国の多くの国は、資本主義の十分な成熟の中から誕生したのではなく、いわば封建制末期か資本主義の未成熟な時期に、市民革命をへずにあるいは不完全な革命のままに誕生したという特殊な性格をもっている。このため技術水準などの生産力が低位であり、生産関係を未成熟なものにし、基本的人権、民主主義が確立せず、文化水準や自治能力を低位なものにしていることは疑いもない。つまり現代社会主義国は現代資本主義国にくらべて人類史の先進ではない。むしろ近代、とりわけ自由競争の過程が未成熟なため、経済面では合理的な専門の経営技術や管理能力をもった経営者層が生まれず、他方、労資紛争の中で近代的労働条件を確立するのとひきかえに、商品生産者としての社会的責任をもつような労働者が誕生するような生産システムが未確立なまま社会主義国となったのである。また政治的には市民社会の個人の自我の確立、言論・思想の自由、基本的人権と民主主義の形成のための闘争が十分におこなわれなかった。したがって、政治から自立して自由な言論や思想の表現をもつジャーナリズムや大学・アカデミーが育っていない。三権分立が実質的には成立していず、管理能力をもった経営者や官僚が少ないので、戦時型あるいは革命中のような一党独裁でなければ、秩序が維持できない。つまり、多くの現代社会主義国は、たてまえはともかく実質は資本主義国にくらべて、人類史上の完全な先進国(社会)とよべるに値しない。むしろ、近代化の道程としては後進的であって、かなりの長い期間、近代化を追体験をせざるをえない状況である。もちろん、社会主義的計画経済をとっているための利点が、宇宙・軍事技術のような特定部門について発達しており、また教育やや福祉などの公共サービスにおいて資本主義国より優位をしめ、低位の生産力の下でも生活の安定が保障されていることは明らかである。しかし、全体として評価すれば、右のように近代化の後追いをしているといってよいのでないか。かつてポーランドが生んだ偉大な経済学者O・ランゲは社会主義経済では社会的費用を内部化できるので公害は発生しないと考えていた。しかし、ポーランドや中国に招待されて調査したところでは、現在の社会主義国においては、公害防止の技術開発は日本よりおくれ、環境アセスメントの実施や公害防止費用の事前のコストへのくみいれなどはできていない。中国の場合も、これらの制度化をこころみており、この点ではようやく公害対策をとりはじめた台湾と同様であり、決して先進的ではない。しかも困難なことは本源的蓄積が不十分なために、慢性的な資本と有能な労働力の不足をまねき、その上、軍事費が大きく、その条件の下で資本主義に追いつき追いこせという急激な成長政策をとっているため、企業の環境保全支出や政府の公園・下水道などの社会的共同消費手段への投資はあとまわしとされがちである。つまり、国民経済全体が生産力をあげるために、国家主義的な競争をすすめ、国有企業が極大の生産をあげることを目的とした企業主義の原理でうごいているので、生産と人間環境とのバランスのとれた計画をすすめるという原理が不十分にしかはたらかないのである。
 このような国家主義と企業主義の条件の下で、しかも、一党独裁の下、特定の教義が全生活を指導する社会において生産手段が国有化されていると、公害問題は発生しやすく、また防止がむつかしい。公害を告発する世論や運動はおこるが、国有企業であるために、民事的な裁判が政治的になる場合がある。また、国有企業の過失を指摘し、基本的人権をもとめる運動が反政府運動のようにとられて発展しないといわれている。新聞の多くも国有化されて政府と一体化しているので、住民運動について十分な報道をしないといわれている。これらの現象は、非民主主義的な一部の資本主義国と同様である。日本では大企業と政府が密着し、三権分立の民主主義が弱く、つねに営業権・財産権が他の基本的人権より優位をしめ、天皇重体時の自粛にみられるように、実質的に言論に偏向がみられるので、現代社会主義国の実情はおどろくべきことでないかもしれない。しかし、人類の未来をひらくと自賛している社会主義国が日本と相似の現象をひきおこしており、市民社会としてみれば日本よりおくれているというのは、その体制に基本的な欠陥が内在しているといってよいのではないか。
