今中(HP/2011/3)による『チェルノブイリ原発事故』から


 1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国の北辺に位置するチェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生した。

 保守点検のため前日より原子炉停止作業中であった4号炉(出力100万kW、1983年12月運転開始)で、26日午前1時23分(モスクワ時間)急激な出力上昇をもたらす暴走事故が発生し爆発に至った。目撃者によると、夜空に花火が上がったようであった。原子炉とその建屋は一瞬のうちに破壊され、爆発とそれに引き続いた火災にともない、大量の放射能放出が継続した。最初の放射能雲は西から北西方向に流され、ベラルーシ南部を通過しバルト海へ向かった。4月27日には海を越えたスウェーデンで放射能が検出され、これをきっかけに28日ソ連政府は事故発生の公表を余儀なくされた。

 チェルノブイリからの放射能は、4月末までにヨーロッパ各地で、さらに5月上旬にかけて北半球のほぼ全域で観測された。大阪府泉南郡にある京都大学原子炉実験所の筆者らのグループが最初にチェルノブイリからの放射能を観測したのは、5月3日に降った雨水からであった。

 事故から4ヶ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出した。その報告などに基づくと、大量の放射線被曝による急性障害が200名あまりの原発職員と消防士に現れ、結局31人が死亡した(爆発の時に行方不明になった1人、事故当日火傷で亡くなった1人、被曝以外の死因1人を含む)。事故翌日の4月27日に、原発に隣接するプリピャチ市住民4万5000人が避難し、さらに5月3日から6日にかけて周辺30km圏から9万人、結局13万5000人の住民が避難した。周辺住民には急性の放射線障害は皆無であったとされている。

 燃え続ける原子炉を封じ込めて火災を消火するため、4月末から5月始めにかけて、砂、鉛、ホウ素など5000トン以上の資材がヘリコプターから炉心めがけて投下された。86年ソ連報告によると、5月6日になって大量の放射能放出が終わったとされている。
 崩壊した原子炉と建屋を丸ごとコンクリートで囲い込む「石棺」の建設が6月から始まり11月に完成した。火災の鎮圧、汚染除去、石棺建設といった事故処理作業には、軍隊をはじめとして大量の作業員がソ連各地から動員され、その数は60万人から80万人に及んだ。
 石棺の建設と平行して残っ1〜3号炉の復旧作業が進められ、1号炉の運転再開は9月29日、2号炉は11月9日、3号炉は87年12月であった。また、事故当時建設中であった5,6号炉の建設は中止となった。

 86年ソ連報告ののち、ソ連国内の放射能汚染や被害に関する情報は全くと言ってよいほど出てこなくなった。チェルノブイリ事故に関する情報は機密扱いとされ、汚染地域に居住している人々にも自分たちが住んでいる所の汚染について知らされなかった。

 ベルリンの壁が崩れたのは1989年である。東西冷戦終結の流れの中で、ソ連国内でも変化が起きつつあった。ウクライナやベラルーシでは、民主化・独立を求める運動と汚染地住民の運動が合流し、一緒になって当局に放射能汚染の対策を求め始めた。
 事故から3年近くたった1989年2月になって初めて詳細な汚染地図が公表され、原発から300kmも離れた地域にまで高汚染地域の広がっていることが明らかになった。ベラルーシ共和国では、モスクワ中央政府の意向に反して、新たに11万人もの人々の移住が決定された。

 汚染地住民の突き上げや各共和国の反抗に手を焼いたモスクワ中央政府は1989年10月、IAEAに対して、汚染地域住民の健康影響と汚染対策の妥当性についての調査を要請した。IAEAは国際諮問委員会(委員長重松逸造)を組織し、その基に1990年春より国際チェルノブイリプロジェクトが始まった。1991年5月、プロジェクトの報告会が開かれ、汚染地住民には放射線被曝に起因する健康影響は認められない、汚染対策はもっと緩やかでもよいが、社会的現状を考えると妥当なものである、という結論が報告された。
 これに対し、ベラルーシやウクライナの代表は、甲状腺疾患の増加など深刻な健康影響が出ていると抗議したが、結局無視された。

 1991年末、チェルノブイリ事故に対して第一に責任を負うべきソ連が崩壊し、汚染対策はそれぞれの共和国の責任となった。しかし、ソ連崩壊後の経済危機の中で、汚染対策や被災者救援の問題は次第に各国の重荷になりつつある、という状況が続いている。

 長期的な観点から最も厄介な放射能汚染はセシウム137(半減期30年)によるものである。ベラルーシ、ウクライナ、ロシア各国で移住の対象となっているセシウム137の汚染密度が1平方km当り15キュリー以上の面積は1万平方km余りに達し、また、いわゆる汚染地域である1平方km当り1キュリー以上の汚染地域の面積は、3ヶ国合わせて約13万平方kmに及び、600万人以上の人々が住んでいる。

被災者の状況:チェルノブイリ事故による被災者は以下のように分類されよう。

 ・事故時に原発に居合わせた職員や消防士たち:1000〜2000人
 ・事故の後始末や汚染除去作業に従事した人々:60万〜80万人
 ・事故直後に、周辺30km圏から強制避難した住民:13万5000人(11万6000人という数字もある)
 ・事故の数年後より高汚染地から移住した住民:数10万人
 ・汚染地域に居住している住民:600万人以上

