岩淵(1996)による〔『現代世界の資源問題入門』(10-15p)から〕


1 資源とは何か
資源は「単なる自然物」ではない

 皆さんは、資源というと、何を連想するだろうか。おそらく、石油や石炭などのエネルギー資源や鉄鉱石や銅鉱石などの金属資源が、すぐに浮かんでくることと思う。それでは、石油を原料とする化学繊維や鉄鉱石を原料とする鋼鉄も、資源といってよいだろうか。もちろん、否である。それらは、生産物であり、資源とは呼ばれない。それでは、生産物と資源は、どこがどう違うのか。明治大学名誉教授の石井素介さんは、『経済学辞典・第二版』(岩波書店、1979年)の中で、「食糧・原材料・エネルギーなど、生活や生産の中で消費されるさまざまな物質は、多かれ少なかれ人間労働によって生産されるものであるが、それらが生産されるまでに加えられた人間労働をひとつひとつ取り除いて、その素材の源泉をたどってゆくと、ついには労働の生産物ではない、つまり自然そのものにかえりつく。資源(あるいは自然資源)とはこのように、自然によって与えられる有用物で、なんらかの人間労働が加わることによって、生産力の一要素となりうるものをいう」(543頁)と定義されている。要するに、資源というのは、人間労働が加わる前の自然物である、とのことである。それに人間労働が加わると、それはすでに資源ではなくなり、生産物になるというのである。私もこの立場をとる。
 資源は生産物ではなく自然物である。ただし、「単なる自然物」ではなく、人間・社会にとって「有用な自然物」なのである。地下に埋もれていた石炭や石油は、人間労働が生産した創造物ではなく、長い自然史の中で育まれてきた自然物であった。しかし、産業革命以降、蒸気機関車や自動車を動かすエネルギー資源等として利用できるようになると、にわかに「有用な自然物」、すなわち資源としての輝きをもつようになり、「単なる自然物」ではなくなった。海水中に大量に含まれている重水素は、現在、エネルギー資源としての有用性をまったくもっていない。しかし、将来、核融合炉が実用段階に入るようになれば、エネルギー資源に転化するはずである。人間・社会は、「単なる自然物」としての石炭、石油や重水素は創造できないが、それらを「有用な自然物」、すなわち資源に変えることはできる。要するに、人間社会は、「単なる自然物」は創造できないが、「有用な自然物」、すなわち資源を創造することはできるのである。私は、「単なる自然物」を「有用な自然物」、すなわち資源に変える人間・社会の営みを、資源化と呼ぶことにしている。そして、その資源化の歴史は、現在、未曾有の段階にさしかかっていると考えている。

人類は資源を創造してきた
 人類は、いまから約400万年前、アフリカ大陸で誕生した。しかし、いまから約1万年前までは狩猟・採取の段階にあったため、「有用な自然物」、すなわち資源は、野生の動植物とそれを捕獲・採取するための岩石、調理・暖房用の薪炭などに限られていた。食料資源になった野生の動植物は、農産物とは異なり、けっして高密度には分布していなかった。このため、1人の人間の生存に必要な面積は、研究者によってかなりのばらつきがあるが、10平方キロメートルとも推定されている(『クリーンな地球のグリーンな資源−新時代の食糧生産システム』農林統計協会、1988年)。だから、地球の「人口支持力」はきわめて限られ、2万5000年前の人口は約300万人、1万年前の人口も500万人から1000万人と推定されている。しかも、人類は、常に生存の危機に脅かされていた。縄文人の人骨には何本かの「飢餓線」が確認されている。飢餓年には骨の成長が止まり、年輪のような「飢餓線」ができたのである。
 いまから約1万年前、新石器時代に入り農耕が始まると、農地が最重要の資源となったが、農地として利用できた土地は一部に限られ、単位面積当たりの収穫量もきわめて少なかった。また、いまから約5000年前までは、原材料資源も岩石と森林に限られていた。人類は、前3000年頃から青銅器時代、前2000年頃から鉄器時代に入ったが、産業革命以前は資源化された金属の種類は限られ、生産量もわずかなものであった。ローマ時代に利用されていた金属は、鉄の他に金、銀、水銀、錫、銅、鉛などに限られ、それぞれは太陽、月、水星、木星、金星、土星にたとえられていた。日本の場合、明治初期に固有の元素名をもっていた金属は、金、銀、鉄、銅、鉛の「五金」のほか、錫、水銀、亜鉛、白金にとどまり、現在、それら以外の金属はカタカナで表記されている。
 産業革命は事態を一変させた。石炭は「黒いダイヤ」、石油は「血の一滴」にたとえられるようになり、19世紀末には水力も電力資源に転化した。第二次世界大戦後はウランもエネルギー資源に転化し、現在、重水素のエネルギー資源への転化が模索されている。さらに、太陽エネルギーや地熱エネルギーの資源化も進捗中である。また、鉄器時代もいよいよ本格化し、鋼鉄の生産量は飛躍的に増大した。各種の軽金属や重金属が資源化され、第二次世界大戦後は希少金属の価値も高まっている。近年、深海底に眠っていたマンガン団塊などの資源化も日程にのぼり始め、ケイ酸塩を含んだ岩石がファインセラミックスの原料として評価されつつある。そのような工業文明の発展を一つの背景に、農地の拡大も進み、土地の自然的な生産力も急速に高まっている。また、淡水化装置の実用化により、海水の水資源化も進みつつある。それだけでなく、生活水準の向上にともない、さまざまなレジャーが大衆化しつつあり、たとえば、人々を悩ませてきた豪雪も、スキー場にとっては貴重な観光資源になっている。
 現代は未曾有の「資源化の時代」であり、科学技術や社会全体の発展にともない、新しい質の資源が次々と創造され、その資源量も飛躍的に増大しつつある。現代は、「資源枯渇の時代」どころではなく、人類史始まって以来の「資源創造の時代」なのである。

