スタンレー(1991)による〔『生物と大絶滅』(1-19p、209-218p)から〕



1 大絶滅とは何か
 地球上の生命の歴史を中断した大絶滅は、第一に恐竜に対する興味から、多くの注目を集めている。ほとんどの人が、恐竜が絶滅したということだけではなく、この奇怪な大型動物が地質時代のほんのわずかの間にいなくなったことも知っている。しかし、科学者以外の人は別のさまざまな生物(たとえば小型飛行機ほどの大きさの飛行性爬虫類から海洋に浮遊している単細胞藻類にいたるまで)も、恐竜と同じように終焉を迎えたという事実を見過ごしがちである。古生物学者は“大絶滅”という用語を以下のような生物の出来事について用いる。それはせいぜい数百万年という、地質学的には相対的な短時間のうちに、生存していた非常に多くの種類の生物が突然に全くいなくなることである。
 地球上に多細胞生物が現れてきてから、生物が大量に絶滅するという大きな出来事は十数回もあったが、そのときに滅んだ生物は絶滅した全生物のうちのごくわずかでしかない。それ以外の数百万種もの絶滅した生物のほとんどは、ばらばらに死滅した。環境条件の変化は多くの種にとって重大問題であり、適応できなかった種類は絶滅したのである。
 実際、地球上にすんでいたほとんどの種はずっと昔に死滅している。現生の動物と植物の知識を利用して化石を研究しようとする人は誰もが、この事実に直面する。絶滅したと信じられている種の生き残りがどこかにいるのではにかと、ひそかに心に抱くような知られざる大地は、生物の研究によりほとんどなくなっている。しかし、これがいつの時代でもそうだったわけではない。18世紀にさかのぼってみると、生物の世界は本当にわずかしか解明されていなかった。そのために、化石しか見つかっていない奇妙でしかも絶滅したかもしれない生物が地上の未探検の地域にまだ生息しているかもしれないと、本心から考えていた科学者もいたのである。絶滅という考え方には、他の何ものにもまして神学が激しく反対した。神学によると生物界は創世物からできている完全なものと想定されており、すべての種がいつかは絶滅するということは造物主の不完全さを意味すると考えられたからである。トマス・ジェファーソンはウエストバージニア州で掘り出された雄牛ほどの大きさをしたオオナマケモノの骨を同定する際に、世間に広まっていたこの見方にとらわれていた。彼はこの巨大な動物が北アメリカの未探検の西部地域にまだ生きているだろうと考え、“自然の連鎖のある一つが失われるとすれば、ついで別の一つが失われることになり、そのようにして事物のすべての連鎖がすこしずつ消滅していく”と述べている。
 1786年になって初めてフランスの古生物学者ジョルジュ・キュビエが、ほとんどすべての博物学者を納得させる絶滅という事実を明らかにした。最初にキュビエは骨格の比較から、現在われわれが最終氷期とよんでいる時期にヨーロッパを歩き回っていたマンモスが、現生のインドゾウにもアフリカゾウにも属さないことを明らかにした。ついで彼は、マンモスがあまりにも大きいので現世で見過ごされるわけがないと指摘した。すなわち、マンモスがもし絶滅したとすれば、研究者にとってなじみのない多くの化石動物も同じく絶滅したと考えられることを暗に示したのである。
 ジョルジュ・キュビエは絶滅という事実を明らかにしただけではなく、今日われわれが大絶滅とよんでいる、過去の植物と動物の共同体全体が消え去ること、すなわち地上のほとんどの種の消滅という出来事を最初に考察した。キュビエがパリ盆地から産出する化石で観察した大絶滅が、地球的規模のものであるのか単に局所的な規模のものであるのかという疑問について、実際には彼は解答を避けていた。彼は進化論が提唱される前の創造論者だったので、絶滅は局所的なものであり、古い生物にとってかわった新しい生物は別の地域から空白になった空間に移住してきたもので、聖書に記されている創造に由来する種であるという考え方にキュビエは傾いていた。
 キュビエの時代には、科学者は層位地質学、つまり地層の原理をすでに理解していた。堆積物は不連続な堆積現象により層をなして累積し地層になる。たとえば、水の流れる勢いが弱まれば、水で運ばれていた砂や泥が沈下する。現代の地質学者はこのようにして生じた層を、それが1センチメートルより厚ければ単層(bed、ベッド)とよび、それより薄ければ葉理(lamina、ラミナ)とよぶ。何層かの単層がその頂部から下に向かい連続した堆積物であれば、それを逆にたどれば地質年代の過程を示す岩石となる。緻密化や水に溶解していた鉱物質が結晶化することによる固結化、またはこの双方が複合した作用により、泥が頁岩になり砂が砂岩になる。堆積物は大洋で最も多く、そこに巨大な堆積盆をつくるが、陸地の沼沢や湖底や河川などの盆地にも堆積する。温かい浅海では膨大な量の石灰質の堆積物がたまり、海岸に沿って洗い出されれば白い砂浜をつくる。石灰質堆積物の多くは、炭酸カルシウムでできた貝殻やその他の生物の骨格の破片からできている。
 化石とは何であるかもまた、キュビエの時代には理解されていた。化石とは過去の生物の遺骸である。生物の体そのものの化石もあるが、ふつうは貝殻や歯や骨などの丈夫なものである。柔らかい組織の形が刻印されただけの化石もあり、なかには柔らかい堆積物の上の足跡や葉の外形や軟体動物が最後の休息をとった場所などの化石もある。