 社会主義の公害について、これまで、生産力の低位、中央集権的官僚主義、一党独裁にみられる民主主義の未発達、人権や文化の未熟さなどに原因をもとめてきたが、おそらく、その原因は生産関係にもとめねばならぬのではなかろうか。生産力の水準の長期にわたる低さや上部構造の非近代性は現代資本主義と相似の部分の多い生産関係にもとめられうのではないか。いずれにしても、公害問題や環境政策からみるかぎり、現代社会主義は、マルクスの考えた「自由の王国」という未来社会へむかう先進的な生産関係をもっているとはいえず、また、現代資本主義国と基本的にちがった未来の段階にあるとはいえない。むしろ「近代化」の過程にある「発展途上国型社会主義」といってよいのでないか。さて、このように現代社会主義をみるならば、これらの国で公害が発生しているからといって、公害の本質は都市化工業化に必然的にともなうとして、体制的な原因、あるいは生産関係に由来することを否定し、政治経済学的考察を避けるのはまちがいであろう。現代の東欧諸国や中国の公害は、現代社会主義の生産関係によっており、その上で中間システムに原因をもとめねばならないだろう。そのいみでは政治経済学の対象となりうる。
 また、現代日本の公害は、まさに現代資本主義の生産関係、中間システムから説明して、それとともに日本の歴史的特殊性から明らかにされるのである。公害は体制概念でなく機能概念であるという新古典派の考え方は、日本の現実をみればまちがいであることはすぐに明らかになろう。日本の公害問題ひいては環境問題は、水俣病、自動車の排ガス規制問題あるいは大阪空港公害事件のいずれをとっても、企業の利潤原理とそれを守る企業国家のごとき政府の政策からおこったものであり、さいきんの瀬戸内海埋立てや東京湾の改造のような環境問題は、一企業の失敗でなく、まさに資本主義の体制的な失敗なのである。消費者の責任のようにみえる自動車公害、都市再開発やリゾート開発による自然破壊も、自動車資本、不動産資本や観光資本とその意志にしたがう政府の行動を規制しないでは、基本的対策はとれないのである。公害を体制概念とせずに機能概念とする主張は、その主観的企図にかかわらず、公害の原因を説明できず、加害者たる企業・政府・自治体を擁護し、有効な環境政策を提示できぬことになってしまう。住民の世論と運動を背景にして資本主義的企業活動に公共的な介入ができねば、公害はなくならない。公害対策について市場原理あるいは企業間競争が有効にはたらいて、汚染物の削減がすすむ場合があるが、それはすでに公害防止の政策や制度ができていて、かつそれが厳格にはたらいている場合のみである。

公害とその他の災害との関係
 公害は環境汚染・破壊にともなって生ずる社会的災害であるが、現代では類似の被害がふえている。産業公害の場合、労働災害・職業病との連続性がきわめて重要である。なぜならば、労働者は労働過程において、高濃度の有害物質に曝露され、いわば公害の実験動物とされているようなものである。この有害物質が煙突や排水口を通じて環境を汚染すれば公害となる。そこで、労働災害や職業病の経験が公害病の解明に役に立ち、また、労働災害や職業病の防止が公害の防止のいとぐちになるといえる。しかし、現実には先述のようにマルクスが『資本論』の中で、不変資本充用上の節約の一例として、労働災害・職業病の防止費用を企業が節約すると指摘したことが、いまなおつづいていて、この研究や対策がおくれているので公害の参考とされていない。かりに、深刻な労働災害・職業病がおこっていても、それが企業の外の公害対策にすぐに役に立つのではない。むしろ労災の事実が無視されているのが現状である。
