『第2節 公害問題と資本主義
1 公害の基本的特徴
環境問題の性格は、公害にもっともよくあらわれている。公害は次の三つの特徴がある。
生物的弱者
第一は、被害が生物的弱者からはじまることである。先述の水俣病のように、公害の前史は汚染に弱い植物や動物の損傷や死滅からはじまる。そして、人類の場合、環境が悪化すると抵抗力の弱い病人、高齢者や子供がまず健康を害する。1987年3月末現在、日本の大気汚染認定患者9万8694名の年齢別構成をみると、14歳以下の年少者が33.9%、60歳以上の高齢者が28.5%で合計して62.4%になっている。これは水俣病の場合にも同様で、発病時には年少者(胎児性水俣病患者をふくむ)や高齢者が多かった。いまは圧倒的に高齢者でしめている。イタイイタイ病の認定患者は中年の経産婦の発病が中心であったが、これは妊娠という生物的弱者の状況にあったときに発病の原因をみたといってよい。
病弱者、高齢者と年少者に被害者が集中するのは、生物としての性格によるだけでなく、社会的行動様式にも原因がある。これらの人たちは一日の行動圏が住居を中心とした学校区のような狭域社会に限定されている。汚染は食物連鎖や大気拡散などによって、地理的には汚染源とは離れた場所におこる場合もあるが、局所的な場合が多い。これらの生活行動が狭域に限定されている人たちは、24時間、汚れた空気を吸い、汚水を飲み、騒音・振動にさらされることになり、被害が深刻になる。この人たちと同じように「全日制市民」とよんでよいような、主婦や自営業者の場合も局地汚染の被害にあいやすい。このことは大気汚染認定患者のうちで、20代から50代の青壮年層の部分で男より女に被害者が多いことにあらわれている。たとえば、自動車沿道汚染の被害は典型的に主婦にあらわれる。被害者が生物的弱者や主婦を主体とするということは、資本主義社会において公害が経済問題となりにくく、公害対策がおくれた理由のひとつである。なぜならば病弱者、高齢者、年少者や主婦は企業に雇用されていないために、彼らの被害は企業にとって、なんらマイナスにはならない。個別企業にとって損失とならないだけでなく、短期的には資本主義経済全体にとってもマイナスにはならない。むしろ、公害患者の発生による医療費の上昇は医薬企業にとっては新しい市場を生みだし、GNPのプラスとなってあらわれる。この社会では、人間は商品として売買される労働力として評価されるのであるから、労働力を商品化していない生物的弱者は市場価値がなく、その健康問題は経済の中ではきりすてられてしまう。つまり公害は資本主義企業あるいは国民経済の損失とはならず、その点では労働災害とはちがうのであって、自動的に救済あるいは防止策がとられないのである。またこれは労働組合が企業内対策を労使交渉で要求できる問題でもない。したがって、資本主義の市場原理の外側から社会的正義あるいは人権の擁護という立場で公共的介入をしなければ、公害は社会問題化せず、また公害対策は始まらないのである。
社会的弱者
第二は、被害が社会的弱者であることだ。第2章でみたように、現代社会では企業とくに大企業が環境を独占する傾向がある。良好な環境をもつ住宅地は高価となり、高額所得者が居住する傾向がある。たとえば、1986年大阪市内に立地する一部上場企業(大企業)常勤重役2334名中、環境の劣悪な大阪市内に居住する者は157名(全体の6.7%)にすぎず、高級住宅地として有名な西宮、芦屋、宝塚、神戸などの兵庫県に832名(35.6%)、他は大阪府下でも豊中などの環境のよい都市や京都・奈良両市に住んでいる。大企業は集積利益をもとめて大阪市へ集中し、ここは面積当り日本一の製造出荷額をもっている(東京都区部の1.6倍、全国平均の51倍)のだが、それから生ずる集積不利益も日本一で、みどりが少なく、大気・水汚染もひどいので、重役たちはその所得源の大阪市から避難しているのである。大阪市は大阪府下31市中、一人当りの市民税は23位(1985年度9万4323円)、兵庫県芦屋市の28万6830円にくらべ33%にすぎない。つまり、大阪市は日本ひいては世界の有数の商工業都市(株式取引量世界第3位)であるが、低所得者の街なのである。日本でもっとも人口当りの公害病認定患者の多い大阪市の西淀川区、大正区などの臨海部は、その中でも、低所得者層の人口が集積している地域である。これは川崎市南部、尼崎市南部、名古屋市南部などの古くからの臨海工業地帯に共通している。しかも、これらの地域は、工場の汚染がひどいだけでなく、幹線道路や高速道路が区域に設置され、自動車汚染も相乗している。