 キュビエが生命の歴史を研究したパリ盆地はヨーロッパの海岸からフランス北東部を経てオランダに広がる。ここには、哺乳類の時代(この時代にわれわれも生きている)の初期に大量の沈殿物が堆積した。パリ盆地内のある地層には海生生物の化石があり、また別の地層には陸上生物の化石があることから、大西洋が何度かこの地域を覆いつくし、また後にひいたと、キュビエは考えた。沈殿物が堆積するときには、新しい地層がより古い地層の上に積み重なることが、キュビエの時代にはよく理解されていた。地層の重なりについてのこの簡単な法則を適用して、海洋起源と陸上起源の堆積物の間隔を研究して、キュビエはこの盆地の歴史を再編成した。彼の著書『化石骨の研究』に概略が示されているように、キュビエは大西洋の海水の進入と後退の双方がこの地域の生物に破滅的な効果を与えたと結論づけて、以下のように述べている。“地球上の生物はおそるべき出来事によりしばしば断絶させられた。数え切きれないほどの生物がこのような破局により犠牲となった。海水の進入は陸地の生物を一掃した。そして別のときには海底が突然にもちあがって海生生物を地上に堆積させた。これらの種は永遠に消滅したのである。”
 キュビエが再編成したパリ盆地の地史は、18世紀の地質学界を支配していた一般的な考え方の天変地異説によく合っていた。この観点からすべての地質学的出来事は超自然的な原因による巨大な隆起によるものだとされ、そのうちで最も新しいものは聖書に記述されている洪水によるものとされていた。1830年代に英国人のチャールズ・ライエルは天変地異説を批判して、世界は徐々に変化する広大な自然の機械であると述べた。ある山は侵食されているが別の山が隆起しており、ある堆積岩は風化しているが別の堆積岩が近くの堆積盆でつくられているというのである。ライエルの考えでは生命は進歩することなく同じサイクルで現れたのである。種は常に消滅しており、似た種類で単に置き換えられるだけである(ライエルは種の起源という問題を避けていた。かなり後になって、進化という証拠をもってダーウィンが彼と対決したとき、彼はそれに反対した。ライエルは、哺乳類や爬虫類などの大部分の現生の動物が地質時代の全期間にわたり共存してきたという考え方に固執していた)。このように、地層中の記録は日々作用している地学的プロセスにより何百万年もかけて徐々につくられたとライエルは主張した。当時チャールズ・ダーウィンが明らかにしたことは、長期間における生物の変化だけでなく、種の起源に対し地学的解答を与えたことである。新しい種は自然選択過程により、それ以前に存在していた種から生じるというのである。
 絶滅についての現在の知識はキュビエとライエルの両者からひき継いだものである。もっとも2人の考え方は正反対であったが。とはいえライエルの考えは地質学のなかでしだいに認められてきた。彼が観察した大地を刻む日々の作用がまさしく多くの岩石中の記録をつくったのである。全地球的あるいは地域的な天変地異も重要かもしれないが、天変地異はめったに起こらないことであり、起こった証拠はわずかしかない。たとえば、恐竜が絶滅したのとほぼ同じ時期の薄い地層から、不自然に高い濃度のイリジウム(イリジウムは地球ではきわめて少ない元素であるが、ある種の地球外の天体にはかなり多い)が記録されている。地球にぶつかり恐竜を絶滅させた隕石が、大量のイリジウムを運んできたと信じている科学者が大勢いる。ところでイリジウム濃度の異常があるところはどこでも、その地層の厚さは1メートル以下であるといわれている。これに対して、恐竜の時代(中生代、約2億5千万年前から6600万年前まで続いた)には地球上の多くの場所で数千メートルの厚さの堆積物がつくられたが、それは徐々に堆積したりまたは局部的な嵐や洪水などの地質学的にはそれほど大きくない天変地異により堆積したのである。この膨大な時間の経過の間に何百万もの種が地球上に現れ、かつ消えていったが、その数は最後の大絶滅での絶滅数をはるかに上回っている。
 現在では、大絶滅を地史上の事実としてだけ研究するのではなく、原因(たぶん単一の原因ではなく、複数の原因というほうがより適切であろう。多くの科学者は、多数の個体の大絶滅は複数の原因によるものであると信じて疑っていないから)を探究しようとしてさまざまな分野の科学者がくわしく研究している。たとえば、キュビエが信じていたように、陸地と海洋との相対的な位置の変化により生物界の大きな変化が始まったと想像してみよう。相対的な海面の上下は膨大な量の水を貯めている極地の氷床が大きくなるか、もしくは大陸地表に対して海洋底が相対的に沈降するか、あるいはこれらの相互作用に左右されることがわかる。理解をより深めるためには、氷冠の成長や海洋底の沈降による海水の取込みを起こす何らかの条件を研究しなくてはならない。大絶滅の直接の原因、つまり死滅をもたらす現実の作用、すなわち直接の原因は海面の上下である。しかし、われわれはもっと根源的というか、遠因とでもいうべき間接的要因も考えなくてはならない。たとえば、直接の原因である海面の上下をひき起こした氷冠の成長や海洋底の沈降は、何が原因で起こったのかということである。
 キュビエは生物界での二つの大きな絶滅を識別した。初めの絶滅は約2億5千万年前の、“最初の時期(Primary Time)”の末(現在では古生代とよばれている)に起こった。二つめの絶滅は約6500万年前の、“第二の時期(Secondary Time)”の末(今日では中生代またはよりくだけて恐竜の時代とよばれている)に起こった。この2番目の絶滅は長い間人々の興味を集めてきたが、何が地球上の恐竜の王国を終結させたのかという疑問が1980年代ににわかに脚光を浴びてきた。なぜなら、地球と巨大な隕石が衝突したときの不幸な変化が、地史上で最大の陸上動物を殺しつくした、という仮説が盛んに議論されたからである。恐竜の神秘性は、絶滅についての興味だけにつきるものではない。われわれ人類が属する哺乳類(哺乳綱)は中生代を終結させた破局から最も利益を受けた生物であるから、人類中心主義に根ざす動機からも関心がもたれる。恐竜が地上を支配している間、哺乳類もまた1億年以上にもわたり各大陸にすんでいたが、比較的小さい目立たない生物のままであった。どれひとつとして飼い猫より大きくはなかったし、多くのものはたぶん夜行性だったと思われる。どう猛な種類の肉食性の恐竜がいたり、他の動物が食物と空間をめぐる争いで何かの能力が優れていたので、中生代には哺乳類の進化が抑えられていたのであろう。