 たとえば、アセトアルデヒドの製造工程で有機水銀が使用されるようになったのは、1910年代であり、1937年にはその労働災害を報告した研究論文がドイツで発表されている。また戦後、水俣病発表直後に調査にきたアメリカの公衆衛生官がこのことに言及している。にもかかわらず、水俣病の原因解明は第4章でのべるように、企業と政府の妨害もあって、熊本大学研究班は6年以上も血のでるような思いでとりかからねばならなかった。さきにものべたが、アスベストの被害も非常に早くわかっていたが、発症までに10〜45年かかるという潜伏期間があることもあり、完全な検証には長年月かかった。ニューヨーク市立大学医学部環境研究所のセリコフ所長らのグループによる、アスベストを使用した労働者の健康の悉皆調査というおどろくべき成果によって、ついにアスベストが肺ガンとメソリオマの原因となることがつきとめられ、1970年代後半から、多数の裁判がおこなわれている。しかし、日本ではいまだに世界で二番目の26万トン(1987年)のアスベストが使われている。アスベストの労災についての解明はおくれており、その環境汚染の影響評価はこれからであり、ようやく学校など公共施設の一部の補修がおこなわれているにとどまる。先述のアメリカのヴァージニア州ホープウェル市で発生した農薬キーポン事件のように、化学物質による労災と公害との連関のような問題はこんご大きな問題となろう。だが、労災は資本主義企業にとって直接の被害を生みだすが、産業公害は先述のように企業外の住民の被害であって、企業の損失とはならない。そのいみでは両者は異なる。
 また図3-3のように、近年商品の消費や廃棄にともなう公害が多くなっている。薬害・食品公害などは、「公害」ということばを使っているが、環境汚染ではなく、商品流通という資本主義の営業それ自体のひきおこす災害である。本来商品とは社会的有用性をもつものであって、それが反対に害悪をあたえたといういみでは、薬害や食品公害は商品流通の基本的な性格を侵すもので、明確な犯罪であろう。
図3-3 災害と公害
  自然的災害
(地震、風水害など)
社会的災害 産業公害
(水俣病、四日市ゼンソクなど)
薬害(スモン病)、食品公害など
商品・サービスによる害
都市公害
(自動車排気ガス、その他複合汚染)
基地公害
公共事業公害
労働災害
(職業病)
産業事故
(ガス爆発、油流出)
交通事故、地下街事故など 戦災など
(原爆病など)
  産業災害 都市災害 権力災害

 薬害・食品公害は私企業の利潤追及による安全の軽視とそれをみとめた政府の規制の欠陥によっておこるという点では、公害と共通している。しかし、公害は正常な商品生産・流通・消費の過程でおこるのであって、薬害・食品公害のように商品そのものが有害なのではない。また水俣病などは食品を通ずる中毒であるが、森永砒素ミルクとはちがい、環境汚染を媒介にしているという点では異なる。食品公害や薬害は、そのいみでは環境問題とはいえない。
 佐藤武夫らが明らかにしたように、災害は素因と拡大因がある。自然災害では素因は自然的エネルギーだが、拡大因は都市の安全無視の構造や防災対策の欠陥など社会的なものである。またその社会的諸結果をみると、経済的弱者としての労働者階級などの都市の下層民や農漁民を主たる被害者としている。日本では、このいみで自然災害は人災といわれるように社会的災害ということができるかもしれない。広いいみでは公害は災害の中に包摂されうる。また、環境問題の中には、工業用水・ガスの過度くみ上げによる地盤沈下地域が風水害にあうというように、公害と自然災害が複合するものがある。おそらく、自然破壊や地球規模の環境汚染の帰結は自然災害であろう。そのいみでは、環境問題は自然災害をその社会的結果としてふくんでいるが、素因は必ずしも地震や台風のような自然そのものではない。人間の活動、とくに企業活動が素因である。むしろ拡大因が自然の影響といえる場合が多い。また、公害やアメニティの喪失は自然災害とはちがう独自の社会問題である。その対策や社会運動のあり方も独自性をもっている。そのいみでは、公害は自然災害としての共通性と同時に独自性を明らかにする必要があろう。』