加藤(1991)による〔『環境倫理学のすすめ』(1-12p)から〕


1章 環境倫理学の三つの基本主張
 環境倫理学という題目で発表された論文や著書は、三万ページを超えていると思われる。実にさまざまな主張があるが、中心となるのは、次のような三つの基本的な主張である。結局、今までのところでは環境倫理学の立場はこの三点に尽きると言ってもいい。しかし、それぞれを掘り下げていくと、われわれが民主主義だとか、個人主義どとか言っている決定システムに構造的な欠陥が存在することがわかってくる。
 T 自然の生存権の問題−人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。
 人間だけに生存権があり、自然物に生存権がないとすると、人間の生存を守るという理由があれば、結局は自然破壊が正当化されてしまう。だから人間が生きることは重要だと主張しているだけではいけない。人間には他の生物よりも生存の優先権があるという人間優先主義を否定しなければいけない。この人間優先主義の考え方は、従来のさまざまの考え方の暗黙の前提になっているもので必ずしも自覚的に主張されているとはいえないが、これを明るみに出して問題にしなくてはならない。
 この主張には、いろいろな形がある。人間以外のものに「権利」を認めることは、自然物に霊魂の存在を認めるのと同じことになる。自然物の権利という形でアニミズムの復権が図られる。個体に生存の権利を認めるのか、種に生存権を認めるのかという問題をはらんでいる。
 「開発倫理学(frontier ethics)批判」という表現は、辺境で自然を開拓した人々にとっては自然破壊が悪ではありえなかったという視点から出たものである。「種主義」(specism)というのは、「民族的偏見」(racism)のもじりで、人間という種を他の種よりも優先する態度は、白人など特定の人種を黒人などの人種から差別するのと同じだという批判である。ピーター・シンガー氏が使い始めた言葉で、最近は字引にも載るようになったと来日したシンガー氏が自慢していた。彼は、菜食主義の立場を肯定し、動物実験反対運動とかの、さまざまな運動に参加している。
 動物に人間と同じ生存権を与えようという主張には、さまざまのいかがわしい思いつきや、それ自体が偏見にすぎないセンチメンタリズムなどが入り込んできている。しかし、問題の核心には、だれも無視できない重要な点がある。
 この問題には、当然、東洋文化の見直しという関連した問題がある。「一木一草に仏性あり」という思想は、あらゆる生命に尊厳を認め、人間の生命だけに尊厳を認める思想とは違う。これを裏返すとキリスト教への反省となる。現代文化が自然破壊を行なってきたことには、キリスト教の責任があるのではないかということも真剣に討議されている。
 また権利という概念を人間以外のものに拡大するということにも、さまざまの問題がある。特権的な自由人にだけ権利が認められるというギリシャ型の民主主義以来、歴史の基本的な傾向が権利の拡大であったとすれば、その権利が人間を超えて自然の生物にも拡大されるべきだという主張がある。これには、反論がある。人間のなかで権利を拡張してきたことと、人間から自然物に権利が拡張されることは全然べつのことだという反論である。権利という、正面から考えるととてもわかりにくい概念が、近代思想の次元よりも一段と掘り下げて議論しなければならないという状況になって来ている。
 実は、生命倫理学(bioethics)の方面からは、実質的に権利の縮小にあたるものが提起されている。脳死者、植物状態の患者、胎児、新生児、アルツハイマー病の患者、昏睡状態にある人などの生存権や自己決定権の縮小を正当化するという営みが、生命倫理学の領域では行なわれている。「権利はつねに拡張しつつある」ということが歴史的な事実と言えるかどうかは難しい問題である。いずれにせよ環境倫理学は、生存の権利という概念を深く問い直すという必要を促している。
 生存の権利とは何かという問題は、きっと環境問題の国際的な基準を作る段階でも問題になるだろう。十億の国民をもつ国家は、一億の国民をもつ国家よりも生存の権利について十倍の権利をもつのかどうか。生存権の評価単位の問題を起点として、数量的な国際協定の原則から国連の議決方法にいたるまで限りない難問が派生してくる。
 U 世代間倫理の問題−現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。
 環境を破壊し、資源を枯渇させるという行為は、現在世代が加害者になって未来世代が被害者になるという構造をもっている。加害者と被害者が世代にまたがる時間差をもっている。