一般的にいって、汚染地域の住宅は事業所に隣接しているので、交通費が不要であり、環境が劣悪なために地価や家賃が安く、また物価が安いので低所得者が居住している地域である。低所得者の住宅の質は悪いので、大気汚染や騒音・振動などの被害にあいやすい。低所得者は栄養条件も悪く、疾病にかかりやすい。彼らは公害が発生した場合に、対抗策として、自前で二重窓に改造しエア・クリーナー装置をつけるというようなことはできず、また専門的な良い医療をうけたり、弁護士に依頼して法的救済をうけることも困難である。日本の場合は、医師、弁護士あるいは研究者が自発的に集団となって被害者の側にたって無料あるいはそれにちかい形で被害者の救済とそのための調査研究をしているが、アメリカのアラマゴールド水銀中毒事件と農薬キーポン中毒事件やカナダのインディアン水俣病事件の被害を現地でしらべた経験によると、低所得の被害者は適正な医療をうけられず、また資金が不足するために裁判すら継続できない状況である。E・J・ミシャンは『経済成長の代価』の中で過去10年のイギリスの高速道路などの道路建設を例にとって、道路公害の被害者はつねに労働者階級ないしは下層中産階級であるといっているが、欧米の場合も日本と同様に汚染の影響をうけやすく、また救済の困難なのは社会的弱者なのである。
さきに大阪市を例にとったが、公害の深刻であった川崎市南部、富士市、四日市市、尼崎市南部などの工場都市には、汚染源の社長・重役はもとより、工場の管理者とその家族は住んでいない。工場長はほとんど単身赴任をしている。その理由は現地にはよい学校や病院もなく、環境が悪いというのである。高額所得者は、居住の選択が自由であり、居住環境が汚染されても、住居は堅牢で騒音や振動にあわず、エア・クリーナー装置をつけ、汚染されていない食品を選択できる。かりに公害にあっても、専門の医師や弁護士をえらぶことができる。社会的強者たる大企業の経営者や有力な政治家のみが公害にあうとするならば、自主自責にまかせても解決は可能である。したがって、このような公害は、人道上の問題であっても、政治経済学がとりあげるべき問題ではないであろう。
政治経済学が公害を重視するのは、被害が社会的弱者に集中し、貧困と相乗して生活困難を生みだすためである。公害の被害者は貧困な農漁民や労働者階級を中心とする下層市民であり、欧米ではとくに少数民族である。近年は多国籍企業の進出によって、産業公害は次第に発展途上国の社会的弱者になる傾向がでている。このような経済的特徴をもっているために、ここにはM・フリードマンのいう「選択の自由」はない。自主自責という資本主義の原理にまかせれば、社会的不平等がおこり、被害は救済されない。どうしても公的救済と公的対策(所得保障、安全な住居、適正な医療などの総合的な対策)が必要となるのである。ローマクラブのいうように、汚染は終局的には地球人類全体の損害へとつながっていくのだが、環境破壊による損失、とくに健康障害あるいは死亡には経済的序列がある。環境破壊がはじまると、まず貧困者が犠牲に供されるのである。この社会ではその間は放置され、それが金持ちあるいは社会的地位の高い人たちにも恐怖をあたえるようになると、はじめて本格的な対策がはじまるのである。
絶対的不可逆的損失
第三は、公害をふくむ環境問題が、他の経済的損失とちがい、事後的に補償が不可能な絶対的不可逆的損失をふくんでいることだ。資本主義経済には補償原理があり、ある経済行為によって利益をうるものは、損失をうけたものにその利益の一部で補償をすることによって、社会的公平が達成されるとされている。だが、公害・環境破壊には、この補償原理は十分に作用しない。たとえば、臨界コンビナート開発を例にとろう。海岸を埋立ててコンビナートが造成される場合、補償原理によって、コンビナートの企業(埋立て主体が支払う場合でも、補償金は地価をふくめて売るので、実質的には企業)から漁業権を喪失する漁業者には漁業補償金、海浜を利用していた海水浴場業者には見舞金が支払われる。しかし、このコンビナートが操業後公害をだした場合には、この補償原理は自動的にはたらかない。世論や運動の結果、公害の事実と加害の責任がみとめられた場合に、公共団体が条例あるいは法律をつくって行政的に補償するか、裁判や直接交渉で企業責任がみとめられて、はじめて賠償がおこなわれる。
資本主義社会では、人間の健康や生命の価値は、稼得能力(商品としての労働力の生涯価値)を基準にして貨幣に換算して評価する。被害者が金銭賠償をうけるのは、当然のことであるが、問題はこれによって被害者が原状に回復しないということである。たとえば新潟水俣病患者今井一雄はエリート農民であり、余暇はギターを弾く気性の明るい青年であった。水俣病の結果、彼の手足は麻痺し、農業経営を創造するたのしみを失い、二度とギターをひくこともできなくなった。この青年が裁判で900万円の賠償金をもらったが、それによって彼の健康は回復せず、彼の輝かしい農民としての人生はもとにもどることはない。
