『5.3 大気進化と地球環境:暗い太陽のパラドックス
地球形成時の大規模脱ガスによって形成された大気や海洋は、地球史を通じてどのように進化してきたのであろうか? 残念ながら、大気や海水の組成をそのまま保存しているような直接的証拠は存在しない。そこで、大気海洋の進化を研究する上では、間接的な地質記録から古環境を推定する手法に加えて、理論的なアプローチが重要となる。そのような研究の中で、大気組成が地球の進化とともに変化してきたことを示唆する最も有力な根拠が、以下で述べる「暗い太陽のパラドックス」という問題である。これは、大気組成や地球環境の変遷を地球外要因である太陽進化と結びつけたものである。
太陽は核融合反応で輝く主系列星のひとつである。太陽の中心部で生成された核融合エネルギーは、最終的に太陽表面に到達し宇宙空間へ放射される。このときに解放される全エネルギーフラックスを太陽光度(luminosity)という。恒星進化論によると、主系列星の光度はその進化とともに増大する。これは、核融合反応で水素を燃焼してヘリウムができることで星の中心部における密度および温度が増大する結果、核融合反応効率が増大するためである。標準的なモデルによれば、太陽光度Lは時間tに対して、
L=[1+0.4(1−t/t*)]-1L* (5.7)
のように増大する(Gough、1981)(図5.4:略)。ここで、上付の*は現在値を表す。最近までの研究によると、誕生したばかりの太陽の光度は、現在と比べて25〜30%程度小さかったと推定されている(Gough、1981;Gilliland、1989)。太陽は時間とともにその明るさを増しているのである。一方、惑星の有効放射温度(effective
temperature)Teとは、惑星を黒体と仮定した場合に、大気上端における太陽放射(太陽定数)Sと惑星放射とのバランスで決まる量で、
σTe4=S(1−A)/4 (5.8)
で定義される。ここで、σはステファン-ボルツマン定数(=5.6697×10-8J/(m2K4s))、Aは惑星アルベド(反射率)である。現在の地球の場合、S=1370
W/m22、A=0.3であるから、その有効放射温度は255K(=−18℃)となり、全球平均気温288K(=15℃)との差33Kが大気の温室効果によるものである(表5.3:略)。
主系列星が進化とともにその光度を増大させることは以前から知られていた。しかし、太陽進化が地球環境に重大な影響を及ぼすことを指摘しそれを定量的に議論したのは、セーガン(C.Sagan)らが最初であった(Sagan
and Mullen、1972)。彼らは、もし地球の大気組成と惑星アルベドが地球史を通じて変化しなければ、太陽放射が小さいために約20億年前より以前の地球は全球凍結(全球平均気温<0℃)することを見出した(図5.4:略)。しかし地球上には、少なくとも38億年前から海洋が存在していたという地質学的証拠がある。これが暗い太陽のパラドックス(faint
young Sun paradox)と呼ばれる問題である。
この問題は、機構モデルから示唆される気候状態の多重平衡解の観点から考えると、よりいっそう深刻な問題であることがわかる。ここで、南北1次元エネルギーバランス気候モデルを考えてみよう(North
et al.、1981)。一般に、このようなモデルは定常状態において図5.5(略)のような多重平衡解(multiple
equilibria)を持つことが知られている(第11巻『気候変動論』参照)。図5.5は、横軸に太陽定数(現在を1とした場合の相対値)、縦軸に雪氷の張り出している緯度φ(性格にはsinφ)を取ったものである。線形安定性解析から、解の傾きが右下がりのところは不安定であることがわかっている。図5.5をみると、安定な定常解には、氷のない状態(a〜b)、部分的に氷のある状態(c〜d)、全球凍結状態(e〜f)の3つあることがわかる。現在の状態は、太陽定数=1で部分的に氷に覆われた解(c付近)に相当すると考えられる。いま、c付近から太陽放射がだんだん弱くなる場合を考えてみる。すると、系は平衡状態を取りながらdまでいったあと、突然、d'の状態に落ち込んでしまうことになる。逆にd'の状態から太陽放射が強くなっても、氷のアルベドが高いため、e点まで日射が増えないと別の枝の解(氷なし解)に移れない。このように、多重平衡解のどれが実現するかは、解の履歴が関係する。さて、これと同じ解(つまり大気組成などの条件が現在と全く同じ場合)を仮定して、太陽定数が0.7という初期条件から出発する場合を考えてみよう。初期に取り得る解は、もちろん全球凍結解である。ところが、上述のように、太陽定数が増大して現在の値(=1)になったとしても全球凍結解の枝から離れられず、現在の気候状態は決して到達できないことがわかる。これが、暗い太陽のパラドックスの気候学的な意味である。
