宮本(1989)による〔『環境経済学』(55-59p)から〕


1 環境とはなにか
定義
−領域と本書の対象−
 環境は人類の生存・生活の基礎条件であって、人類共同の財産である。現代社会では、環境はその一部が私有あるいは占有されているが、その本来の性格からいって、公共の利益のために公共機関に信託され、維持管理されるべきものであって、公共信託財産である。
 環境とはなにか、どの範囲の対象をさすのかというのは大変むつかしい。環境に関する著作は無数にあるといってよいほどあるが、環境の定義も、また無数にあるといってよい。それは環境が自然そのものではなく、人間の社会の発展にともなって人間の手が加えられ変化しているためである。人間の生産=生活活動は、原始時代にはかぎられた空間でおこなわれ、人間は自然の一員であったといってもよい。この場合の環境は自然そのものであった。しかし、都市の成立、なかんずく産業革命以降の工業化と都市化の中では、環境は人工的なものとなった。都市における自然は原生林や自然河川・海岸ではなく、二次林・人工庭園であり、コンクリートで固めた堤防をもつ河川であり、港湾施設や防風林をもつ海岸である。ウィーンの森、フィレンツェの丘や京都の東山・西山は、世界を代表する都市の自然であるが、それらはいずれも、都市の景観を維持したいという市民の共同の意志にもとづいて、人間の継続的な労働によって保持されてきたのである。つまり、沼田真の「人間主体的生態系」なのである。現代は都市社会であり、先進工業国では自然と共存しているようにみえる農村でも都市化がすすみ、都市的生活様式をいとなんでいる。このため、人間が居住している地域の環境は自然そのものではなく、生活環境とくに都市的生活環境として構成されているといってよい。
 都市の生活環境は市民が日常の生活をいとなみ、健康を維持していくための基礎的居住条件である。都市の生活環境は二つの条件からなっている。第一は、自然的生活環境である。すなわち、大気(気象)・河川・森林・動植物などの理化学的・生物学的環境である。これは前述のように、自然そのものもあるが、なんらか人工的な生態系となっている。第二は、社会的生活環境である。この中でも重要なのは、都市の骨格をなすような社会資本、とくに住宅・街路・緑地帯・公園・上下水道・清掃施設などの社会的共同消費手段である。この社会的共同消費手段は都市生活に必須の施設であって、都市化とともに種類が多くなる傾向にある。また、建築物と街並みなどがつくりだす景観も、居住環境の質として重要な性格をもっている。都市の中では、この自然的社会的条件は渾然一体となって、アメニティ(良好な居住環境)をつくっているのである。このようにみてくると、社会の発展、とくに都市化とともに環境が人工的かつ多義的になり、また歴史的に変化していることがわかる。つまり、環境には歴史性があるのである。
 人類の生存は居住環境によって規定されているだけでなく、宇宙や地球の生態によっても規定されている。人間の経済活動が巨大化したために、二酸化炭素やフロンガスによって地球の気象条件が変化したり、あるいはブラジルやアフリカの森林の伐採が酸素の供給をへらすなどの地球規模の環境問題が生じている。このような問題を考えると、環境は地球そのものにまでひろがる。環境は都市居住環境にみられるように地域性があるとともに、地球や宇宙へつながる連続性がある。
 こうしてみると、環境を一義的に規定するのはむつかしく、研究の関心によってその問題領域を設定せざるをえないといえるかもしれない。
 私はすでに『社会資本論』や『都市経済論』などにおいて、都市の生活環境、とくに社会的生活環境の政治経済学については理論的実証的な考察をおえている。そこで、本書の対象とする環境は、大気、水、土壌、みどり、景観を中心にしたい。それらを論ずる上で、必要な範囲で社会的生活環境をとりあげることにしたい。

環境の性格−素材面から−