地球のさまざまな資源
 資源は、「有用な自然物」であり、自然物の特色によって分類することができ、まずは生命系と非生命系に二分することができる。生命系資源には水産資源や森林資源などがあり、それらは、「自然の再生産」の枠を超えての開発は不可能だが、開発が「自然の再生産」の枠内でおこなわれるかぎり資源がなくなる心配はない。非生命系資源には鉱物資源、水資源などがあり、それらは、生命活動に制約されないため開発を巨大化することができる。しかし、循環利用を怠ると枯渇する恐れがあり、地球環境を破壊する恐れもある。
 資源は、資源としての有用性によって、エネルギー資源、原材料資源、食料資源などに分類することができる。エネルギー資源には、化石エネルギー資源、核エネルギー資源、自然エネルギー資源があり、前二者は再生不能であるため枯渇の恐れがあるが、後者は再生可能であり枯渇する心配はない。原材料資源には、鉱物資源、木材資源などがあり、いずれも循環利用が課題になっている。食料資源には水産資源と農業資源があるが、両者の違いは大きい。水産資源は、水産業が基本的には狩猟・採取の段階にあるため、大部分が野生の水棲生物である。それに対して、農業はまぎれもない生産活動であり、農産物は労働の生産物である。だから、農産物を農業資源ということはできない。しかし、農業にはそれを可能にする自然環境が絶対的に必要であり、農業はある自然を基盤に成立する産業である。そのような自然は、「自然によって与えられた有用物」であり、「自然に存在する労働手段」でもある。そのような「農業の自然的基盤」を、私は農業資源と呼ぶことにしている。水産資源は、その開発が「自然の再生産」の枠内でおこなわれるかぎり、再生可能な資源として利用できる。しかし、「自然の再生産」の枠を超えた乱獲がおこなわれると、資源は急速になくなっていく。一方、農業資源は、その「自然に存在する生産手段」としての価値を人為的に高めることが可能であることから、社会の進歩や発展にともなって、ますます大きくなっていく。
 資源は「有用な自然物」だが、これまではその「有用性」は、「生産活動にとっての有用性」に限られてきた。しかし、生活水準が高まり、より人間らしい生活が求められるようになるにつれ、「有用性」の価値基準も大きく広がりつつある。たとえば、森林は、林産資源としてだけでなく、観光資源や保養資源として評価されるようになり、さらにはその治水機能や酸素発生機能までもが評価されるようになってきている。この本では、そのような資源まで立ち入ることはできないが、私は、21世紀に向かって「有用性」の価値基準はますます広がり、より人間らしい生活を可能にする資源が、次々と登場するようになるものと考えている。

2 資源で何が問題か
通産省・資源エネルギー庁の意見広告

 通産省・資源エネルギー庁は、1988年6月4日、朝日新聞等に意見広告を掲載し、国民に原子力発電推進政策への理解を求めた。政策担当者の側が世論を意識して、「エネルギー資源で何が問題か」を端的に語ってくれているので、ここに全文を掲載しておくことにする。

