宮本(1989)による〔『環境経済学』(45-50p)から〕


3 環境経済学の領域と構成
 中間システム論の提唱
−本書の基本的方法論−
 本書『環境経済学』は、経済(主として資本主義経済)の発展にともなう「環境」の変化、それから生まれる公害やアメニティ(良好な居住環境)の破壊という「環境問題」、そして公害を防止しアメニティを保全・創出しようとする「環境政策」の三局面を政治経済学の方法によって体系的に明らかにしようとするものである。環境経済学はたんなる現状分析や理論でなく、それにもとづく政策提言をふくんでいる。したがって、道場剣法のように理論のゲームをつくって練習するにとどまらず、その理論の有効性がたえず試されている真剣勝負の分野であるといえる。環境経済学には既存の理論体系はない。環境問題という現実の素材から出発して理論をつくらねばならない。既存の理論を発展あるいは応用するという第三次産業的な学問でなく、足で歩いて現実のデータを発見し調査して、それを加工した上で理論化するという第一次産業のような泥くさいがオリジナルな仕事をつみかさねなければならぬ分野である。とりわけ公害やアメニティの破壊は文字で書かれたものでは誤った認識を生みやすく、必ず現場をたずね、加害者と被害者とに会い、環境破壊の事実をみなければならない。本書では、たくさんの著作やデータを使用したが、同時に私が世界中の旅をして被害や対策の現実を自分の目でみたこと、さらに裁判や行政の場で被害者側の証人として加害者やその代理人と論争した経験を理論化したものである。環境論は学際的分野である。さきの三局面の素材は工学、医学、生物学、法学、社会学などの諸分野の業績、あるいはそれらの専門家との共同調査によってまず得られた資料から出発している。ここに環境経済学の特性がある。
 私は経済学者としては比較的早く、環境問題にとりくんだ。公害を論ずるのでなく、いかにして防止するかという重い課題におされて、先述の初期の二つの著作以後も種々の著作や論文を書かざるをえなかった。本書はこれらの過去の著作の理論を集大成する企図をもって書下ろしたものである。したがって、体系化の位置づけは目新しくても、すでに発表した一部の理論が多少の補正と表現を少しかえただけで使われている部分がある。たとえば、公害、アメニティの定義やPPP(汚染者負担原則)についての見解などがそれにあたる。しかし、それだけでなく、本書は次のような新しい企図をもって執筆した。
 まず基本的な方法論としては中間システム論とでも名づけたい政治経済構造論を中心にすえた。都留重人が整理したように、環境問題は素材からはいって体制へという方法論をとらねばならぬ。その点では非マルクス経済学者のように体制をぬきにして、現代の技術と企業経営を前提に最適汚染量をもとめ、それを達成する政策を費用便益分析で選択するという素材論あるいは機能論的経済学をとらない。しかし、都留のいう素材から体制へと無媒介にすすんでいくのでは不十分である。実は環境を規定する中間段階があり、環境経済学の独自性はこの中間システム論にあるといっても過言ではない。このことはかつて、末石富太郎や華山謙が指摘したところだが、必ずしも私のいう経済論でなく、かつ具体的な体系化はなかったので私はそれをよりシステム的に考えて、次のような政治経済的概念と環境の関係を明らかにしようとした。箇条書的に書くと次のようになる。
 (1)資本形成(蓄積)の構造(国民総支出の構成、公私両部門を通ずる安全や自然保全のための投資の質と量)
 (2)産業構造(資源消費量や汚染物、騒音などをふくむ。広くは公害因子の質と量に直接関連する業種ごとの構成、リサイクリングの状況)
 (3)地域構造(国土における都市と農村の配置、都市化、大都市圏の広がりと地域のドーナツ化現象の状況=都市内地帯構造、臨海部などの公共用水域の利用計画、過密と過疎の状況)
 (4)交通体系((3)と不可分であり、ここにいう交通は広く人流・物流・情報流のような流通全体をさす。とくに自動車中心の交通体系が決定因)
 (5)生活様式(アメリカ型大量消費生活様式、コミュニティの協同生活のあり方など)
 (6)国家の公共的介入の態様(環境政策という経済へのリパーカッション(反作用)のあり方であるが、とくに次の諸要因が政策の規定要因となる)
  (a)基本的人権の態様(基本的人権が財産権だけでなく、生存権さらに公害防止や環境保全に有効な社会権までもふくめて、どの程度まで法制化され、現実の行政・司法が認定しているか。社会権と財産権の比較優位性)
  (b)思想・言論・表現(出版・放送など)・結社の自由(公害反対の世論や運動の権利がどこまで保障されているか)
  (c)民主主義のあり方(三権分立とくに司法の自立、議会制民主主義、分権と参加の地方自治の制度がどこまでみとめられているか)
  (d)国際化のあり方(国民国家のナショナリズムの度合い、米ソ超大国の軍事力と各国のそれとの依存関係、多国籍企業と国民国家の関係、国家間環境保全協定のあり方など)
