住(1996)による〔『地球環境論』(1-5p)から〕


目次

1.1 地球環境問題とは何か
 地球環境問題が広く社会の話題となり、重要な政治課題となってからすでに久しい。1992年の6月にはブラジルのリオデジャネイロで「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」が開かれ、世界中から100カ国以上の首脳が参加し、アジェンダ21や生物多様性条約、気候変動枠組み条約などが調印されるに到った。この会議での最終合意であるリオ宣言を受け、日本でも1993年11月に環境基本法が制定され、それに基づき環境基本計画が制定され、地球環境に関する諸施策が実行に移されようとしている*。
* 環境基本法の制定は「公害から環境へ」という行政面では大きな変化であった。しかし、バブル時代の終焉という状況の中であまり大きなインパクトを社会に与えていないように思われる。
 しかしながらその後の事態の展開は、引き続き地球環境問題に関する取り組みの加速を期待する関係者の主観的・楽観的な予想とは異なり、その他多くの人が予測したように複雑な様相を呈しはじめている。その背景には、依然として「地球環境問題とは何か」、「なぜ、地球環境問題が問題なのか」が必ずしも明確になっていないことがあると考えられる。問題の受けとめ方、対処の仕方が、かくも各国・各階層で異なるという事実は、地球環境問題についての明確な定義、あるいは問題意識が、必ずしも共有されているわけではないことを物語っている。
 地球環境問題というと、まずは「地球温暖化」や「オゾン層の破壊」などが頭に浮かぶだろう。しかしながら、地球が暖まるという現象自体について大気中の二酸化炭素濃度の増大がその原因になり得ることは、すでに100年前に指摘されていたことである(Arrhenius、1896)。また、人間活動の影響によるオゾンの消失という現象については、1970年代に成層圏での超音速旅客機の飛行の影響問題に関連して議論されていたことである。
 ところが、産業革命以後の急激な人間活動の活発化は、確実に大気中の二酸化炭素濃度の増大をもたらし、フロンの大量利用はオゾンホールの出現を招くに到った。最近に至り、一部の研究者により指摘されていたこれらの現象が現実の問題として立ち現れるようになったのである。こうした事態になるにおよんではじめて、問題が「社会的問題」として広く認識されるようになってきたのである。
 地球環境問題とは、現象からみれば、人間の社会経済活動の増大に伴って人間圏から放出される物質が、地球システムの物質循環・エネルギー循環に影響を与える結果として生じるような地球規模の諸現象と考えることができる。ここでは、
 ・地球温暖化
 ・オゾン層の破壊
 ・砂漠化、土壌の流出
 ・酸性雨などに見られる広域汚染
 ・熱帯雨林の現象などに伴う生物多様性の消失
などがその具体例として挙げられる。これらの問題は、人間活動の活発化により自然に負荷がかかり、しかもその結果として人間生存にも影響が出てきているということに特徴がある*。とくに、その原因となっているのが特定の主体(国家、企業、個人など)ではなく、人間社会そのもの、人間社会のあり方にあり、またその結果が社会全体(地球全体)におよぶという点にこの問題固有の難しさがある。
* 生物多様性が人間にどのような意味をもつのかは、個人の見解によって異なるが、ここではその潜在的な効果も含めて人間社会に影響があるとしておく。また、地球環境問題の定義を「人間社会に影響があるから」としなかったのは、後で述べるように、人間社会に影響がなければ何をしてもよいというわけではないからである。
 しかしながら、ここで注意すべきことは、人間活動が自然に負荷をかけたことの直接の結果として地球規模の問題が起きているわけではないことである。例えば、「地球の温暖化」といっても、人間活動に伴って放出される熱によって直接に地球が暖められるという「熱汚染」の問題ではなく、温室効果物質の放出によって、気候システムにもともと存在する自然の温室効果というメカニズムに擾乱を与えることによって生じている問題なのである(熱汚染の問題は、いまのところ「ヒートアイランド」や「温排水」などの局地的な問題に留まっている。これらの問題がグローバルになってきたら地球は取り返しのつかないことになっていることであろう)。言い換えれば、地球表層環境を維持しているシステムのメカニズムの特性に基づいて影響が出ているのである。それゆえに、地球環境問題を考えるときには、自然のメカニズムそのものの理解が深められなければならない。本巻『地球環境論』のエッセンスは、地球表層環境を成り立たせているメカニズムそのものを「地球環境問題」として具体的に現れている現象を通して理解しようとするところにある。
