環境リスクの概念の変化と次世代・グローバルリスクの登場
『1.はじめに
環境リスク(environmental risk)とは、わが国の環境基本計画(1994年)では「(化学物質による)環境保全上の支障を生じさせる恐れ」とされていたが、最近ではより広義の意味で用いられることが多く、「ある技術の採用とそれに付随する人の行為や活動によって、人の生命の安全や健康、資産並びにその環境(システム)に望ましくない結果をもたらす可能性」と定義される場合もある。ここでは、いわゆる“グローバルリスク”や“次世代リスク”を含み、また、米国環境保護庁(US
EPA)が開発してきた比較リスク分析(comparative risk analysis)の対象である@健康リスク(health
risk;発癌リスクと非発癌リスクに分けられる)、A生態リスク(ecological risk)、およびB生活の質へのリスク(quality
of life, QOL)の3つの要素を包含する概念として話を進めよう。
環境リスクを科学的に研究し、環境政策の意志決定に用いることが考えられるようになったのは、1970年代の米国においてである。当時、それまで各地で発生していた深刻な公害問題が一応改善されつつあったが、引き続き、原子力利用による放射線、電磁波、ダイオキシンなどの健康リスクをめぐる社会的関心が高まってきたからである。そうした社会的動向に対応して、特に環境因子の発癌性を基本とした健康リスク評価の試みが開始された。
発癌は、ある集団において一定の特定環境因子への曝露があれば、一定の確率(発生率)で発生することが期待されるので、集団リスクとして把握しやすいこともあり、その他の健康リスクに比較して整理しやすい特徴がある。とはいえ、特定の環境因子の発癌性を決めるためには、疫学的知見と動物実験の知見が必要となるが、多くの場合疫学的知見は乏しい。したがって、動物による発癌実験から得られるユニットリスク(unit
risk;単位濃度曝露による生涯リスク)に集団の曝露濃度を乗じて集団の発癌リスクを数量的に表現する方法が一般化した。ただし、動物実験からヒトのリスクを推定するには、ヒトと動物の代謝機能の違いなどによる大きな“不確実性(uncertainty)”が残る。したがって、“不確実性”をできるだけ外在化しつつ、もっとも蓋然性の高い、また安全性を考慮したリスク推定を行うことが試みられている。
また、発癌リスクは一般に、問題環境因子への曝露がゼロにならない限り、リスクはゼロにならない特性(閾値がない)があるため、その取り扱い方が問題とされてきた。現在、100万分の1あるいは10万分の1より小さなリスクはリスクとみなさない、などの議論がある。その後、生殖影響や脳神経影響など癌以外の健康影響のリスク(非発癌リスク)についても、同様な評価手法が開発されているが、非発癌リスクの“量−反応関係”には、一定の閾値が前提となる(健康リスクの計算法については第6章を参照)。
以上のように、環境リスクのうち健康リスクについては、発癌リスクと非発癌リスクの評価手法が考案され、わが国においても、最近設定されたベンゼン、トリクロロエチレン、トリクロロエタンの環境基準では、それらの発癌リスクのデータが使われているが、現在のところ、わが国での利用は限られている。
環境リスクのうち、生態リスクや生活の質へのリスクの評価となると、標準的な方法が確立されているとは言えない状況である。生態リスクについては、本章第10項にみるように、自然環境中の生物への汚染化学物質の毒性テストなどはあるものの簡便法であり、必要とされる生態系の障害レベルの評価法などはいまだ整備されていない。また、生活の質へのリスクについては、環境汚染による健康障害の治療費などの経済的側面、酸性雨による文化遺跡の破壊などの価値的側面、騒音による精神的ストレスなどによる生活妨害など多様であろうが、どのような項目を取りこむかは、言うまでもなく地域の環境問題の状況に応じて異なる。
ちなみに、わが国における環境影響評価制度は、最近法制化され、開発事業等によるインパクトに関する事前評価と事後評価の手続きが明文化されているが、上記のような系統的な環境リスク評価の方法は取り入れられていない。スコーピングの過程で取り上げるべき項目を設定できることになっているが、生活の質へのリスクへ配慮することに主眼がおかれており、健康リスクについては環境基準、生態リスクについては、環境庁がまとめている絶滅の恐れのある生物種や貴重種への影響に配慮することで対応することとしている。
ところで、今日の環境リスクには、地球規模の環境問題に伴う地球生態系や人類の生存のリスクなどの“グローバルリスク(global
risk)”が含まれる。また、地球環境問題は、発癌リスクが深刻となっている先進国のみならず、いまだ感染症に悩む途上国の問題でもあることから、そこでの環境リスクをも評価できることも必要となっている。つまり、これまで先進国の地域環境問題を対象に開発されてきた環境リスク評価手法がそのまま適用できない新たな、また大きな課題への対応が必要となっている。こうした環境リスクの概念を整理するためには、地球環境と人類の健康を総合的に評価する方法が求められていると言えよう。』
2.環境リスク転換
3.途上国と環境リスク
4.次世代リスク