 人類の過去が、約五万年あり、未来も五万年あると考えてよいだろう。石油や石炭などの化石燃料を人類が大規模に使い始めて約百年たっており、あと50年間は使うことができるとする。人類十万年の歴史のなかで、わずか150年間の世代が、化石燃料を使いきってしまうことになる。しかも、後に残される世代は大量の人口とその生活を支えるエネルギーを入手しなければならないという事態に直面させられる。現在世代は未来世代を梯子に登らせて、後で梯子をはずすというに等しいことをする。資源枯渇も環境破壊も、ともに現在世代による未来世代の生存可能性の破壊である。これは人類の歴史上、奴隷制度とか、大量殺人とか、さまざまの犯罪が行われたなかでもっとも悪質な犯罪なのである。われわれは石油、石炭を使いきってしまうことによって、あるいは地球環境を破壊することによって、未来の人類の90%を殺害することになるかもしれない。
 ところが民主主義的な決定方式は、異なる世代間にまたがるエゴイズムをチェックするシステムとしては機能しない。構造的に民主主義は共時的な決定システムであり、地球環境問題が通時的な決定システムを要求しているからである。封建主義的な決定システムから近代的決定システムへの転換とは、すなわち近代化とは、通時的決定システムから共時的決定システムへの転換であったからだ。われわれは、共時的決定システムを完成させることによって、同時に現在世代の未来世代への犯罪をチェックするシステムを失ったのである。
 伝統の支配という形をとった決定システムは、生活形態を反復可能なものとして維持していくためのシステムである。例えば婚姻の形態は、もしもそれが隣の部族と女性を交換するというシステムであれば、それぞれの部族が人口の再生産率を一定に保つことによって維持される。社会は、世代ごとに同一の人口、同一の生産規模、同一の文化を再生産しなければならない。
 また例えば武家社会などの世襲制の社会は、親子の数が同一であるという人口定常の状態で最適になるシステムである。このような社会では、人口の増大という事態に対処することはできない。通時的システムから共時的システムへの転換はほとんど避けられなかった。常に過去世代が現在世代を支配することに人類は耐えられなかった。しかし、この古いシステムを捨てたとき、同時に現在世代の未来世代への犯罪をチェックするシステムも捨ててしまった。
 現在世代の未来世代への加害という構造が明らかになることによって、「進歩」というシンボルは泥にまみれてしまった。それは未来世代はつねに現在世代よりも、より自由で、より幸福な生活を保証されているだろうという約束だったのである。ところが進歩の名のもとに未来世代への犯罪が行われてきた。
 これによって決定システム一般を掘り下げて考えてみる必要が出てきた。社会的に承認・定着した有効な決定システムに参加する集団と、その決定の影響を受け、利害関係を受ける集団との間に構造的なずれが生ずると、新しい倫理問題が発生する。例えば決定集団が現在世代で利害集団が未来世代というずれが発生している。
 このようなずれを回避する別の形態も現代では提起されている。それは生命倫理学である。決定集団と利益集団を一致させるもっとも完全な方法は、すべての決定を自己決定に還元してしまうというやり方である。いわば集団の自業自得という決定システムの基礎原理を、個人に移して、他者決定を排除する。そうすれば決定集団と利益集団のずれは原理的に発生しなくなる。自己決定の原理は次のように要約できる。
 身体であれ、生命であれ、自己の所有については、他者への危害を含まない限りで、たとえその決定が理性的に見て愚かしいものであろうと、対応能力(判断能力+責任能力)のある個人の自己決定に委ねられなければならない。
 これは@自己の所有、A他者危害排除の原則、B愚行権、C対応能力という四つの概念で組み立てられている。自由主義とは、結局はこの四つの概念を使った「自己決定還元主義」である。この原則をほとんど機械的に適用することで、生命倫理学が営まれている。しかし環境倫理学の構想する世代間倫理には、自己決定の原理の否定が含まれている。そこで問題は、こうである。地球環境問題を恒常的に処理する倫理的なシステムのなかで自由主義は生き残ることができるかどうか。
 V 地球全体主義−地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。
 この閉じた世界では、利用可能な物質とエネルギーの総量は有限である。そのなかで生存可能性の保証に優先権がある。しかも、次の世代に選択の形だけを与えるのではなく、現実の選択可能性を保証しなくてはならない。すると、この原則を守るために、他の価値を犠牲にしなければならなくなる。配分の問題が正義にとって根本の問題となる。
 “To be or not to be”の問題は、他の問題に優先する。自殺するか、しないかを決めないでは、昼飯にカレーライスを食うか、もりそばを食うかの決定はできない。選択の自由の一つに生きるか死ぬかの選択があるのは確かである。しかし、生きるという選択が先行しているから、選択の自由が発揮される。命の選択は特別な位置をもっている。
 次のクイズを考えてもらいたい。
 @「手を上げろ」と言ってピストルの筒先を向ける。
 A「山田太郎をおねがいしまーす」と言ってスピーカーを向ける。
 B「自然に笑ってと」と言ってカメラを向ける。
●問い:この中で相手の自由意志をもっとも尊重しているのはどれか?