 「原子力発電は不要」なのでしょうか
 石油ショックの際、私たちは大変な経験をしました。それに比べて、今後のエネルギー供給については心配がないと思っている方も多いと思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 世界を見渡すと、例えば、今から37年後の2025年(今年生まれた赤ちゃんが働き盛りとなっている頃です)には、世界の人口は現在の約1.7倍の82億人になると言われており、世界全体のエネルギー需要は現在の2倍以上にもなってしまうのです。
 こうした需要の増加に対し、石油などの化石燃料を今のペースで消費していけば、石油、天然ガスは21世紀初めに、そして石炭も21世紀のうちに枯渇してしまうことになります。とはいえ、発展途上国の化石燃料への依存度はますます高まります。従って、今日でも現在のサウジアラビアの生産量を遥かにしのぐ700万バーレル(1日当り)の石油消費節約の効果を果たしている原子力の役割が今後ますます大きくなるのです。
 とりわけ、わが国は石油の99%以上を海外に依存していることに加え、紛争の多発する中東への依存度が高くなっています。原子力発電によって、現在わが国は石油の消費量の約2割に当たる量(1日当り・約70万バーレル)を節約しており、原子力発電を停止すれば、ただでさえ不安定なわが国のエネルギー供給構造が、ますます不安定になります。
 これに対して、原子力発電は、燃料を一度原子炉に入れると少なくとも、3年間は使用でき、その間は燃料備蓄と同様の効果があること、更に核燃料サイクルが確立すれば、原子力は言わば準国産エネルギーとなることなど、供給安定性に優れた電源です。
 また、原子力発電は燃焼を伴わないことから、21世紀に向けて重大視され始めた酸性雨や炭酸ガスによる地球温度の上昇といった問題への対応にも役立ちます。
 このように、原子力発電を推進していくことが、日本のためにも、世界のためにも必要なのです。
 「原子力発電は危険」なのでしょうか
 原子力発電の推進においては、安全性の確保が最優先であることは当然です。そのため、原子炉の設計には、安全上万全を期すということから、「多重防護」という考えが採用されています。「多重防護」とは、「故障・トラブル」が起こらないようにすることはもちろん、仮に起きても安全に収束するようにし、更に、万一の場合にも外に影響を与えないようにするといった考え方に基づいて、設計上、念には念を入れた対策を講じていることです。
 例えば、運転員が万一安全上問題のある操作を行おうとしても、動かないような仕組み(インターロックと言います)や、安全を守る装置がどこか故障しても、他の安全装置や設備全体に影響が及ばないようなシステム(フェイル・セーフと言います)が取り入れられています。トラブルがあっても、事故に到る前にシャット・アウトしてしまうようになっているのです。
 また、運転員に対しても、実規模のシミュレーターを用いる訓練など、厳しい訓練が行われています。
 ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故については、低い出力においては炉が不安定になるなど、わが国の原子炉と異なり、安全性確保の観点から見て設計上大きな問題があったことに加え、運転員が、原子炉を緊急に停止する装置を故意に切って実験を強行するなど、数々の重大な規則違反を犯したために起こったもので、原子力安全委員会の報告にもある通り、わが国では起こり得ない事故でした。
 しかし、わが国としてもソ連の事故を言わば他山の石として、引き続き、原子力発電所の安全性の一層の向上に努めてまいります。

 要するに、「エネルギー需要は今後ますます増加するが、化石燃料は間もなく枯渇するため頼りにはできず、中東にその大部分を依存する石油は供給安全性に欠ける。それに対して、原発は、燃料備蓄の効果があり、核燃料サイクルが確立すれば準国産のエネルギーになるため、供給安定性に優れている。その上、燃焼を伴わないので、酸性雨・地球温暖化対策にもなる。安全性については、多重防護を徹底しているのでまったく心配はない。チェルノブイリ発電所のような事故はわが国では起こり得ない。だから、原発の推進は世界と日本のために必要不可欠である」、というのである。
 しかし、果たして、「化石燃料は間もなくなくなる」のか。「石油の供給安定性は望み薄」か。また、「原発は準国産のエネルギー」になりうるか。「原発は安全」か。要するに、「原発は不要」ではないのか。以下、それらの論点を、対象をエネルギー資源だけでなく他の資源にもひろげて、もう少し深めながら、第2章以降へのつなぎとしたい。