 これらの中間領域が環境を決定する政治経済構造((1)から(5)までは経済構造)であるとしておくと、これらは資本主義体制のみでなく、社会主義体制の場合でも、公害やアメニティを規定する政治経済的要因である。たとえば同じ体制でも、産業構造が素材供給型重化学工業を中心とし、大都市化がすすみ、自動車中心の交通体系をくみ、大量消費をしているA国は、サービス化した産業構造、中小都市に分散した地帯構造、鉄道中心の交通体系をくみ、リサイクリング型の消費生活をいとなんでいるB国にくらべて、公害が多発するといってよい。また、基本的人権や言論・表現・結社の自由や民主主義の確立しているC国は、それらが未発達なD国にくらべて、環境問題が自由に告発されて環境政策が前進するといってよいであろう。これらは第一節でものべたが、今後より明らかにするだろう。
 このように素材と体制という二元論でなく、このような政治経済構造の解明が、環境経済学の主要な分野であることが以下においてわかるであろう。ところで、この政治経済構造は技術と同じ次元の素材面としてあつかいうるかというとそうではない。ちょうど商品という概念は、商品経済の下では体制をこえて使用されるのと同じように、経済学には、素材と体制という二元論的な区別だけでは整理できない中間領域の概念がある。そして、それは商品と同じように歴史貫通的であると同時に資本主義体制の規定をうけるのである。資本主義社会が最高度に発達した商品経済といわれるように、先述の環境を規定する政治経済システムも、資本主義社会で全面的に開花するものもあれば、社会主義社会になると独自の性格をもつものもある。また、それらは各国の発展段階や各国の歴史的社会的な性格によっても異なるであろう。ここではさきの政治経済構造を中間システムとよんでおく。
 したがって、環境経済学は一部のマルクス主義経済学のように、資本制蓄積との関係に一元化するだけでは不十分であると同時に、素材と体制という政治経済学的な抽象的二元論の領域にとどまるものではない。本書は素材と体制の間の中間システムを環境を決定する政治経済的因子として解明をし、それを、本書のオリジナルな理論としたいのである。これが本書の第一の企図である。

 環境経済学の領域
 本書を「公害の政治経済学」ではなく、「環境経済学」と名づけたのは、二つの理由がある。ひとつはすでにのべたように、環境と経済発展、環境問題、環境政策の三局面を体系的にあつかうためである。つまり、公害という経済の社会的諸結果(被害)を中心にあつかうのでなく、原因・結果・対策を総合的にあつかいたいということである。もうひとつは、公害だけでなくアメニティ問題をふくめて、広く環境問題をあつかいたいためである。これは、第一節でのべたように、産業構造や地帯構造の変化による企業の新しい立地動向や政府の国土政策の変化に対応すると公害よりもアメニティが重大になるといういみと、余暇増大とともに環境破壊を批判してアメニティをもとめる住民のニーズや運動の意義を明らかにし、さらに今後の公害対策をふくむ広義の環境政策を明らかにしたかったためである。これが環境経済学とした理由である。この場合、政府とはちがって公害とアメニティ問題を連続して総合的にあつかったことが本書の第二の企図である。
 本書が「中間システム論の提唱」、「公害とアメニティ問題の総合」とならんで第三に目的としたのは、「市場の失敗」と「政府の失敗」の双方をのりこえる新しい政治経済学を提唱しようとしたことである。このことはすでに『現代資本主義と国家』でも提唱したが、今回はとくに福祉国家のみならず、社会主義の欠陥をもとりあげて、新しい分権と参加という地方自治の確立を土台とした「内発的発展」の道を提唱したのである。この「内発的発展」は環境か開発かという二元論ではなく、環境保全の枠組みの中で地域の発展を継続させようというものである。これは先進工業国の道だけでなく、今後の発展途上国の新しい経済発展方式を示したつもりである。
 第四は、1980年代の英米日三国を中心に流行しつつある新自由主義=新保守主義は「政府の失敗」を指摘して、市場制度の選択の自由を提唱しながら、実際には巨大企業と国家の癒着をすすめ、規制緩和による環境破壊をすすめていることをきびしく批判しようとした。
 同時に1970年代後半の経験から、産業構造や地帯構造の変化を市場制度を利用してすすめることの有効性についても、本書はふれている。市場か公共的計画かという二者択一論でなく、現代の環境政策は公共的計画の枠組みを厳格にした上で、その枠組みの中で企業や個人の間の競争による公害対策の導入−市場の利用をはかる道があることを本書は示している。これもこれまでのり理論にない新しい寄与であろう。これが第五の本書の企図である。
 さて、結論的にいえば、本書の対象とする問題は経済学にとってもコペルニクス的転換を要求されるものである。ここではマルクス経済学をもふくめてこれまでの経済学の古いカテゴリーにこだわらないことにする。方法論としてはまず環境・環境問題・環境政策という素材の性格を示し、次に体制的規定をし、ついで中間システムとの関連をみて、さいごにその各国の特殊性(とくに日本の場合)を明らかにするという順序ですすめたい。』