『★16世紀の鉱床学
有用元素または有用鉱物の濃集体(鉱床)がどうして出来るのか、という問題はすでに16世紀に人々の関心を集めていたようである。そのことに興味をもった代表的人物はドイツ人、G・アグリコラ(1494-1555)である。彼はドイツとチェコスロバキアとの国境にあるエルツ山脈の麓で生れ、生涯をそこで過ごした。ここには鉱山があったので、彼は鉱山の知識を身につけ、多くの有用鉱物を集めてそれを記載し、1546年に「デ・レ・メタリカ」という厚い本を書いた。この中で、アグリコラは天水が地下に流れ込み、温められて、地層の中の金属を溶かし、有用金属を含んだ液が出来、それが移動して地中のわれ目に侵入し、そこで冷え、金属が沈殿したという考えを述べた。また彼は冶金術、採鉱術のほか、鉱脈や鉱石についても詳しく書いた。種々の鉱物の結晶形、劈開、硬さ、比重、色等も記載した。アグリコラは理論面のことよりも、観察にもとずく正確な記述を大切にした。これがこの本を貫く特徴である。この手法はあとあとまで、ドイツ地質学の伝統として受け継がれ、ドイツには鉱床の成因を論じるまえに、正しい観察が優先すべきであるとする学風が培われた。
★17世紀の鉱床学
17世紀の半ばには、フランスの哲学者、R・P・デカルト(1596-1650)が地殻の下位には高温状態で重い物質がとじ込められており、その一部が上昇し、地殻のわれ目を満たして鉱床になったと考えた。この考えは、20世紀に入っても、アメリカのJ・E・スパー(1922)と、J・W・グレゴリー(1928)が同じような鉱床成因説を主張した。しかし熱水過程を無視した鉱床成因説はナンセンスだとして、葬り去られた、
★18世紀の鉱床学
18世紀の終りは地質学史上、特質すべき時代である。言いかえれば、「水成論と火成論との論争」の時代である。水成論の旗手はA・G・ウェルナー(1749-1817)で、この人はドイツの中央部サクソンに生れ、フライベルグ大学の教授を42年間も勤めたフライベルグ学派を代表する地質学者である。
ウェルナーの思想はすべての地質系統は原始海洋にはじまる水の力によって出来たというものだった。すなわち地球の創成期の海水は岩石の組成をすべて持っていたとし、化学的沈殿作用が多種類の岩石をつくり、海底の凹凸にしたがって、岩石の産状は複雑になったとした。彼は花崗岩も玄武岩もすべて水成岩だと考えた。ウェルナーは鉱床の成因も水成論で説明したが、この考えは多分ドイツの層状硫化物鉱床の産状、すなわち堆積岩の一部に層をなして産出する鉱床の観察から生れたものと考えられる。
一方、火成論の主唱者はスコットランドが生んだ天才地質学者J・ハットン(1726-1797)である。
ハットンは1785年から1788年の間に「地球の理論」第一巻と第二巻とを自費出版し、このなかで、陸地の構成物は分解するが、後に再び岩石に復元するものだと主張した。そしてこの過程に関する法則を導き出した。すなわち大地は隆起し、侵食され、侵食された物質は堆積し、堆積物は熱せられると花崗岩になると考えた。また鉱脈を火成岩の一種とみなした。
ハットンは火成論者と言われているが、これは正しい見方とは思われない。彼は水成岩と火成岩とを区別した人、すなわち地球の諸現象を科学的に正しく解釈した学者と位置づけるべきであろう。ハットンの「地球の理論」第三巻は手記のまま残された。ハットンの死後、彼の門弟のJ・プレイフェアー(1748-1819)は師の学説を解説し、これを1802年に出版した。これによってハットンの名声は一層高まる結果となった。それにしても、水成論者のウェルナーはハットンの死後20年も長生きをして活躍したので、再び水成論が横行の兆しを見せた。しかしウェルナーの学説は、かつてウェルナーの門弟であったK・ヴァンホッフ(1771-1837)によって否定され、水成論は敗退する。18世紀の鉱床成因論は、多分にこの論争の影響下におかれた。
★19世紀の鉱床学
19世紀に入って、詳しくは1847年にフランスのE・ド・ボーモンはフランス地質学会で注目すべき講演をした。その内容は次のようなものである。褶曲山脈には変成岩と火成岩が同居し、この部分にとくに鉱脈が多く存在すること、また火山作用は火山岩のほかに温泉や、硫黄などの昇華物をつくっている事実から、貫入岩体または噴出岩の冷却過程で大量の硫化物と酸化物の鉱床が出来たと考えた。また堆積岩の中にある銅の硫化物、鉄・マンガンの酸化物、石灰石等は水中における堆積の過程で沈殿したものであるとの考えから、鉱床には火成源と水成源の二つの種類があることを強調した。