 環境は稀少資源であるといわれる。それ自体はまちがいではないが、環境と資源は同一ではない。資源は石油のように経済活動の内部で利用されるか、あるいは利用可能性をもつ物財あるいは労働力である。しかし、環境は経済活動の基盤であっても、財貨や商品の生産に原料や燃料のように直接はいりこむものではない。水は環境からとりだされて、原料あるいは発電・冷却用などに使われ資源として利用される。この場合の用水は市場のメカニズムの中にはいりこみ、労働によって「加工」され、一定の価格がつく。そして、その一部が利用のあとで環境に返される。このように水は環境−資源−環境という循環をしているように、資源となった水(利水)と環境の水(保水)とは、自然的形態は同じであっても、経済的意味はちがっている。資源は経済活動の内部で経済的財として利用されているのにたいし、環境は直接には経済的財ではなく、河川や湖の景観のような人間活動の基礎条件である。もちろん、資源として利用された水が、汚染されたりあるいは浪費して枯渇すると、環境破壊や公害を生みだすから、資源問題は環境問題に連続する。そのいみでは、両者は密接な連関をもっているが、混同してはならない。
 環境は素材面からみると独得の性格をもっている。
 第一には、環境は共同性があり、非排除性があることだ。人間は生存のためには、一定の成分の空気がなければならないといういみでは、良い空気を吸うことは個人の生存権であるが、同一空間に生きる者はそれを共同で利用している。したがって、特定者がその空気を独占することはできない。また、どのような人間も料金をださずに、同一の空気を呼吸することができる。資源となった用水の場合には、原状では都市化がすすみ、水汚染がひどくなり、浄化して供給するためのコストがかかるので料金がとられ、料金を納入しない世帯は供給停止をされる。そのいみでは排除性がある。湖や海岸の場合には、ホテルや工場などによって利用独占され、住民が親水権をもたず排除されることがある。しかし、環境は本来は共同性があり、非排除性をもっており、多くのものは資源化した現在もそういう性格をもっている。かりに、用水のように料金をとっても、それはだれでもが利用できるようにきわめて低率に抑えられている。
 第二には、環境は歴史的ストックであって、その中には、いったん破壊すれば不可逆的な性格をもつものがある。たとえば、森や歴史的街並みは、普通の商品のように短期間につくりえない。長い年月のかかったストックといってよい。いったんそれをつくれば、都市の環境のように長期間にわたる耐久性がある。イタリアの都市のように、古代や中世の建物や街並みが、そのまま現代の環境となっている場合もある。二次林のように伐採され、あるいは枯れた場合に、植生が可能なものもあるが、歴史的街並みなどはいったん破壊すれば再生は不能にちかい。
 かりに環境が再生あるいは新生できうるとしても、日常の経済活動の再生産の時間にくらべると、比較にならぬ長時間がかかる。このような環境という容器の耐久性あるいは永続性と日常の生産・生活の瞬間性あるいは非連続性との間の矛盾、いわば時間の相違が環境問題をひきおこす可能性をもっている。
 第三には、環境は地域固有財としての性格をもっている。景観はその都市あるいは地域特有のものであって、代替はできない。水の場合にも流域あるいは水系というものがある。大気は連続しているけれども、汚染が問題になる場合には「空域」のようなものが考えられる。清浄な大気をもつ高原とあらゆる汚染物の複合する臨海工業地帯とでは、明らかに「空域」が異なり、大気の状況は異なっている。
 この結果、環境は地域的に不均等であり、アメニティのある街とない街とは大きな差別が生まれる。しかも、短期間でよい環境をつくりだすことはできないので、アメニティを失った都市の回復はむつかしい。
 環境をひろくとって、社会的環境をいれた場合でも、この三つの性格は共通している。すなわち社会的環境の中心となる公園や下水道のような社会的共同消費手段は土地固着性があり、建設するのに時間がかかり、つくればその寿命は一世紀あるいは半永久的な性格をもっている。そこで技術革新が急激にすすむ現代では、容器としての都市(社会資本)や環境と企業活動や住民生活との間に摩擦がおこるのはこのためであろう。いずれにしても、このような環境の性格から、それを商品として市場で売買することは困難で、公共的な性格をもつものとして市場の外にだされていたのである。』