 しかし恐竜が絶滅した後、哺乳類は中心的な動物になり、適応放散をした。つまり、一つかごく少数の祖先種から生息場所の違いや新しい生活様式に適応した多数の新種が分化したのである。1億年以上の雌伏の後、哺乳類は急速で著しい分化をした。恐竜が絶滅してからわずか1千万年かそこらの間に哺乳類のなかにはコウモリやクジラなどの特徴的な動物から、大型のイヌくらいの大きさの多くの陸上動物が現れた。長尾猿類や短尾猿類や人類が属する霊長類の最初の種が現れてからまもなく、将来ヒトを生み出す一分枝がこの哺乳類から適応放散の一側面として発生した。もし恐竜が生存していたならば、現在われわれが地上を歩き回らなかったことに疑いはない。そして哺乳類は、現生の齧歯類と同じように、小さい控え目な生物のままだったであろう。
 地質学者はもっぱら生物の大きな変化に従って、長大な地球の歴史を区分している。最大の区分は累代である。累代はに分けられ、代はに分けられる。紀は他の地質年代の細区分と同じように、その長さは異なるがおのおの数千万年以上である。中生代の最後の紀は白亜紀で、恐竜の絶滅で終わる。白亜紀などの紀はに細分され、世はに細分される。多くの期は5百万年から1千万年ぐらいである。
 恐竜の絶滅に興味があるからといって、それ以外の大絶滅を見過ごしていいわけではない。たとえば2億5千万年前には、“古い生物の時代”を意味する古生代を終わらせたきわめて破局的な大絶滅があった。この絶滅により海生生物と、恐竜が現れる前に陸上の支配動物であった哺乳類様爬虫類の双方が被害を受けた。過去の何回もの大絶滅が示している事実には類似性と相違性があるので、大絶滅の理解が容易になる。だから本書では恐竜の絶滅だけではなく、他の十数回の大絶滅も同じように考察しようと思う。6億5千万年前のほとんどの生命は水生の細菌や藻類であった。地球の生命の歴史のうえで原始的な段階の絶滅からまず始めよう。考察した最も新しい絶滅には、われわれ自身が属するグループである哺乳類が影響を与えている。ほんの約1万1千年前に終わった最後の絶滅では、狩猟活動を通じて人類が実際にかかわったと考えられる。

 
絶滅の実態
 細部を詳述する前に、絶滅の実態の全体像を概観してみよう。ある学者は、特定の種がその分布域の一部分から消滅することを、局所的絶滅とよぶこともある。しかし、絶滅という学術用語は1種または数種の全個体が全滅することに限定するのが全滅することに限定するのが望ましい。
 種の絶滅とは、種の分布域と個体数とが減少してゼロになることである。分布域と個体数という二つの変数は種が生きている間中、生態学者が制限要因とよぶ要因により支配されて、毎年変わっている。制限要因とは、物理的環境、生態的競争、捕食、そして偶然の要因である。気候は最も重要な物理的制限要因の一つである。気候の変化はまちがいなく多くの絶滅をひき起こした。約250万年前のアフリカの森林にすんでいた何種類かのカモシカの絶滅などがこの例で、このときには気候が乾燥して森林が縮小し草原が拡大した。種間での生態的競争は通常、食物と空間をめぐるものである。最近では種の出現または移住により、近似する別の種の分布と個体数が減少していることが世界のあちこちで知られている。一例がイギリスでの赤毛リスの減少で、人間が1920年代に導入した灰毛リスの分布の広がりによって起こった。これと同じ影響が、新たに到来した種や新たに進化した種に既存の種が過度に捕食されてから起こる。防御力が弱かったり逃げ方が下手だったりして、犠牲となる種が捕食動物からきわめて害を受けやすければ、打撃の影響は深刻である。
 絶滅というのは通常複雑な過程であり、しばしば二つ以上の要因が絶滅にかかわったと考えられている。たぶん偶然の要因も、今述べたように制限要因の一つではあるが、物理的条件や競争または捕食(もしくはこれらの複数の作用)により種の個体数が減少した後には、種の最終的な消滅に重要な役割を果たした。個体数の少ない種のほうが個体数の多い種よりも、被害の影響が大きいと考えられる。たとえば、繁殖期に偶然の要因で雄が雌と交尾できなかったなら、1年後にはごくわずかの個体数しか存在しないことになる。
 このようにいってはみたものの、数百万の種が過去の地質年代に絶滅したが、絶滅の本当の原因について確実にわかっていることはごく少ししかないことも、認めざるをえない。膨大な数の絶滅した種に何が起こったかを理解するためには、個体数の変化や当時の環境の変化をできるだけ再構成するしかない。よく知られているように、常に変化する物理的そして生物的環境が種を恒常的に抹殺すると同時に、いくつかの種は以前に存在していた種によく似たままであるが、他の種では有利な特徴をもつ新しい種が進化によりつくられている(消滅と起源とに数量的な均衡がとれている必要はない)。このように種が徐々に減っていくという、日常的な消滅がある。
 特定の非常な短期間に特定の地域で多数の種が絶滅したことが、化石からわかる。他の地域では同じ科や属に属する別の種が生存している場合は、大絶滅というよりも局所的絶滅として理解すべきである。第9章で述べるが、このような激しい局所的絶滅は鮮新世と更新世での最終氷期に陸上と海洋で起こった。海で起こった最も大きな絶滅は西大西洋とカリブ海で起こり、フロリダ州以南にすむ狭い意味での南方種がほとんどすべて消滅しており、気候の寒冷化が原因と考えられている。重要な点を明らかにするこの事例から、われわれはおもな要因を突き止めることができた。単一種のみが孤立して絶滅した原因を解明するよりも、反復して多数の種を消滅させた絶滅の原因を解明するほうがやりやすい。大きな絶滅では、単一種の絶滅ではできない選択的絶滅の有様を明らかにできる。

大絶滅の実態