地球の化石エネルギー資源は枯渇寸前か
 この意見広告は、「化石燃料の枯渇は迫っている」といい、そのことを原発推進の有力な論拠の一つにしている。このような「資源枯渇」論は、1970年代以降、繰り返し警告され続けてきたが、その「聖典」になっているのが『成長の限界』(D・H・メドウズ他著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年)である。
 『成長の限界』は、「最近の鉱床発見にはめざましいものがあるが、ほとんどの鉱物についてその発見の可能性がある場所は、ほんの限られた所しか残されていない。大規模かつすぐれた新鉱脈を見つける可能性について地質学者の意見は一致していない。そのような発見にたよることは長期的に見て賢明ではないように思われる」(46頁)と述べたうえで、「地殻には、人間がそれを掘り出し、他の有用な物に転換することのできる巨大な量の原材料が含まれている。しかし、いくら巨大な量が眠っているといっても、それは無限ではない」(51頁)と続け、第1表(略)のような統計を掲げている。この表は、資源の消費量が幾何級数的に増加する場合、埋蔵量が現存埋蔵量の5倍に増加したとしても、耐用年数が100年を超える資源は、石炭など4品目に過ぎないという。そのことを1つの論拠に、『成長の限界』は、いまのままの人口と工業の成長が続けば第1図(略)のような悲劇的結末に陥ると警告し、人口と工業の成長を抑制した第2図(略)のような「安定化された世界モデル」を選択すべきだと提言した。このため、いまなお、「持続可能な成長を先見的に提言した」との評価を多くの専門家から受けている。しかし、第2図をよく見てほしい。資源のグラフは不可逆的に右下がりになっており、この図は、間違いなく資源が枯渇することを予言しているのである。『成長の限界』の致命的な欠陥の一つは、科学的資源論に立脚できなかったため、「資源有限」論の域を抜けでることができず、説得力をもって「持続可能な発展」を提示できなかった点にある。
 「持続可能な発展」論は、国連の「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント委員会)がまとめた『地球の未来を守るために』(大来佐武郎監修、福武書店、1987年)において、初めて明確に提起された社会理論である。そこでは、「人類は、開発を持続可能なものとする能力を有する」(28頁)ことが高らかにうたわれ、「それ自体が悪である貧困」の撲滅が提起されている。以後、「持続可能な発展」論は、「有限な地球における人口爆発」に諸悪の根源を求める現代のマルサス主義=「地球破局」論にとって替わり、「Sustainable Development」は一つの流行語にさえなった。しかし、『地球の未来を守るために』も、『成長の限界』同様、資源については「資源有限」論の域を超えられなかった。同書は、資源について、「知識の集積と技術開発によって、資源基盤の収容力は増加する」(68〜69頁)とも述べているが、「それでも結局は限界があるから、持続的開発が限界に達するはるか以前に、技術開発の方向を変えて資源の涸渇を防ぐ必要がある」(69頁)という結論に至ってしまい、『成長の限界』同様、「細く長く生き延びること」しか提起できていない。にもかかわらず、そのような限界に対する科学的批判は、いまに至るまできちんとなされてはおらず、『地球の未来を守るために』は、「持続可能な発展」論の聖典に祭り上げられたままである。
 「地球破局」論は、「単なる自然物」と「有用な自然物」、すなわち資源との区別がつかないため、「単なる自然」が不変であるように、「有用な自然」、すなわち資源も不変であると思い込んでいる。だから、「不変な資源」は消費する限り枯渇に向かうことになり、「禁欲的な省資源」しか提起できない。『成長の限界』だけでなく、『地球の未来を守るために』も、そのような限界を克服できていない。
 それでは、「地球破局」論的な先入観を捨てて、地球の資源を事実に即して見つめ直してみると、どうなるか。その一つの答を第2章、第3章で探していただきたい。