このように、公害病は治癒できない場合が多い。ましてや死亡してしまえば、賠償をうけても、生命はもとにもどらない。
このような不可逆的損失は自然や街並みの破壊についても発生する。ハイテク企業などによるシリコンバレーの地下水の汚染、工場・家庭排水による琵琶湖やアメリカの五大湖など閉鎖水面の汚染、あるいは開発による瀬戸内海の埋立てや奈良の歴史的景観のある丘陵地の宅地開発などは、とりかえしのつかない損失をまねいているといってよい。イタリアのヴェニスは、対岸の石油コンビナートの建設によって、大気汚染と地盤沈下が進行しているが、この中世都市の博物館といってもよいヴェニスをもう一度再生することは困難であり、いまの状況は人類史の遺産を失いつつあるといっても過言でない。
絶対的損失とは、(1)人間の健康障害および死亡、(2)人間社会に必要な自然の再生産条件の復旧不能な破壊、(3)復元不能な文化財、街並みや景観の損傷などである。このような損失は事後的な補償では不十分であり、損失のおこる行為を停止するか、予防しなければならない。かりに経済過程において絶対的損失が発生した場合には、ただちに、その生産、交通を一時停止し、危険商品の取引や消費を差しとめ、代替手段をさがし、もし代替手段がなければ、そのような生産、流通、消費は完全に停止しなければならない。このように、公害・環境破壊は賠償だけでは対策にならず、差止めが必要なのは、絶対的不可逆的損失が生まれるためである。
絶対的損失が発生して以後、どれだけ貨幣的補償をしても、社会的損失は回復しないとすれば、環境アセスメントをおこなって絶対的損失が発生しないように予防することがのぞましい。開発行為にあたっては、費用便益分析がおこなわれることがあるが、それだけでは不十分で、環境アセスメントが必要な理由はここにある。したがって、アセスメントによって絶対的不可逆的損失が予測される場合は、開発の方法などを変更するか、対策がみつかるまで延期するか、あるいは中止すべきことになる。
予防や差止めという対策は、他の経済政策とちがって、企業や個人にとってきわめて厳格であり負担が重くなる可能性がある。そこで、政府や企業は絶対的損失の範囲をできるだけ小さくしようと考える。科学の未発達もあって、相対的損失と絶対的損失とは明確に区別できず、図3-2のようにその中間に「薄明」の部分がある。たとえば、大阪空港や新幹線の公害事件では、騒音障害がこの「薄明」の部分とされた。政府や当時の国鉄は、騒音や振動は水俣病のように重症の病気はおこしていないので、相対的損失であるとして差止めをみとめず、損害賠償ですませようとした。しかし、被害者は騒音や振動にたえずなやまされ、いらいらしたり、不眠になり、明らかに不健康な症状があらわれて絶対的損失が生じているとした。そして、大阪空港事件では夜9時以降翌朝7時までの夜間航行の停止、新幹線事件では110キロメートルへの減速という差止めを要求した。裁判所は政府や国鉄の主張をみとめて、差止めはみとめなかった。騒音や振動による健康障害がつづけば、病気へと進行する可能性はとくに生物的弱者には大きい。また、かりに難聴のような明確な疾病にならなくても、正常で健康な生活や家庭の静穏な中での夜間の団欒がうばわれるというのは、絶対的損失と考えてもよいのではないか。アメニティの要求が切実になれば、絶対的損失の範囲が大きくなってくるであろう。この「薄明」の部分は、絶対的損失と認定して対策をたて、もし科学的な安全が保証されれば、その段階で相対的損失とすべきではなかろうか。科学的に100パーセント証明されないからといって、絶対的損失をみとめず、差止めをのばしてきた失敗は、水俣病や四日市ゼンソクなどの過去の公害事件で経験ずみのことである。
相対的損失 |
区分不明の領域 |
絶対的損失 |
自然的災害 (地震、風水害など) |
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社会的災害 |
産業公害 (水俣病、四日市ゼンソクなど) |
薬害(スモン病)、食品公害など 商品・サービスによる害 |
都市公害 (自動車排気ガス、その他複合汚染) |
基地公害 公共事業公害 |
労働災害 (職業病) |
産業事故 (ガス爆発、油流出) |
交通事故、地下街事故など |
戦災など (原爆病など) |
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産業災害 | 都市災害 | 権力災害 |