 大絶滅により短期間に、全地球的規模で多数の種(ときにはほとんどの種)が消滅した。この過程で、多くの高次の分類階層(そのなかに種が分類されている)が消滅した。生物の分類階層の最高次のものはである。動物は一つの界であり、植物は別の界である。そして当然、これらの膨大なグループのどちらも、どの大絶滅でも消滅してはいない。界につぐ分類階層はである。実は、絶滅によりいくつかの門が消滅した。門の一例として脊椎動物門があり、これには背骨のある動物全部といくつかの原始的な脊椎動物が属している。哺乳類(哺乳綱)と爬虫類(爬虫綱)とは脊椎動物門の中の二つの綱である。これらは、通常の体系ではの単位に順次細分される。門とは対照的に、多くの低次の分類階層が大絶滅で消滅した。たとえば恐竜は二つの目からなる。従来はこれらは爬虫綱に所属させられてきたが、恐竜と類縁があるある種の鳥類やワニ類などとともにこれらを独立した綱に分類している専門家もいる。
 科やそれ以上の高次の分類階層の消滅は、それらに属するすべての種の全滅である。種数が減少し、日常的な消滅により、ゼロにまでなることもある。たとえば、ある動物群がその動物を特に攻撃する性質をもつ新たに進化した捕食動物や有力な競争動物に出会えば、このような減少がありえる。ある生物が競争で置換されたもう一つの好事例は、後期白亜紀に新たに進化した堅木などを含む被子植物が、針葉樹(毬果(きゅうか)がある植物)とその近縁の植物を押し退けて繁茂したことである。被子植物は再生産が早いので競争に有利であり、裸地へ効果的に移住できる。これに対し、針葉樹の種子は発芽に時間がかかる。被子植物が現れる前には針葉樹とその近縁の植物が優勢であったが、今日では被子植物が繁殖できない寒冷地か乾燥地にしか繁茂していない。また、現生の針葉樹は約550種しかないが、20万種以上の被子植物が現代の地上で繁茂している。針葉樹など特定の生物群が減少した重要な要因は、地球的規模で生物が進化したからであり、競争により日常的な消滅の率が高まる。
 科などの高次の分類単位で、日常的な消滅と大絶滅とが本当に区別できるかどうかは、重大な問題である。この疑問に答えるため、1982年にシカゴ大学のJ.ジョン・セプコスキーとデビッド M.ラウプとは、過去の5億6千万年ほどの間の脊椎動物と海生無脊椎動物の科の絶滅数を100万年単位で計算してみた。時間に対して絶滅の割合をとったグラフから、大きな絶滅が起こった五つの地質年代が明らかになった。そのうちの一つが白亜紀の最後のもので、この時期に恐竜が減少し、絶滅しつくしたか、もしくはほとんど絶滅した。1982年に出版した別の論文でセプコスキーは、これら五つの最も深刻な絶滅のほかに、これにつぐ規模の絶滅が過去6億年の間に約10回起こったと述べた。そうなると高い割合で科が消滅する大絶滅の期間と、全地質時代にわたり起こった低い割合の日常的な消滅の期間とを、本当に区別できるのかどうかという疑問がでてくる。この疑問への答えは、低い割合の日常的な消滅の時期と大絶滅の特徴である高い絶滅の割合との時期の間に、両者の中間の割合の時期が長期間あるかないかである。絶滅の割合の中間的な時期がごくわずかならば、大絶滅のときにきわめて異常な何かが起こったと考えてよいことになる。
 この疑問点は数の問題だけでは解決されない。なぜなら大絶滅の事例があまりにも少ないので統計学的検証では決定的なことがいえない側面があるからである。カリフォルニア大学デービス校のジェームズ F.キィンはラウプとセプコスキーがつくったグラフが示す絶滅の様子を全体にわたり厳密に検討し、大絶滅と名付けられた五つのピークには日常的な消滅の率から量的に区別できる決定的な統計学的証拠はないと結論した。ラウプとセプコスキーとはこの批判に対し、科での高い絶滅率だけが大絶滅の唯一の証明ではないと反論した。さらにこれらの大絶滅ではより高次の分類階層(動物の目とか綱などで、これらは大絶滅以外の時期に絶滅することはほとんどなかった)のものが、地質学的には突然に消滅したことが大絶滅の一般的な特徴であると述べている。
 大絶滅と日常的な消滅とが量的に区別できることには、何の疑問もない。たとえば、ミシガン州立大学のロバート・アンステイは外肛類という動物の絶滅のパターンについて、大絶滅の期間と絶滅の割合が低い日常的な消滅の期間とを比較してみた。外肛類は一般にコケムシとよばれる海生無脊椎動物で、コロニーをつくり硬いものの表面に付着する。おのおののコロニーの全個体が、1個体の祖先から出芽してできる。各個体は小さい生物で、多くの個体は周囲の海水から食物を濾過する。同じコロニー内の別の個体は生殖やコロニーの防御などに専門化している。アンステイは、複雑なコロニー(多様性に富んだ個体がつくっているコロニー)をつくる性質がある種類のコケムシでは、2回の大絶滅の時期(後期オルドビス紀と後期デボン紀)に、絶滅の割合が異常に高いことを発見した。外肛類では、それ以外の時期では絶滅の割合がきわめて低い。この違いの生物学的理由はわからないが、深刻な絶滅期にコケムシに何らかの異常が起こったことは明らかである。考えられることは、大絶滅と日常的な消滅とは因果関係がないということである。
 北アメリカ東部で最終氷期に起こった二枚貝の局所的絶滅について、私は同様な検証を行った。二枚貝とはよく知られているハマグリやイガイやカキなどで、らせん状の単一の殻がある巻貝とは対照的に、蝶番(ちょうつがい)で結ばれた2枚の殻の中に収まっている。東海岸の絶滅では、多くの小型の種が消滅したが、大型の種では影響はそれほど大きくはない。この事実は初めは奇妙に思われた。なぜなら同じ時期のカリフォルニアと日本の海岸では、大絶滅は起こらず、低い率の日常的な消滅のままであった。これらの安定した太平洋域では、個体数が大変多かったので小型の種は非常に低い消滅率の下で安全な生活をしていたと考えられる。ちょうどゾウの少ない個体数とネズミの膨大な個体数が対比されるようにである。北アメリカ東部での大絶滅をひき起こした原因は、大西洋北部に隣接するスカンジナビア、グリーンランド、東部カナダの3地域で氷河期に大規模な氷冠を発達させた、地域的な気候の寒冷化である。小型の種には温度耐性が狭いという特徴があり、多くの種類が熱帯的な海域にのみ分布している。この理由から、生息している海が全体として寒冷化したときには、その膨大な個体数は種の生き残りのためにはほとんど役立たず、小型の種は北アメリカ東部での局所的な大きな絶滅により選択的な被害を受けたのである。