自然エネルギー資源は不経済か
 先の通産省・資源エネルギー庁の意見広告が掲載された翌々日、今度は、電気事業連合会が「私たちはこのように考えて原子力発電を進めています」と題した意見広告を朝日新聞等に掲載した。それによると、原子力発電は、「全体として他のエネルギー源より経済性がある」とのことであり、その一方、「太陽光発電や地熱発電等の新エネルギーは、技術開発を積極的に続けていますが、量的、コスト的に、近い将来では主要なエネルギー源としては期待できません」という。確かに、現代世界においては、経済性を無視して資源問題を論ずることはできない。
 誰もが認める通り、自然エネルギーは、再生可能なエネルギー、クリーンなエネルギーであり、魅力的なエネルギー資源になりうる可能性を秘めている。しかし、理化学研究所研究員の槌田敦さんは、『エネルギーと環境』(学陽書房、1993年)において、「自然エネルギー≠ニいう幻想」という項目を立て、「太陽光発電はエネルギー変換効率が低いため、国土の狭い日本では代替エネルギーにはなりえず、投入したエネルギーより取り出せるエネルギーが少なくなる不経済な発電方式である」(要約)としている。確かに、その資源がいくら魅力的なものであっても、コスト的に割高であり、投入したエネルギーより取り出せるエネルギーのほうが少ないようでは、まったく問題にならない。果たして、「自然エネルギーは幻想」か。ここに一つの現実がある。通産省は、太陽光発電の普及に弾みをつけるため、1995年度には1200件の補助枠を設けた。ところが、約5400件もの応募があり、抽選をおこなうことになった。通産省と応募した人々は、「自然エネルギーという幻想」にとりつかれていたのか。第2章以下では、経済性の側面からも、資源問題を追求していくことにしよう。

石油は不安定なエネルギーか
 先の通産省・資源エネルギー庁の意見広告は、「紛争の多発する中東への依存度が高い石油は、供給安定性を望むことはできない」と断定し、「だから原子力発電へ」と世論の誘導をはかろうとした。確かに、資源は産業活動や日常生活の前提になるものであり、その供給安定性は絶対に欠かせない。
 1973年の第一次石油危機は、日常生活に欠かすことができない石油については、供給安定性と価格の安定性が何よりも大事であることを、いやというほど教えてくれた。石油危機が頂点に達した11月15日、政府は閣議で緊急対策要綱を決定し、マイカーの自粛、ガソリンスタンドの休日営業自粛などを国民に求め、盛り場は火が消えたようになった。12月に入ると、埼玉県鳩ヶ谷市では個人開業直前のタクシー運転手さんが燃料不足を苦にして自殺し、東京都品川区では油不足で営業不振に追い打ちをかけられたフロ屋さんが自殺した。第一次石油危機は、確かに「紛争の多発する中東」を舞台にした第四次中東戦争をきっかけに起こったものであった。しかも、1979年から1980年にかけて、今度は、イラン革命をきっかけに第二次石油危機が起こり、国際原油価格は狂乱状態になった。しかし、1990年の湾岸危機・戦争の際には、大方の予想を裏切って、幸いなことに第三次石油危機は起こらなかった。何がどう変わったのか。第4章では、なぜ、「石油の供給・価格の不安定性」が生じたかを探り、どうしたら「供給・価格の安定性」を確立できるかを考えてみることにする。
 では、通産省・資源エネルギー庁が主張するように、「原子力発電の供給安定性は抜群」といえるだろうか。同庁は、「核燃料サイクルが確立すれば、準国産エネルギーになるので、原子力発電は供給安定性に優れている」と主張したが、1995年12月に起こった高速増殖原型炉「もんじゅ」の「ナトリウム漏れ」事故は、「核燃料サイクルの確立」が机上の空論になりかねないことを教えてくれた。核燃料サイクルといえば、日本の原子力発電は、ウランの濃縮をアメリカ合衆国、使用済み核燃料の再処理をフランス、イギリスに依存している。だから、日本の濃縮ウランや使用済み核燃料は地球規模で移動していることになり、日本の核燃料サイクルは「地球規模の友好関係」によって支えられていることになる。その「友好関係」は崩れる心配はないのか。第5章では、「原子力発電の供給安定性」を、もう一歩突っ込んで探ってみることにする。
 なお、この「供給と価格の安定性」については、第2章、第3章でも、おりにふれて問題にしたいと考えている。