暗い太陽のパラドックスは、(1)過去の太陽は実際には暗くなかった、(2)惑星アルベドが時間的に増大してきた、または、(3)地球の大気組成が時間的に変化してきた、と考えれば解決する。このうち最初の可能性(恒星進化の標準理論が誤っている可能性)はまずない(ただし、初期の太陽質量は現在よりも大きく、初期数億年間にかなりの質量放出を行なったのではないかという指摘もある(Gilliland、1989参照)。もしそれが本当だとしたら、初期の太陽は現在より明るかった可能性すらある。その場合には、「明るい太陽のパラドックス」とも呼ぶべき、海洋の存在条件と関係したさらに困難な問題が生じる可能性が出てくる(Kasting、1989)。)。次に2番目の可能性であるが、暗い太陽の条件下では地表温度の低下とともに水蒸気の蒸発量が減り、地球全体の雲量が減るためにアルベドが低かったのかも知れない(Henderson-Sellers、1979)。しかしながら、気温の低下は雪氷の拡大を招き、それによってむしろアルベドは増加する可能性が高い(前述した気候モデルの結果を考えよ)。したがって、少なくともアルベド変化だけでこの問題を解決することは困難である。一方、3番目の解決策はより単純かつ合理的である。温室効果を持った気体が現在よりも多量に存在したと考えれば、太陽が暗くても地表面気温を0℃以上に保つことは可能だからである。セーガンらはさまざまな温室効果ガスを検討した結果、微量(体積混合比で10-5程度)でも有効な温室効果を持つNH3がその 最有力候補であると考えた。すなわち、初期の大気中にはNH3のような気体が現在よりも多い、より還元的な大気であったということになる。これは、当時世の中の注目を集めていた生命の起源論に好都合な結論であった。
ミラー(S.L.Miller)は、模擬的な原始大気を材料物質として、雷を模した火花放電をエネルギー源として、フラスコ内でアミノ酸を合成することに成功した(Miller、1953)。彼が仮定した原始大気はCH4、NH3、H2、H2Oから成る還元的なものであった(これは、ユーレイ(H.C.Urey)が主張する地球形成論にもとづいている。地球が比較的低温で誕生し、水素分圧が10^(-3)気圧程度あれば、このような還元的大気が形成される。)。実は、有機化合物の合成にはCOやCH4などの還元的な炭素の存在が重要となる。したがって、初期大気が還元的であることは生命誕生にとって大変好ましい。このような理由から、還元的な原始大気という描像は、その後しばらく大きな影響を与えた。生命の起源論と暗い太陽のパラドックスという全く別の問題が、「還元的な初期大気」という描像(その内容は必ずしも同じではないが)を支持することになった。
しかしながら、NH3などの還元的な気体の多くは、地球大気中においては光化学的にきわめて不安定であり、長期にわたっては存在できないことが明らかになってきたKuhn
and Atreya、1979)。たとえば、NH3は
NH3+γ→N2/2+3H2/2 (5.9)
という光化学反応によってきわめて迅速に分解してしまう(混合比10-5の場合で約10年程度!)。火山や生物活動などによる大気へのNH3の定常的な供給があれば、ある一定量のNH3を維持することができるが、その場合でもたかだか1000万年程度でNH3の光分解反応によって生成するN2が現在量に達してしまう。したがって、NH3が有効な温室効果を持つ10-5レベルで存在していたことは考え難い。暗い太陽でも全球凍結解に陥らないためには、NH3に代わる温室効果気体を考える必要がある(セーガンは彼の死後に出版された最後の論文(Sagan
and Chyba、1997)において、大気上層におけるCH4の光分解で生成された有機物エアロゾルが太陽紫外線を吸収することによってNH3が長期にわたって存在できる可能性を議論している。)。
NH3に代わる有力な候補として考えられたのがCO2である。鉛直1次元放射対流平衡モデルを用いた詳細な計算から、もし大気中に十分な量のCO2があれば地表面温度を0℃以上に保てることがわかった(たとえばKasting and Ackerman、1986)。CO2は温室効果ガスであり、光化学的に安定であるばかりでなく、地球表層部において最も多量に存在する揮発性物質のうちのひとつでもある(表5.2:略)。このことはまた、地球の初期大気の主成分は一酸化炭素ないしは二酸化炭素になるという地球形成論からの予想とも調和的である(第1章参照)。したがって、地球環境は主としてCO2の温室効果によって支えられてきた可能性が強く、大気中のCO2量の変動が地球環境を支配してきたことが考えられる。』