 ただし、地球環境問題を考えるには、地球表層環境を形づくっている自然環境のメカニズムを理解すればすむというわけにはいかない。もうひとつの重要な点は、人間は確かに地球表層環境の中に生息してはいるが、そうした自然環境の中で直接的に存在しているのではなく、その上につくられた文化・社会経済環境という環境の中で棲息しているという現実である。近代以降の人間にとって、社会経済環境との関わりなくしてその存在はあり得ないからである。このような社会経済環境の中で、社会全体に関わる何らかの行動を起こすためには、この社会の意思決定メカニズムに従う必要がある。とりわけ、個人個人の自主的な判断を尊重する民主的社会では、正しい情報を提供し、社会として最適な合意を形成しなければならない。そして、このことがいかに困難なことかは容易に想像できることであろう。
 地球環境問題とは、まさに近代物質文明を生きる人類が地球という自然の枠と衝突するほど大きくなったときに初めて直面するに到った問題である。ゆえにそれは、自然環境と文明などを支える社会経済環境との関わりをぬきにしては議論できない。政治・経済などの社会科学的な側面、あるいは人の生き方に関する価値観などの人文科学的な側面からの分析が、自然環境に関する知識とともに決定的に重要となる。「地球環境問題とは科学と政治が融合した新しい形の問題である」といわれる所以もここにある。地球環境問題は人間社会にとっての問題であり、問題の存在にも解決にも地球システムのメカニズムが明瞭に関わってくるがゆえに、政治的対応にも科学的知識が不可欠になるのである。
 地球環境問題に対する明確な態度を形成するためには、まず正確な科学的・技術的な知識が必要となる。さらにその上に、人間とはいかなる存在であるかという洞察、人間社会に対する理解、そして人間社会と自然社会との関わりについての総合的な判断が要求される。地球環境問題に関して「総合化された学問体系が必要である」といわれているのは、「一見すれば無理とも思われるようなことでも、実現できなければ人類に未来はない」という現状認識からきているのである。
 このような地球環境問題に対して取り組むべく、1993年に制定された環境基本法に基づく環境基本計画では、地球を循環型のシステムととらえ、自然と共生するライフサイクルの確立を強調している。そして、国、自治体、事業者、国民の自主的な参加、国際協力の下に、持続的成長が可能な社会を樹立することをめざしている。「循環と共生」「持続的成長可能」というキーワードは、最近の地球環境問題の深刻化に伴い提案されてきた新しい概念であるが*、これらを具体的にどのような実際的な学問、あるいは施策として展開するかは今後の課題である。本巻のテーマである「地球環境論」も、できあがった学問を論ずるという性格のものではなく、むしろ現実から触発されて新しい体系を作り上げていく途上にある、現在進行形の学問である。
* このような考え方について国際的な合意ができていないのも事実である。例えば、地球環境を破壊してきたのはもっぱら北の先進国の責任であって、自分たちにはまったくその責任はないという主張をする南の開発途上国の国々もある。
 地球環境、あるいは地球環境問題を論じるには、次の2つの大きな哲学的側面に注目する必要がある。ひとつは、人間社会における科学・技術のあり方を問う科学論・技術論の側面である。「人間活動がこれほどまでに地球環境に影響を与えるようになったのも、科学・技術が自己肥大的に発達したためであり、自然調和的に発展していれば生じなかった問題ではないか」と思う人は多い。しかしながら、現代の人間の生存にとって科学・技術から受ける恩恵ははかり知れないものがある。科学・技術を悪であると責めていればよいというわけではない。はっきりしていることは、科学・技術のさらなる発展がなければ地球環境問題への対処は不可能であるということである。ただそこで、どのような発展を図るべきかがわかっていないのである。
 もうひとつは、人間と自然の関係のあり方を問うという環境論の側面である。結局のところ、人間は自然環境の上に社会経済環境をつくって生活していかねばならない。そのためには、人間社会と自然との関係をどのように考えるかが重要になる。
 本巻ではこれらの問題に直接的に答えることを目的とはしていない。むしろつづく各章では、地球環境問題を具体的な現象を通して、この問題を考えるに必要とされる地球に関する科学的な知識を得ることを目標としている。しかしながら、地球環境を論ずるに際して、上の諸問題についての概略を知ることは、以下の各論を読む場合にも、今後の地球環境問題を考える上にも有用と思われるので、次節では簡単にそれについてふれてみたい。』



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