「原子力発電は危険ではない」といえるか
 先の通産省・資源エネルギー庁の意見広告は、「日本の原子力発電は危険ではない」と断言し、「原子力発電は不要どころか必要不可欠だ」と主張した。しかし、国民の大多数が「原子力発電は危険ではない」と考えているかというと、決してそうではない。総理府が1990年9月におこなった世論調査によると、原子力発電について、「不安に思うことはない」と答えた国民は5.9%に過ぎず、90.2%は何らかの不安や心配を抱いていた。朝日新聞社は、「原発推進に関する賛否」の世論調査を1978年からおこなってきたが、1986年に初めて「反対」が「賛成」を上回った。1986年といえば、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で「核暴走事故」が起こった年であり、その衝撃は世界の原子力行政を揺るがした。にもかかわらず、通産省・資源エネルギー庁は、1988年には先の意見広告を掲載し、1990年には「20年で原発40基新設」(朝日新聞。6月1日)という長期エネルギー需給見通し案を決定した。世論と政策がこのように乖離していてよいのか。
 資源は、「単なる自然物」ではなく、「有用な自然物」である。しかし、ある自然物を「経済的に有用な自然物」に転化しうるとしても、それが人間の生命と健康にとって有害であれば、それは「人間にとって有用な自然物」にはなりえず、そのような資源化は断じて進めるべきではないのである。これまでの資源論は、「経済的有用性」を唯一の価値基準として資源を論じ、「人間にとっての有用性」という真に人間的な価値基準を欠いていた。しかし、チェルノブイリ原子力発電所事故は、そのような生産第一主義的な資源論に厳しい反省を迫ることになった。そこで、第5章では、「原子力発電の安全性」をめぐって、何がどのように問題にされているかを改めて整理し、資源化と資源開発をめぐる「安全性の問題」を深めてみたいと考えている。
 しかし、「安全性の問題」は、何も原子力発電に限られた問題ではない。先の意見広告がいう通り、これまでのような化石燃料の大量消費は、現実に酸性雨や地球温暖化といった地球環境問題を引き起こしている。日本では、石油の燃焼にともなう亜硫酸ガスの排出によって四日市喘息、有機水銀とカドミウムの排出によって水俣病やイタイイタイ病が発生し、多くの人々の生命と健康が損なわれた。水力発電は確かにクリーンな発電方式である。しかし、ダムの建設は、上流側に堆砂現象、下流側に河床の掘削現象をもたらし、水害の危険性を高めることがある。そこで、「安全性の問題」は、第2章、第3章でも、おりにふれて問題にしていくつもりである。

地球の資源は誰のものか
 石油資源がその典型であるように、資源の分布は、地域的に不均等であることが多い。しかも、第二次世界大戦までは、その資源の多くが少数の帝国主義国の少数の大企業によって独占され、最大限利潤をめざして乱開発されてきた。しかし、第二次世界大戦後、民族解放のうねりの高まりを背景に、資源ナショナリズムがめざましく台頭し、1970年の第25回国連総会では「天然資源の恒久主権に関する決議」が採択され、その主権が陸上の資源だけでなく、海洋の資源にまで及ぶことが確認された。それを受けて、1982年に採択された国連海洋法条約には、深海底資源が「人類の共同の遺産」であることが明記された。
 しかし、国連海洋法条約の批准国は主として発展途上国に限られ、条約をボイコットしたアメリカ合衆国は、独自の開発体制を整えつつある。一方、資源ナショナリズムを主導した産油国は、第一次石油危機、第二次石油危機によって石油収入を激増させ、一部の国は世界銀行によって「高所得国」に分類されるまでになった。しかし、国内での富の分配は著しく不均衡であり、ペルシア湾岸諸国などでは少数の王侯・貴族に富が圧倒的に集中している。また、資源ナショナリズムの高揚というが、国際価格の大幅引き上げに成功したのは産油国だけであり、石油以外の一次産品の国際価格はむしろ値下がりし、それらの一次産品の輸出に依存する発展途上国の経済は悪化した。しかも、資源ナショナリズムの高揚を背景に、ブラジルやインドネシア、マレーシアなどでは、熱帯林の開発が急ピッチで進められるようになり、そのことにより「森林破壊」が深刻化している。ブラジル等は、先進国の批判に対して、「開発の権利」を主張している。しかし、アマゾンやカリマンタンの先住民の「生存の権利」はどうなっているのか。
 「資源は誰のものか」という問題は、国家間の利害対立の問題にとどまらず、国内の利害問題にまで深まりつつあり、さらには、地球環境問題がらみで「全人類的課題」にもなってきている。地球の資源を真に「人類共同の遺産」にするにはどうしたらいいか。民主主義や民族主義が発展し、地球規模で人権意識が高まるにつれ、「地球の資源は誰のものか」という問題は、ますます避けて通れない資源問題の一つになっている。このような問題に、先の通産省・資源エネルギー庁や電気事業連合会の意見広告はまったくふれていないが、このことを視野に入れないで、21世紀の資源問題の解決の展望を語ることはできないのではないだろうか。』



戻る