宮本(1989)による〔『環境経済学』(121-124p)から〕


1 アメニティとはなにか
定義

 イギリスの経済学者ミシャンは、『経済成長の代価』の中で、財産権とならんでアメニティ権の確立の必要をといている。1970年代にはいって、日本でも公害対策が一定の前進をすると、アメニティをもとめる住民の世論と運動が大きくなった。しかし、戦後の日本ではアメニティにあたるような日本語がないほど、自然や街並みなどの環境が破壊されてしまった。それだけに、改めていまアメニティの再認識とその確立がもとめられているのである。
 アメニティとは、市場価格では評価できえないものをふくむ生活環境であり、自然、歴史的文化財、街並み、風景、地域文化、コミュニティの連帯、人情、地域的公共サービス(教育、医療、福祉、犯罪防止など)、交通の便利さなどを内容としている。その具体的内容は国や時代によってちがうが、「住み心地のよさ」あるいは「快適な居住環境」を構成する複合的な要因を総称しているといってよい。イギリスのCivil Amenities Actでは、アメニティを“the right thing in the right place”と定義している。この「しかるべきもの(たとえば住居、暖かさ、光、きれいな空気、家の中のサービスなど)がしかるべき場所にあることだ」という定義はイギリス人にとっては解かりやすい。ところが、戦後の日本の大都市住民はしかるべき住居、生活環境やコミュニティをもったことのないものが多いので、これはわかりにくい定義となってしまう。そこで少しくどくなるが、先述のように具体的内容を列挙して定義をしたのである。
 自然や歴史的文化財はアメニティにとってはもっとも重要な要件だが、名鳥珍木や古文化財を鑑賞し保護すること自体が、アメニティを維持することではない。スラムの中に古墳がのこっていても、スラムにアメニティがあるとはいえない。あくまで人間の居住環境と関連して自然や歴史的文化財が保存されている場合にアメニティとなるのである。同様に、都市にすぐれた音楽家のような芸術家が居住していることがアメニティではなく、市民が日常的に容易にその音楽などの芸術を享受できることがアメニティなのである。木津川計の分類にしたがえば、高度な芸術家の「一輪文化」が開花する基盤としてのそれを鑑賞しうる多数の大衆の「草の根文化」があり、両者が結合しているような都市がアメニティをもっているといえるのである。そのいみではアメニティは抽象的な自然や文化の概念でなく、生活概念あるいは地域概念といってよい。

アメニティの経済学的特徴
 D・B・ダイヤモンドとG・S・トーリーは、アメニティは地域固有財(location-specific good)とのべたが、これが経済学的にみた第一の特徴である。つまり、その地域に住むか、そこに出かけていかぬかぎり、アメニティは享受できない。地域に固着しているので、他の財のように商品として売買するのが困難なのである。そこでアメニティは地域的不均衡があるといってよい。
 アメニティは木原啓吉が強調しているように歴史的ストックをふくんでいる。たとえば京都の白川べりの街並みは一朝一夕でつくりうるものではない。このため、需要がふえたからといって、他の商品のように供給できないものをふくんでいる。アメニティを生みだす環境は、図書館、学校のような社会資本をふくんでいるから、フローとして短期的に供給され、あるいは再生産できるものもある。しかし、保存の対象となるような良い建物や公園は、歴史の中でつくられた人工的な装飾物あるいは自然(それはワルシャワのオールドタウンのように人工の傷跡である場合もある)である。これらのものは長い歴史の中での人間のいとなみから生まれた愛着とむすびついている。歴史的ストックの中には、いったん破壊または喪失すれば復元できないものがある。たとえば汽水湖の霞ヶ浦や宍道湖の海への通路をふさいで淡水化した場合、湖の生態系がかわりアオコが発生し、名物の魚介類はとれなくなり、アオコの発生によって景観は一変する。あるいは高速道路が東京の日本橋や大阪の水晶橋をまたいでつくられると、これらの都市を代表した美しい風景は二度とよみがえらない。そのいみでは、さきの公害概念でふれたと同じように、アメニティの喪失は不可逆的で絶対的な損失をまねくことがあり、このことが、アメニティにたいする欲求をつよくし、住民運動のおこる理由でもある。
 アメニティは本来は非排除性と集団消費性をもった公共財である。ことばをかえれば、非分割性や非独占性をもつものといってもよい。たとえば海・湖や河川とその沿岸の風景はだれもが享受でき、また容易に入場して楽しめる空間である。親水権あるいは入浜権の主張は、公共水面の利用に関するアメニティの要求といってよい。
 だが、土地の私有性とその土地を大規模な資本が自由に利用独占する営業権がみとめられている社会では、アメニティを商品としての価値をもつものにかえて、土地や空間の交換価値を高める傾向がある。またアメニティのある環境を企業や個人が所有あるいは利用独占する傾向がある。たとえば、ハワイのワイキキの浜辺の多くの部分はホテルによって占有され、泊り客に優先的に利用されている。琵琶湖岸に高層ホテルが建ち、ホテル客は琵琶湖八景を満喫できるが、このホテルによって一般の県民は歴史的な風景を失ってしまったといってよい。近年の京都や奈良における高度制限の解除は、このような問題を生みだすといってよい。
 つまり、この社会ではアメニティの享受に社会的不平等がおこるのである。アメニティの公平をはかるためには市場原理を規制する公共的介入がどうしても必要なのである。』