 シカゴ大学のデビッド・ジャブロンスキーは、北アメリカでの後期白亜紀の大絶滅期(これは恐竜を消滅させた)の軟体動物に特徴的な大絶滅の異常なパターンを、同様に明らかにした。ここで比較されたのは、幼生の発達様式が異なる種類の軟体動物の運命である。一つは大洋を数週間、ときには数カ月も浮遊し、その間に摂餌をして発達する種類である。一方の種類の幼生は摂餌できず、数日もしくは数時間しか浮遊できないか全く浮遊できない。ジャブロンスキーは、摂餌できる種類のほうが広い海域に分散できるのは明らかなので、白亜紀の通常の時期では絶滅に耐えられることを発見した。幼生が摂餌しない種類や地理的分布が狭い種類は局所的な環境の変化に対する耐性が狭いので、絶滅の率が高かった。とはいえ、白亜紀末の大絶滅の時期には、これら二つの種類ともに多かれ少なかれ被害を受けた。
 このような絶滅の事例から、生物の絶滅についての四つの特徴が明らかとなる。それは、日々起こっている日常的な消滅が単に増加したというものではなく、質的に異なるものである。四つの特徴がなぜ異常なのかを以下で詳述する。

大絶滅の特徴
 生物の絶滅の原因を明らかにしようとすれば、個別の絶滅の特徴だけではなく、いくつもの絶滅に共通する特徴に焦点を合わせなければならない。共通の特徴は、絶滅に共通する要因を示している。
 絶滅でみられる著しい特徴は、何回もの絶滅が陸上と海洋との生物双方を同時に襲ったことである。ということは、偶然に同時に起こった絶滅もいくつかはあるかもしれないが、陸上と海洋で一斉に起こった大絶滅の原因は陸上にも海洋にもないということを意味する。
 ハーバード大学のアンドリュー H.ノルが解明した第二の特徴は、陸上では動物には繰返し絶滅が起こったが、植物は大絶滅に対して抵抗力があったということである。植物も大きな変化をしたが、そのパターンはある主要なグループが数百万年もかかって別の植物で置き換えられるというものであった。
 第三の特徴はすでに述べたように、大絶滅の時期には熱帯生物が選択的に消滅している。白亜紀の終わりを告げた海生生物の絶滅ではこれが特に顕著にみられるが、それ以外の多くの絶滅でも明らかである。
 大絶滅の第四の特徴として、特定の動物群が繰返し絶滅の被害を受ける傾向がある。そのような動物群では、最初の絶滅期に全種類が消滅したわけではないのは明らかである。絶滅期の後には、死滅した種に変わり生き残った種が繁殖した。三つの海生無脊椎動物にはこのような滅びやすさがあり、時期は同じではないが、どれもが最後の絶滅期に完全に滅んだ。これらの動物群は以下の章で論述する。このような動物群は、海底を這いまわり穴を掘って生活していた三葉虫、通常は海洋に浮遊しているがときには軸茎の上にコロニーをつくる筆石、現生のオウムガイと類縁のある遊泳性の捕食動物で貝殻をもつアンモナイト類である。これら三つの大きな動物群が大絶滅したのは、それらの日常的な消滅率が高いことと関係があるようである。各動物群では日常的な種類の転換が非常に高く、これは種分化(既存の種の個体群から新種が現れること)の率が高いので種が高率で死亡し置換されることを意味する。置換される割合が高いということは、不安定を意味する。したがって、絶滅する割合の増加や種分化率の減少などの変化がそれほど大きくなくても、種の個体数を致命的に減少させることになる。
 最後に、大絶滅について最も論争の的となっている点は、絶滅の時期には全地史を通じて均等な間隔、すなわち周期性があったかどうかということである。大絶滅は2600万年ごとに起こったといわれている。このような考え方の有効性を確かめるのは思うほど簡単ではない。まず、大絶滅の時期が正確には決められない。つぎに、相対的に高い絶滅率で特徴づけられる何度かの時期が、本当に大絶滅なのかそれとも日常的な消滅の率が少し高まったものなのかについていくつかの疑問がある。地球に内在する周期性を考えるのはむずかしいので、生物の絶滅が周期的であったという考え方に対してより多くの天文学者が原因の探求に参加するようになり、絶滅の潜在的な原因を地球外に探すようになってきている。天文学者たちは、恐竜を最終的に絶滅させた地球外からのイリジウムの降下と同じモデルをすべての絶滅に当てはめようとしがちである。周期性についての興味深い疑問は、絶滅そのものを議論した後、本書の最後の章で検討する。
 大絶滅は約6億5千万年の間に何回も起こった。最初の絶滅では、われわれが知る限り犠牲になったのは藻類だけであるが、その時期は最初の生命が海で繁殖を始めた直後であった。その後5億9千万年前に始まったカンブリア紀には、何回もの絶滅期に動物が死滅した。カンブリア紀の絶滅期に被害を受けた動物はすべて無脊椎動物で、大部分のものは現生のカブトガニと少し類縁のある三葉虫であった。若干の後退はあったが、カンブリア紀は三葉虫の全盛時代であった。これに続く古生代の3回の絶滅期にはさまざまな海生生物が被害を受けた。そのうちで2番目の絶滅期は3億7千万年以上前に始まり、われわれが知る限りでは脊椎動物が犠牲となった最初の大絶滅であり、そのときには大型の甲冑(かっちゅう)魚類が犠牲となった。2億5千万年より少し前に、地史上最大の絶滅により古生代が終わった。海生生物が非常に減少し、この時に消滅したものは海生生物の75パーセントから90パーセントにまで達する。この絶滅は陸上の脊椎動物にも打撃を与えた最初の絶滅であり、ちょうどこの絶滅期に魚類から進化して陸上にあがり這いずりまわっていた初期の両生類が被害を受けた。中生代には何度も大絶滅があり、最後でかつ最大の大絶滅で恐竜が絶滅した。最後に新生代には、数回の大きな絶滅が海洋と陸上の生物に被害を与えた。後述するように新生代の絶滅は、北半球での過去300万年間の、氷河の拡大と衰退という特徴をもつ長期間にわたる全地球的な気候の寒冷化でひき起こされた。』

