西岡 純(2006):北太平洋における鉄の存在状態と鉄が生物生産におけぼす影響に関する研究.海の研究、15(1)、19-36.
『要旨
サイズ分画測定法を用いて外洋海域における鉄の存在状態を研究した。その結果、従来“溶存態”と定義されてきた分画中にはコロイド状鉄が含まれており、海水中の植物プランクトンによる鉄の利用過程や地球化学的鉄の循環を理解するために重要な画分であることを示した。また、国際共同プロジェクトとして、北太平洋亜寒帯域の西部および東部で現場鉄散布実験を行ない、大気から供給される鉄が他海域より多いと考えられる西部海域においても、鉄の不足が生物生産を制限する要因であることを明らかにした。さらに、西部海域が鉄制限海域になるプロセスとして、供給された鉄が、速やかに植物プランクトンが利用しづらい形態に変化してしまうことが重要であることを示した。海洋における鉄の生物地球化学的な研究は、自然海域における生物生産の諸過程を理解するためには欠かせない分野と成りつつある。本稿では、著者がこれまでに展開してきた、海水中の鉄の存在状態と鉄が生物生産に果たす役割に関する研究の一部を紹介した。
キーワード:鉄;存在状態;植物プランクトン;鉄散布実験;北太平洋亜寒帯域』
1.はじめに
2.微量金属研究のためのクリーン技術
3.鉄の地球化学的循環に関する研究
3.1. 海水中における鉄の存在状態
3.2. 鉄のサイズ分画測定法の確立
3.3. 北太平洋亜寒帯外洋域における鉄の存在状態
3.4. 植物プランクトンによるコロイド状鉄の利用
3.5. 海洋プランクトン生態系内での鉄の存在状態の変化と除去過程
4.海洋の生物生産に関わる鉄の役割に関する研究
4.1. 「鉄散布による大気中CO2の海洋への固定」と科学的評価の重要性
4.2. マニピュレーション実験
4.3. 北太平洋亜寒帯域における鉄散布実験
4.4. 西部北太平洋亜寒帯域が鉄制限になるプロセス
5.今後の課題
謝辞
References
Abstract
表2 本研究における鉄の操作上の定義
サイズ分画 |
定義 |
@ |
未ろ過 |
全可溶性鉄(Total labile-Fe;T-Fe) |
A |
<0.22μm |
溶存鉄(Dissolved Fe;D-Fe) |
B |
<200 kDa |
真の溶存鉄(Soluble Fe;S-Fe) |
C |
>0.22μm:@−A |
粒子状鉄(Labile particulate Fe;LP-Fe) |
D |
200 kDa〜0.22μm:A−B |
コロイド状鉄(Colloidal Fe;C-Fe) |
0.22μm以上 |
0.22μm |
0.22μm〜200 kDa |
200 kDa* |
200 kDa以下 |
全可溶性鉄
(Total labile-Fe;T-Fe) |
|
|
溶存鉄
(Dissolved Fe;D-Fe) |
粒子状鉄
(Labile particulate Fe;LP-Fe) |
|
コロイド状鉄
(Colloidal Fe;C-Fe) |
|
真の溶存鉄
(Soluble Fe;S-Fe) |
*限外ろ過(UF:Ultrafiltration)膜の分画分子量(MWCO:Molecular
Weight Cut Off)は、「その膜で90%以上阻止できる低濃度の球状溶質の概略の分子量(kDa:キロダルトン表示)」と定義されている。
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- 海水中の鉄の無機的な溶解度は極めて低い(Byrne and Kester, 1976; Kuma et
al., 1992)。
- 海水中の鉄は、無機イオン、無機錯体、有機錯体、無機コロイド、有機コロイド、生物粒子、非生物粒子などの形態で存在する(Bruland
and Rue, 2001)。
- 電気化学的分析法(ACSV)を用いた金属錯化容量測定により、潜在的に鉄と錯形成する有機リガンドの存在が報告される(Rue
and Bruland, 1995; Wu and Luther, 1995; van den Verg, 1995)。
- 分画分子量 1 kDa〜 10 kDa のCross Flow Filter(限外ろ過膜)や孔径0.025μmを用いたコロイド粒子の分画法により、沿岸域では従来の「溶存鉄」(孔径0.2あるいは0.4μmのフィルターを通過したもの)に含まれる80%〜90%がコロイド状鉄であることが報告される(Wen
et al., 1996; Powell et al., 1996; Kuma et al., 1998)。
- 200 kDaポリエチレン中空糸フィルターを用いて、サイズ分画測定法を確立した(Nishioka et al.,
2001a)。
- クラス100以下のクリーンルーム内で分析した。