19世紀には、変成分化作用によって鉱床が出来るとする成因論が台頭する。アメリカのT・S・ハント(1861)は変成岩が出来る過程で、有用金属の濃集が行われると主張した。すなわち微量の金属を含む堆積物は、花崗岩の貫入によって変成され、金属を放出する。放出された金属は花崗岩の中にとり込まれると考えた。この考えは交代鉱床の成因説の嚆矢である。19世紀には、このほかにもマグマ分化の初期の鉱床と熱水性鉱床とが認識され、定義された。アメリカのW・H・エモンスは近代鉱床学の創始者といわれている人であるが、コロラドの鉛鉱床を研究し、下降する地下水が斑岩の中の有用金属を溶かし、これが周りの岩石を交代して鉱床をつくったとした。この考えは古いアグリコラの思想と共通するものであるが、交代作用の概念を提案している点が重要である。
一方、ノルウェーのJ・H・L・フォークト(1858-1933)はニッケル、鉄の硫化物やチタンの酸化物鉱床を研究し、塩基性マグマ(珪酸に乏しく、鉄、マグネシウムに富むマグマ)が冷却の過程で分化する際に、有用金属を溶かしている液と、珪酸塩の液とにわかれ、両者は混合することなく、同一の岩体の中で固化し、早期に結晶化したものは液の中を沈降したと考えた。さらに、このようなマグマが貫入することによって、マグマの残液は、最後に、ある種の鉱脈をつくると考えた。こうして出来た鉱脈を「熱水性の鉱脈」とした。
★20世紀の鉱床学
20世紀は近代的鉱床成因論が開花した時代である。実に多くの鉱床学者が輩出し、多くの重要な業績を残した。
今世紀初頭には、アメリカの著名な鉱床学者であるJ・F・ケンプ(1859-1926)とW・リンドグレン(1860-1939)が登場する。ケンプは天水循環説を認めながらも、火成岩と鉱床とが密接に関係することを主張した。この考えはリンドグレンによって補強された。リンドグレンはマグマ由来の熱水起源説を提唱し、すぐれた教科書をかいた。以来50余年の永きにわたって鉱床学界に大きい影響を及ぼした。地下水の循環とマグマ性熱水の活動とは共に鉱床の成因にとって重要なことであると位置づけ、さらに地表での風化や堆積作用の中での金属元素の移動にも深い関心をよせた。リンドグレンの学説は中庸で偏ることがなく、そのために多くの学者に受け入れられた。
1919年は鉱床学の歴史の中でも画期的な年である。ノルウェーのC・W・カーステンスと日本の大橋良一が、ほぼ同時に火山岩に伴う層状硫化物鉱床の成因を述べたことである。
カーステンスの研究はノルウェーのカレドニア地方の古い含銅硫化物鉱床が対象だった。一方、大橋良一の研究は秋田県小坂鉱山の黒鉱鉱床であった。黒鉱鉱床は新第三紀中新世の若い鉱床である。いずれも火山岩層の一部に地層の堆積面と平行に、つまり整合的に鉱床が発達するもので、この種の鉱床の成因を次のように考えている。すなわち海底火山活動に関係して生じた金属塩を含む溶液が海底に沈積して鉱床が出来たとするものであった。この考えは現在の「層準規制型鉱床の海底噴気堆積説」の先駆である。
この翌年の1920年に、ドイツのライプチヒ大学のP・ニグリ(1888-1953)は「マグマの揮発成分」という本を書いた。ニグリは鉱物学の教授であったが、変成岩岩石学にも鉱床学にも造詣が深かった。ニグリは図2.2(略)のような絵をかいてマグマから熱水が出来る過程を説明した。同時に図2.3をつくって各種の金属元素がマグマから分離してゆく順位を示した。私の恩師である鈴木醇先生は1928年から二年間、ニグリの許に留学したので、私は折にふれニグリ教授の人柄を聞くことができた。ニグリはせん細な神経の持主で、何事にも厳密であったという。
二十世紀中期で特筆したいのはドイツのH・シュナイダヘン教授がC・R・ヴァン・ハイス(1900)やT・クルック(1914)の思想を継承して「鉱床とは一種の火成岩である」という立場から1944年に表7(略)を1949年に図2.4(略)のような火成岩と鉱床の成因論的分類を試みたことである。この分類は、マグマの冷却に伴ってマグマは分化し、つぎつぎに種々のタイプの鉱床が生成されるというもので、もっとも初期には超苦鉄質岩の中にクロムや白金の鉱床が、そして、もっとも晩期にはマグマから分離した熱水溶液によって金銀などの鉱脈が出来ることを示した。
