安藤(1996)による〔『地震と火山』(2-4p)から〕


地震の原因の探求
 大地震のときに地表に断層が現れることは、濃尾地震以来しばしばみられた現象である。地震断層が地震の原因であるという断層地震説は、はじめ小藤文次郎が濃尾地震の断層調査から主張した(1893)。有名な根尾谷(ねおだに)断層はこのときに生じた。濃尾地震以後、多くの地震には断層がはっきりと生じなかったこともあり、日本では小藤の考えはそれほど評価されなかった。むしろ、大きな揺れのため結果的に地表に破壊が生じたと考えられた。断層が地震の原因であることを明確に示したのはアメリカのリード(H.F.Reid、1859〜1944)で、濃尾地震から20年後であった。リードは1906年のカリフォルニア地震前後の三角測量結果にもとづいて弾性反発説(elastic rebound hypothesis)を主張した。今日の大多数の地震学者はこの説の延長上で研究を進めている。
 地震計に記録されたP波初動から地震発生機構が推論できることが、大森房吉(1905)、志田順(とし)(1909)によって示された。それ以後、地震の起こるたびにP波初動分布が調べられ、1923年に中村左衛門太郎が断層地震説を提唱、中野広(1923)、松沢武雄(1929)が弾性論の計算を使ってそれを証明するなど、昭和初期にはこの説が日本でも流行した。一方、寺田寅彦は、岩石が破壊されることによって地震が発生するとの観点から、破壊現象の実験的研究の重要性を説いた(1916)。この岩石破壊説は戦後発展し、多くの実験的研究がなされた。
 このような風潮に対して、小川琢治は、フンボルトの見解の重要性を指摘して、マグマ成因説をとなえた(1929)。この小川の学説を具体化して論じたのは石本巳四雄(いしもとみしお)で、地殻内間隙へのマグマの急激な貫入による衝撃が地震であるとするマグマ貫入説を提唱した(1932)。断層地震説では、遠方からはたらく外力を想定しているのに対して、石本説は震源域近くにはたらく具体的な力を重視している。石本説は、その後、松沢武雄によって地震熱機関説(1964)として発展させられた。近年では早川正巳が地球熱学(1988)という体系で、地震を論じている。
 現代の地震観
 1960年代に入ると、地震学において次の3つの大きな進展があり、これにより断層地震説が多くの人に受け入れられるようになった。
 1)地震観測の充実 米ソ冷戦構造のなかで、核兵器の生産と地下核実験があいつぎ、お互いにその探知が大きな課題となった。カリフォルニア工科大学のプレス(F.Press)らによってつくられた長周期地震計は、それまでの地震記録とは異なる、地震の基本的な動きを記録することができた。アメリカは、この長周期地震計と短周期地震計とを組み合わせて、当時としては最新の地震計観測システムをつくり上げ、これを全世界に設置し、観測をおこなった(世界標準地震観測網、WWSSN)。ここで得られたデータはすべて公開されたため、全世界の研究者が使用することができた。ねらいは核探知であったが、結果として地震学に大きな貢献をした。
 2)地震波の発生や伝播に関する弾性論の研究の進展 地震はどのような力のもとでつくられるか(いわゆる発震機構)の数学的な研究もさかんにおこなわれ、本多弘吉は深発地震の波形を用いて、地震が複双力源(互いに直交する2組の偶力)によって表現できることを1931年に明らかにした。1963年に丸山卓男は、断層運動と複双力源が等価であることを証明した。また、地球のような層構造や球殻構造をもつ媒質中を伝わる地震波の理論的研究が進んだ。
 3)コンピュータの使用 実際に観測された地震波形と理論にもとづいて計算された波との比較が可能になった。地震の際に現れた変動が単純な断層の動きによって説明されるようになった。
 地震の姿がさらにはっきりみえてきたのは、1980年代に入って計測システムが飛躍的に向上してからである。世界標準地震観測網の記録は、デジタル収録されるようになり、分解能が上がった。また地震計も、1台で短周期と長周期の両方の地震観測を記録できる地震計が開発された。現在は、1つのシステムで1000万倍の倍率で地震を記録することができるようになった。このような地震計測における進歩は、震源での破壊のようすと地震波の伝播する地球内部の像をさらに鮮明にすることができた。トモグラフィーの手法がとり入れられ、地球内部のさまざまなスケールで3次元的構造がとらえられるようになった。そして、自動的に収録された地震波形は、電話回線やインターネットを通して全世界に転送することが可能になった。現在では、きわめて短期間に世界中の地震記録を集め、解析することができる。』



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