10 まとめ
 本書の主題は気候変化である。気候変化だけが大絶滅の原因ではないが、最も重要なものである。海洋では、気候変化に匹敵するものとして、海面の低下による海底面積の減少が一般に考えられている。これがおもな要因であったかどうかを検証するのは、現世の面積が狭い海底にも多種類の動物相があることと、大絶滅の原因と考えられている過去何回もの海面低下で海の生物がどれくらい減少したかということである。前期オルドビス紀終わり近くのかなりの海面の低下も漸新世中ごろの低下も、全地史を通じて最も大きなものであったにちがいないが、いずれの際も海生底生生物は大幅な減少はしていない。

気候変化説についてのまとめ
 生物の絶滅での最も重要な特色は、海洋と陸上で同時に被害が起こるということである。気候の変化は海と陸の生態系に影響を与えるので、気候の変化がおもな原因であると考える大絶滅のどんなモデルからでもこの相関関係を予想できる。大きな絶滅があったときに氷河の発達やその他の気候の変化があった確かな証拠がこの数年間に発見されている。その時期とは先カンブリア時代の後期・後期オルドビス紀・後期デボン紀・後期白亜紀・後期始新世であり、これ以外の絶滅が起こったどの時期でも気候寒冷化を原因として否定するものは何もない。
 ほとんどの大絶滅でのもう一つの特色は、その期間が長く続き、しかもしばしば激しくなる時期があることである。多くの絶滅はさまざまな要因が混じりあった数百万年もかかる出来事である。白亜紀末の大絶滅を説明するために、地球の外からの巨大な天体が地球に突然の衝撃を与えたという考え方をもちだすことも可能ではあるが、大絶滅全体は数百万年も続くものであり、同位体(酸素-18と酸素-16)の比率と植物化石の双方が示すところによると、その時期には一般的な傾向として寒冷化していた。後期始新世にボライド(火球)が降り注いで数種類のプランクトンを消滅させたといういくつかの証拠があるものの、同位体と植物化石の資料はこのときの陸上の気候が全体として寒冷化の傾向にあったことを示している。また深海が結氷点近くにまで冷やされたことはさまざまな証拠から明らかで、深海は現在でも低温である。全般的な寒冷化の傾向が多くの生物にマイナスの効果を与えることは確かである。
 地球の外からの原因による大絶滅を検証するうえで重要なのは、多数の信頼できるイリジウム濃度の異常を研究したロスアラモス国立研究所のカール・オルスと彼の共同研究者による最近の主張である。白亜紀末の境界より古い地層の中にあるどの大絶滅でも、イリジウムの大きな異常はないと彼らは結論した。たぶん、白亜系の最上部層にあるイリジウム濃度の過度な異常そのものが異常なのであろう。このことはボライドによる衝撃を、せいぜい顕生累代の生物の歴史の中での小さな出来事として位置づけるだけである。

周期性に対する疑問
 1977年に当時プリンストン大学にいたアルフレッド・フィッシャーとマイケル・アーサーは、中生代と新生代での大絶滅には周期性があって約3200万年ごとに起こったと述べた。これは恐ろしい予見をもたらした。なぜならその当時には白亜紀末の絶滅と現在とのほぼ中間(後期始新世)での絶滅が起こったと考えられていたのであり、このことは現在われわれが絶滅期の入り口に立っていることを意味するからである。周期性という一般的な考え方にはもっと重大な意味がある。このように正確な周期性があるのは天文学的な原因しかないと思われるので、大絶滅には地球の外からの要因が考えられるのである。惑星やもっと小さい天体も恒星のまわりを周期的に公転しているが、われわれの太陽系も銀河のらせん状の腕の中を周期的に通過している。地球自身に由来する原因で、同じように周期的に起こるものは、現在のところ全く考えられない。
 最近になって、シカゴ大学のデビッド・ラウプとジョン・セプコスキーは時間の間隔を考え直すべきだと述べていた。後期ペルム紀から現在までに起こった周期性は2600万年であり、最後の絶滅は約1100万年前に起こったと彼らは主張した。ラウプとセプコスキーの最初の解析はその後拡張されたが、海生生物の科がどの時期に絶滅するかをまとめたものである。当初彼らは、ペルム紀中ごろ以降に起こった科レベルでの絶滅をグラフ化して、そのピークすべてに注目した。絶滅があった時期についての十分に正確な資料がないので、あたかもその科が生存した年代の最後の“瞬間”に絶滅したかのように、一般に認められている地質年代表の中に科を割り振っている。彼らはそのグラフの中で39のそのような瞬間を示している。絶滅の割合が上下したので、グラフにはいくつものピークができる。そうしたいくつものピークのうちには白亜紀の終わりを示すものもあり、一般に認められている大絶滅と一致する。他のものは一致しない。にもかかわらず、ラウプとセプコスキーはピークを絶滅を示す時期として取扱い、そうしたピークは他のどの周期性よりも2600万年の周期性に近いという。彼らはさらにグラフ中のピークは、不規則に、いいかえると無作為に絶滅の割合が上下するシステムのなかで起こるものよりも、正確に2600万年ずつ離れているものに近いことを発見した。
 周期性という考え方には議論の余地がある。ほとんどの絶滅について、より正確で最新の年代決定が相ついで発表されているから、採用された年代が明らかに不完全だという反論もある。ラウプとセプコスキーは、まず絶滅のパターンを失っていない年代を複数以上の出版物から採用したし、ついで絶滅は本質的に不規則なのだから、不完全な年代決定が真の周期性を強調せず弱めていると反論した。