- ろ過試料は、ギ酸−アンモニウム緩衝液を添加してpH3.2に調整し、8HQカラム濃縮−化学発光分析法でFe(III)を分析した(Obata
et al., 1993; 1997)。
- 北太平洋亜寒帯外洋域では、すべての季節で同様の傾向を示し、溶存鉄(D-Fe)に占めるコロイド状鉄(C-Fe)の割合は、中深層で13%〜50%であった(Nishioka
et al., 2001a)。
コロイド状鉄(C-Fe)の増加が認められる100m〜200m層にかけて、栄養塩の増加傾向と良い相関があることから、表層から下層へ輸送される有機物が生物的に分解される際にコロイド状鉄(C-Fe)が再生していることが示された。
- 大陸棚付近では、コロイド状鉄(C-Fe)および粒子状鉄(LP-Fe)が80%以上を占め、栄養塩との明瞭な関係も見られない(Nishioka
et al., 2001a)。
- HNLC海域(High Nutrient Low Chlorophyll:南極海、西部北太平洋亜寒帯域)では、表層のコロイド状鉄は極めて低い値であり(Nishioka
et al., 2003; 2005)、中深層で増加する傾向が見られた。
- 太平洋亜熱帯域や大西洋亜熱帯域では、表層でコロイド状鉄が主要な画分を占める(Wu et al., 2001)。また、コロイド状有機リガンドが存在する。
- Moss Landing海洋研究所の故J.H.Martin博士が、HNLC海域では鉄が植物プランクトン増殖の制限因子となっているという「鉄仮説」を提唱する(Martin,
1990)。
- 「鉄仮説」⇒鉄散布→植物プランクトン増殖→大気中二酸化炭素吸収→地球温暖化対策案に発展。
- 実海域での船上ボトル培養実験(Martin and Fitzwater, 1988; Martin
et al., 1989; de Baar et al., 1990; Coale, 1991; Takeda and Obata,
1995; Boyd et al., 1996)。
- マニュピュレーション実験〔実海域表層に水塊トレーサー(不活性ガスであるSF6)とともに鉄を数十平方キロメートルスケールで散布する手法〕(Watson
et al., 1991)。
1993年:太平洋赤道域(IronEx I, Martin et al., 1994; Coale et al., 1998
)
1995年:東部太平洋赤道域(IronEx II, Coale et al., 1996)
1999年:南極海(SOIREE, Boyd et al., 2000)
〜2004年:南極海、北太平洋亜寒帯域(de Baar et al., in press)
- 西部北太平洋亜寒帯域に、人為的に溶存無機態の鉄(硫酸鉄;FeSO4・7H2O)を散布すると、海洋表層混合層内の溶存鉄(D-Fe)濃度を、0.1
nM以下の植物プランクトン増殖を制限する濃度レベルから平均で約3 nMレベルまで高めることができた。
- 表層混合層内(約10m)に存在する溶存鉄(D-Fe)の大部分(75%以上)がコロイド状鉄(C-Fe)として存在していた。
- ブルームを起こした植物プランクトンが、真の溶存鉄(S-Fe)以外の画分、つまり粒子状鉄(LP-Fe)かコロイド状鉄(C-Fe)の一部も利用していたことが示された。
- 溶存鉄(D-Fe)の減少分のうち10%〜48%は植物プランクトンの摂取で減少したと見積られた。
- 鉄散布後に海洋表層に存在していたコロイド状鉄(C-Fe)は、水酸化物として粒子化・凝集して水柱から沈降除去されるだけではなく、プランクトンなどの懸濁粒子に吸着あるいは摂取されて粒子化し、表面混合層に留まっていたことが示された。
- 栄養塩の摂取比(珪酸塩:硝酸塩比)は1.5:1から3:1に上昇した。
- 鉄パッチ内に留まった粒子状鉄(LP-Fe)は、植物プランクトンにとって利用能が低い形態であることがわかった。
- 極めて利用能の高いと考えられる溶存態の無機鉄を高い濃度で人為的に散布した場合でも、鉄の存在状態が変化することが理由で、植物プランクトンの増殖とともに鉄の利用能が低くなり、植物プランクトンは約9日で再び鉄制限になることが確認された(Nishioka
et al., 2003; Tsumune et al., 2005)。
- 西部と東部の北太平洋亜寒帯域表層では、夏季の海洋表面における溶存鉄(D-Fe)濃度は両海域とも極めて低濃度(〜0.1
nM)であるが、西部にのみ粒子状鉄(LP-Fe)が残存している(0.2 nM〜0.4 nM)。
- 両海域の鉄供給量の差が、植物プランクトンの生理状態から種組成に至るまでに影響を与え、東西海域の生態系の違いを生み出している要因である。
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