 1986年ソ連報告は、事故直後に避難した人々には急性の放射線障害は皆無であったと述べている。しかしソ連崩壊後の1992年になって、事故当時のソ連で最も権力をもっていた共産党政治局中央委員会の特別対策グループに、子供を含め多数の急性放射線障害の報告のあったことを示す秘密文書が暴露された。

 事故で放出されたヨウ素131(半減期8日)などの放射性ヨウ素による被曝影響として、チェルノブイリ周辺地域では、1990年頃より小児甲状腺ガンが急増を始め、ベラルーシ南部のゴメリ州では、1991年以降世界平均の100倍を越える発生率が観察されている。
 1996年4月IAEAなどが主催して開かれた「事故10年総括会議」では、甲状腺ガンの増加を除き、事故による被曝影響は認められないと結論された。一方、1996年のベラルーシ科学アカデミーの報告によると、汚染地域では、内分泌系や血液・造血系疾患といった慢性疾患や新生児の先天性疾患の発生率が、共和国平均を上回っている。

 周辺住民の健康悪化には、事故後の社会的、経済的変動やそれにともなう栄養状態の悪化、されには精神的ストレスなど、多くの要因が複雑に絡みあっていると考えられ、健康悪化が認められたとしても、それが被曝の影響であるとは直ちには言えないであろう。しかし、そうした社会要因の多くが事故によってもたらされたものであるなら、健康悪化の第一原因がチェルノブイリ事故にあると考えることは尤もな考え方である。

 事故処理作業に従事した人々は、リクビダートル(ロシア語で後始末する人)と呼ばれている。破壊された原子炉周辺の片づけから30km圏の除染作業など、数年間の間に60万人から80万人の人々が作業に従事した。
 「石棺」の建設作業は、事故から2ヶ月後には始まっている。つまり、建設作業に取りかかれるよう、それまでには破壊された原子炉の周辺の片づけが終わっていたということである。最初に建屋周辺の片づけにあたったのは、徴兵年齢の若い兵士たちであった。リクビダートルの中でも、彼らの被曝が最も大きかったと考えられるが、放射線測定器もろくに持たずに作業にあたったことが知られている。
 リクビダートルの健康悪化は極めて深刻である。作業にあたった年度別にリクビダートルの健康悪化を比較すると、作業時期が早いほど健康状態の悪い傾向が認められ、このことは、健康悪化の原因が作業当時の被曝であることを示唆している。

炉の構造と事故原因チェルノブイリ原発は、ソ連独自のRBMK(ロシア語でチャンネル式大出力炉、РЕАКТОР БОЛЬШОЙ МОЩНОСТЬ КАНАЛЬНЫЙ の略)型と呼ばれるもので、もともと原爆用プルトニウム製造のために開発された原子炉であった。世界最初の原発(オブニンスク原発、5000kW、1954)はRBMK型原発の雛形である。事故当時のソ連では15基のRBMK(総出力1550万kW)が運転中で、チェルノブイリ発電所では4基のRBMK炉が稼働中で、5号炉と6号炉が建設中であった。
 RBMK型は、その構造からは黒鉛減速・軽水沸騰冷却・チャンネル管型原子炉と言える。黒鉛ブロックをレンタンのように円筒状に積み上げ(直径12m高さ7m)、約1700本の垂直貫通孔に、燃料集合体を含む圧力チャンネル管(外径8.8cm)を差し込み、管の中で冷却水を沸騰させる仕組みである。
 利点としては、運転中に燃料交換が可能、大出力化が容易、大重量機器が不要なので内陸立地が容易といった点がある。一方、多数のチャンネル管のため制御が複雑になること、炉心でのボイド反応度係数が正になる(気泡が増えると出力が上昇する側に作用する)ため、チャンネル管破損事故から暴走に至る可能性といった弱点を抱えている。さらに、チェルノブイリ事故後、制御棒の一斉挿入が、極端な条件下では出力上昇をもたらすという制御棒の設計欠陥が判明した。

 1986年8月のソ連政府報告は、事故の原因は「運転員による数々の規則違反の類まれなる組み合わせ」として、制御棒を引き抜き過ぎの状態での運転、原子炉停止信号のバイパスなど6項目の違反を上げ、事故の責任を全面的に運転員に押しつけている。同時に、制御棒の引き抜き制限の強化、制御棒作動時間の短縮などといった5項目の安全対策を発表している。これらの対策は、事故の原因に原子炉の構造欠陥が関係していたことをソ連当局が承知していたことを示している。
 ソ連最高会議のチェルノブイリ事故調査委員会の要請を受け、事故原因の見直しを行ったソ連原子力産業安全監視委員会特別委員会は1991年1月の報告で、「事故の原因は、原子炉の欠陥とそれを知る立場にありながらしかるべき対策をとらなかった責任当局にある」とし、1986年の報告で列挙された運転員規則違反の多くは根拠のないものとしている。

(図表の大部分は略)


チェルノブイリ周辺600km圏のセシウム汚染地図

今中(HP/2011/3)による『チェルノブイリ原発事故』から

※Ci(Curie、キュリー)はラジウム1gのもつ放射能の強さの旧単位であり、1キュリーは新単位の370億ベクレル(Becqurel、Bq)にあたる。ちなみに、放射線が人体にあたえる影響を表す量は線量当量であり、その新単位がシーベルト(Sievert、Sv)である。(リンクはウィキペディア)



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