●答え:ピストルを向けた場合である。
 手を上げるか、上げないかは、相手の自由意志に完全に委ねられている。しかし、スピーカーを向けられたら、否応なしに音声が耳に入ってくる。音声の出入りに私の自由はない。もっとひどいのは「笑って」という命令である。自発的に自然に笑うことを要求するということは、不承不承の同意ではなくて、完全に心から同意することを要求するという構造になっている。これは独裁者の「私を熱烈に支持しなければならない」という要求と同じで、他者の意志は自己の内発性にまで及ぶ。
 しかし、これは詭弁である。ピストルを突きつけられたら、手を上げざるをえない。そこに選択の余地はない。選択の余地のない選択を強いることができる。それが命の選択の変わったところである。環境倫理学では、「命の選択は、選択という形式の中で未来世代の自由を否定する可能性がある」と指摘する。
 命がからむと、選択の自由の形で自由を否定することができる。例えばわれわれが最後の石油の一滴を使いきってしまうなら、石油を使う文化によって生きることを未来の人に拒絶することになる。しかし、同時に、未来世代の生存を保証するために同世代の人間の自由を否定する可能性もある。現在世代のエゴイズムを抑制するということは、ある意味では現在世代のすべてを敵にまわすことだから、地球環境問題には、新しい全体主義の発生を促す可能性が秘められている。
 すると、こういう意見が出てくる。「問題を倫理的に処理しようとするから、全体主義の危険を呼び込むことになるのだ。むしろ倫理問題にしないで技術問題として解決すべきだ。人間は70年代のエネルギー危機を技術開発で乗り切ったという実績をもっている。エネルギーの消費効率を高めるとか、省エネルギー技術を普及させるとか、技術体系全体を見直すとかのあらゆる技術的な対策を組み合わせて、実現可能なシナリオを書くべきだ。また、それを書くことは可能だ」
 技術オプティミストは、技術開発がうまくいきさえすれば、たいていの社会的難問は存在しなくなると信じている。それは正しい。実際、過去の多くの問題は技術的に解決すべき問題をイデオロギー的に解決しようとするという基本的な誤りによって、社会問題として深刻にさせられてしまったのだ。それも正しい。しかし、技術開発が成功すれば倫理問題が解消するというのは間違っている。
 例えば孤島に百人の人がいて、食糧が50人分しかないとする。そこでどうやって生き残るべき50人を選ぶかというのは典型的な倫理問題である。そこでどうやって不足している食糧を作り出すかというのは典型的な技術問題である。この場合に、技術的解決の方がすぐれているのは当然である。なぜか。全員が生き残るという目標を達成する措置が、半分死ぬという措置よりも優れているからだ。この違いは倫理的な違いである。この時に「倫理的解決」を図ることは間違いである。しかし、それは倫理的だから間違いなのではない。「百人生き残れる可能性があるのに、50人しか生き残れない」と考えたことが間違いなのだ。
 何を目標とするかは倫理問題である。どの目標が到達可能であるかは技術問題である。技術は一般に選択可能性の幅を広げる。倫理とは選択可能性なもののなかから最善のものを選択する方法である。技術が選択の幅を拡張すればするほど、倫理問題は多くなる。しかし、もっとも効果的で犠牲のすくない措置が、つねに技術的に可能であるとは限らない。その時には、最善ではない選択肢の間の倫理的選択が必要になる。
 地球規模での環境破壊にストップがかかり、人類が生存できる状態が長続きするようになるためには、人類がたくさんの扉を開いて前進しなくてはならない。
 一つの扉は、たしかに技術開発である。環境が保護されるような新しい技術がどんどん開発されないと、環境問題を解決するためのコストが限りなく大きくなっていく。
 また一つの扉は、人口問題である。世界人口が約50億の現段階でさまざの環境問題が起こっている。もしも人口が二倍になって100億になったらどうだろう。他のどんな努力が行われたとしても、地球環境の破壊状態はますます悪くなるだろう。
 また一つの扉は、南北問題だろう。先進工業国による環境破壊の責任を発展途上国が全面的に負わされて、経済開発が出来なくなったり、経済開発にともなう費用が大きくなりすぎたりすれば、発展途上国は永久に発展のない世界になってしまう。
 これからの問題のすべてが技術的に解決がつくはずはない。技術的に解決がつくと信じられているのは、最善であることが合意されている目標を達成する技術的方法が発見されるという場合である。例えば経済成長を犠牲にしないでエネルギー消費を減らすという目標が合意されているならば、それを実現する技術によって問題は解決する。しかし、何が最善であるかの合意すら存在しない場合もある。また、どれほど技術開発が進んでも人間に可能なのは、最善ではない可能性の間の選択である。つまり倫理的選択である。
 環境倫理学の第一の主張には選択の問題が含まれている。人間の生命と自然の保護との間にどのような選択の可能性があるのか。典型的な場面を設定して、それぞれの選択の意味を考察してみよう。題して「中之島ブルース」。題名の由来は、2章の末尾に紹介する。』



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