 ポーランドのアントニ・ホフマンは行き当たりばったりの歩行(この歩き方では次の一歩が右を向くか左を向くかは五分五分である)では、ピークが現れる最も妥当な間隔は、経時的にみると4歩であると述べている。そうすると一つの科が絶滅する年代間隔の平均が600万年より少し長いとすると、絶滅の割合の高いピークは自動的に約2600万年ごと(600万年より少し長い期間×4)ということになる。ホフマンがこのように述べているので、多くの隣接するピークが約2600万年離れていることが発見されても驚くにはあたらない。にもかかわらず、ハーバード大学のスティーブン・グールドは、絶滅のピークは正確に2600万年ごとに起こったというラウプとセプコスキーの主張は相当かけはなれていると、反対している。ホフマンの擬周期性についてのメカニズムが、彼が主張したものほど強力でないことは事実である。一方、実際にプロットしていけば、2600万年ごとには重大なピークは現れない。ラウプとセプコスキー自身がプロットしたピークのうち三つ(このうち二つは、予想されたピークであった)がバックグラウンドの水準よりわずかに高いだけであり、彼らはごく最近に、それらは統計学的には有意なピークではないことを認めた。
 三つの絶滅のピークがなくなったので、問題が面倒になってきた。ラウプとセプコスキーは、偶然によって起こったのではなくもっと確実に2600万年のサイクルでピークが現れると考えて、科と属のレベルでの重要なピークの検証を続けている。予想されるピークが二つ失われたので、二つのピークの間隔が経験的に約5000万年の長さになったという問題がでてきた。これら二つの隣接するピークは白亜紀末の絶滅より前である。これについて考えてみると、ラウプとセプコスキーも認めているように、年代決定という別の種類の問題に直面する。後期三畳紀と後期ペルム紀の岩石の年代決定がかなり不正確なばかりではなく、それらの時代での絶滅のピークを識別するのもまた不明確である。大きな絶滅は後期三畳紀のノール期とレート期のものとされてきたが、この二つの“期”がかなりの長さで互いに重なる可能性が考えられている。後期ペルム紀の絶滅でも同じく、最後のズールフィア期とその前のガダリュープ期で非常に大きな絶滅が記録されている。第5章でも述べたようにズールフィア期の露頭が貧弱なのでズールフィア期のいくつかの絶滅をまちがってガダリュープ期のものとしていることが示唆されてはいるものの、ガダリュープ期に実際に多くの絶滅が起こったのは明らかである。このことは特にフズリナ類の有孔虫とコケムシについてはあてはまり、それらの化石があればきわめて数が多いので岩石を顕微鏡で調べればすぐに識別できるが、この二つのグループともにガダリュープ期が終わる前に消滅している。
 これらすべてのことから、後期白亜紀のセノマン期の終わりから約1億4000万年さかのぼって、2600万年の周期性が厳密にあてはめられる根拠がないことがわかる。重要なピークは六つではなくたった四つしかなく、現在のところ予想されるピークに近い条件をみたす絶滅はたったの二つ、ジュラ紀のプリンスバッハ期後期とティトン期後期のものである。さらに本書の第6章で述べたようにジュラ紀動物相の専門家であるアンソニー・ハラムは、プリンスバッハ期の絶滅は全地球的な規模のものではなく、ヨーロッパ西部に限定されたものであると結論している。
 他方、年代決定の再検討を含めて、白亜紀末と始新世後期の絶滅のピークの間隔を2600万年よりもかなり長い間隔に変えるような、新しい証拠が現れる機会はほとんでない。しかし、白亜紀の終了(マーストリヒト期)を約6500万年ではなく約6550万年前とし、また始新世の終了を3800万年ではなく3650万年前とする、証拠が増えつつある。このように変えると、間隔は2700万年ではなく、3000万年ということになる。ラウプとセプコスキーのグラフではすべてのピークは絶滅が起こった期間の最後の時期を示しているが、マーストリヒト期の絶滅は実際にはマーストリヒト期が終わる前に起こっており、その次の絶滅も始新世後期が終わる前に始まったことを思い出していただきたい。このような事実は過去1億年間に起こった大絶滅の周期性を証明するものではなく、逆に大きな疑問を浮かび上がらせるものである。中新世(1100万年前に終了)中ごろの終わりに起こったとされる絶滅にも問題があるように思える。この時代の浮遊性有孔虫では、過去300万年(最終氷期)の間に起こった大きな減少のような真の絶滅はなく、また今までみてきたように陸上で哺乳類が大きな絶滅をした証拠もない。中新世中ごろに起こった絶滅の有力な証拠は、絶滅の時期が十分には決定されていないいくつかの科と一緒に絶滅したにちがいない、わずか五つの科の海生生物である。種レベルでみると、中新世中ごろに生物の最大の変化があったのは深海と考えられ、そのときに著しい寒冷化が始まった証拠がある。
 周期性を統計学的に検証したラウプとセプコスキーは、ピークが約2600万年の周期であると証明できず、逆に無作為に起こった場合に通常予期される間隔よりは2600万年に近いことを明らかにしただけである。観察される分布のようになる原因としては、何らかの状況によりピークとピークの間に予想される絶滅の短い時期の数が減り、分布がランダムにならなくなるのである。とりわけ絶滅期を生き抜いた生物とその直系の子孫は、絶滅をひき起こした環境悪化に続いて起こった2回目の環境悪化に対して抵抗力が強いと考えられるので、抵抗力が弱い新しい科がたくさん進化するにはかなりの時間を必要としたのであろう。このように考えてくると、何回もの大絶滅の後では生物がつくった礁の発達が弱いままであったのを思いだしていただきたい。回復に長い時間がかかるので、大きな絶滅の跡が消えてしまう。ミシガン大学のジェニファー・キッチェルとウィスコンシン大学のダニエル・ペナは厳密な数学的解析を用いて、同じ原因による擬周期性を示唆している。
 周期性という考え方からでてくる当然の結果として、重要性があるにもかかわらずあまり注目されていないのが、中生代と新生代の絶滅曲線の大きなピークに何らかの地球の外からの原因がかかわったのではないかという可能性である。もし各ピークが連続して周期的に起こる絶滅の一部分ならば、周期的な原因が考えられる。すべての大きな絶滅にそのような原因がかかわったかどうかという疑問については、本書ですでに大いに観察し議論している。たとえば始新世の後半に起こった絶滅では、その時期に深海水と陸上気候とが寒冷化(そして現在もそうである)を始めたことがわかっているし、またある時期にはゴンドワナ大陸の大きな部分が最終的に南極大陸から分離して南極点から離れていったという地球上の原因で解釈可能であるにもかかわらず、なぜ地球の外からの原因をもちだす必要があるのだろうか。地球の外からの原因で始まった長期にわたる温度の低下により、南極大陸の氷河が成長し始めたという可能性は考えられる。氷床が少し大きくなると、日光の反射率が増すのでさらにこの傾向が増大するようになり、そうしてどんどん反射率が増し氷床が大きくなる。そうではあっても、空が短期間暗くなっただけでほぼ4000万年も温度が低いままであったように、多くの何らかの要因が考えられている。かなり昔の少なくとも二つの時代、後期オルドビス紀と後期デボン紀の大絶滅の時期には、ゴンドワナ大陸が南極点の上を移動し巨大な大陸氷河が累積し、気候の寒冷化があったという構造地質学的に有力な根拠があることを思い起こされたい。

天文学者による解釈
 地上のクレーターの形成と大絶滅とを関連づけようとする試みには根拠がないが、クレーターの形成が大絶滅の時期とは関係なく周期的であった可能性が浮かび上がってきた。クレーター形成と絶滅とに強い関係がなくても、天文学者は地球との周期的な衝突を仮定している。天体が原因であるとする仮説は、彗星やそれ以外の天体が摂動(彗星が正常な軌道からはずれること)して地球と衝突することを、2600万年の周期性で説明するために考えだされたのである。太陽系が銀河のらせん状の腕の中を定期的に通過するときにこれが起こるかもしれないし、また銀河の中で太陽系自身の軌道運動で定期的に衝突が起こるかもしれない。これら二つの運動により太陽系の彗星は、他の大型天体からの万有引力で引きつけられる。もう一つのモデルは、太陽のまわりを回っている暗くて見えない仮想的な星か、または同じく仮想的な膨大な質量の10番目の惑星により、太陽系の外縁で彗星雲が周期的に乱されるというものである。
 全地球的なイリジウムの濃縮は、初めは科学者に大絶滅を起こす地球の外からの原因を探させたが、皮肉なことに今では周期的な地球の外からの原因を必要とする仮説に反対するものとなっている。これらの仮説は彗星が降り注いだのが絶滅の原因であるとしている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のフランク・カイテとジョン・ワッソンとは彗星が降り注いだというどの仮説でも、100万年から300万年にわたり地球外からのイリジウムの全体的な流入量を増加させると述べた。イリジウムの濃度が上がった証拠を探すために、これらの地球化学者は白亜紀末の絶滅より少し前の年代から約3300万年前(始新世後期の大きな絶滅の少し後)までの、太平洋深海の堆積物コア中のイリジウムの濃度を測定した。すべてのコアを、平均で20万年をそれほど超えない年代間隔で測定した。このように密な間隔で行ったサンプリングで、100万年から300万年も続いた流入量増大による高い濃度を発見できないはずはなく、陸と海で大きな絶滅が起こったことがわかっている始新世後期のコアでも、まだ高濃度部は発見されていない。定期的に降り注ぐ彗星が生態系を破壊するほど強かったという考えも、この時期の決定的な事実から棄却される。
 さらに、地球の生物絶滅の原因が天体にあるとする仮説を再検討して、セプコスキーとラウプはそれらのすべてがその場限りのいいのがれであると述べている。原因ではないかといわれている二つの未知の天体(暗くて目に見えない星と10番目の惑星)のどちらも、2600万年の周期性に合致する独自の根拠がないし、またどちらもなぜ二つの絶滅のピークが欠落したのかを説明できない。大絶滅に周期性があると確信されるようにならなければ、このような天体原因説の筋書きを案出しても、ほとんど支持されないように思われる。
 他方、絶滅のパターンを地球内に起因するものと地球外に起因するものとの両者について解明していく限り、地質学の研究領域をもっと広げなくてはならない。過去10年間に、この分野は驚くほど進歩した。15年前にはカンブリア紀・オルドビス紀・デボン紀・始新世後期の絶滅は、多くの絶滅の中ではほとんど注目されていなかった。後期デボン紀の氷河発達の発見が始まりとなって、ごく最近の1985年になってこの分野が注目を集めた。また、やっとここ10年ほどの間に層位学者が海面の上下の変動のメカニズムを解明したので、われわれは海面が低下したおもな時期と海洋での大絶滅とが緊密に関連しているという考え方を捨てざるをえなくなった。おおまかに言うと、本書で述べたほとんどの考え方と事実とが、過去10年間に岩石と化石の記録から導き出されたのである。現在では基礎が置かれたので、次の10年間の発見は素晴らしい内容を解明してくれるであろう。地上でわれわれ人類の時代以前に何が起こったのかを理解すれば、われわれのまわりの生命と人類の将来像がより明確になるであろう。』



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