シュナイダヘンは多くの鉱床学の教科書を世に出した。それらが与えた影響力も大きかった。彼は1950年代を代表する鉱床学者として位置づけられるだろう。すなわち1958年に「地球の鉱床」第一巻を、そして1961年にその第二巻を出版している。第一巻では正マグマ性鉱床(マグマの分化の初期の鉱床)をとりあげ、第二巻では、より分化の進んだペグマタイト鉱床をとりあげている。第三巻では熱水性鉱床が総括されるはずであったが、それを果たすことなく、事業半ばでシュナイダヘンは病没した。
シュナイダヘンは1952年に、構造地質学の巨匠、H・スティーレの生誕75年に当って「鉱床の再生論」を扱った論文を書き、スティーレに謹呈している。これは古い造山帯にできた鉱床が新しい造山運動によって若返るとしたもので、溶け易い鉱物が比較的低温で溶融するために、再生された若い鉱床が、古い造山帯に存在することもありうる、としたものである。
以上にのべたように、ニグリはマグマが固化する過程における温度と圧力条件に注目して鉱床の成因を論じたが、シュナイダヘンは、このことに加えて地殻で起きた構造運動や変成作用の条件にも注目して鉱床の成因を論じた。この点でニグリとシュナイダヘンの考え方、問題のとりあげ方はちがうのである。スウェーデンのS・ガベリン、ノルウェーのA・ポラック、フランスのE・ラガン達は堆積岩の中に含まれる微量の金属元素は、堆積岩が変成されることによって金属が濃集体をつくると考えた。古い変成岩類が卓越する北欧においては造山運動研究の一環として金属鉱床の問題がとりあげられたという地域の背景を感じさせる。
アメリカのA・M・ベートマンは1950年に「鉱床学」第二版を出版した。彼は永年にわたる幅広い経験を活かして実践的(探鉱に役立つ)鉱床学を進めた。とくにマグマ起源熱水説で種々の層状鉱床の成因も説明が可能であるとする立場をとった。
モスクワ大学教授V・I・スミルノフは、1969年に「鉱床地質学」を出版した。このロシア語版は地質調査所の岸本文男氏によって日本語にほん訳された。この本では鉱床の分類体系は鉱床の生成→発展→消滅という輪廻を基本概念にとり入れて、鉱床を九つのグループにわけている。この教科書の新版には「アルビタイト・グライゼン鉱床」がとりあげられ、鉱床の成因的分類は11のグループになっている。アルビタイト・グライゼン鉱床とは、花崗岩貫入体の頂部における後マグマ性の曹長石化作用(Nb,Zr,Thを伴う)と上位の被覆体に出現するグライゼン化(Be,Li,W,Snを伴う)による鉱床で、これらを従来の熱水性鉱床から区別している。また含銅硫化鉄鉱鉱床を黒鉱鉱床と一括して、前者は塩基性の、とくにソーダにとむ枕状溶岩の活動の末期産物であり、後者は酸性岩が卓越する高度に分化した火山活動の末期産物として位置づけられた。その結果、熱水性鉱床は(a)深成源、(b)火山源、(c)遠熱水性の三種類にわけられた。V・I・スミルノフは1960年代を代表する鉱床学の指導者の一人である。
ドイツのハイデルベルグ大学にいたP・ラムドールは鉱石の顕微鏡的研究に一生を捧げた。この人は1960年に「鉱石鉱物とその共生」と題する大冊の鉱石学の教科書をつくった。初版はドイツ語版だったが、1980年に英語で第U版を出版した。この本には地球上に産する、ほとんどすべての鉱石鉱物に関する記載と、それらの反射顕微鏡写真が収録されている。どの写真も実に見事で、見ていて飽きることがない。ラムドールは有名なドイツのライツ社と協力して、いろいろの反射顕微鏡の開発を試み、この分野でも大きな貢献をした。この巨匠は1984年に95才で亡くなった。この時代に、ドイツにはもう一人特徴ある鉱床学学者がいる。その人はH・シュナイダヘンの高弟の一人、H・ボーヘルトである。彼は師と同じ思想で鉱床をみた。ボーヘルトはたくさんのマンガをかいて鉱床の生成過程をわかり易く説明した。日本流に言えば、普及活動の模範を示した人である。彼が画いた多数のマンガの中から代表的なものをここに示しておく(図2.5:略)。参考までに書いておくが、彼の「鉱床成因マンガ図」は私の手許にあるものだけでも27葉に及んでいる。何れも興味深いもので、アニメーション映画を楽しむような気分で鉱床の生成過程を学ぶことができる。
ところで、日本での鉱床学研究は、どういう道すじを通って発達したのか、を概観してみよう。
★日本の鉱床学の黎明
そもそも、日本の地質学はその初期においては、欧米とくにドイツから輸入されたもので、欧米にくらべると100年も立ちおくれている。日本の鉱山の開発は佐渡金山や小坂銅山のように、江戸時代から採掘が行われたものもあるが、当時は詳しい地質調査は行われていない。
地質調査所の今井功氏(1966)によれば、日本の鉱山を地質学の専門家が最初に調査したのは、フランス人のF・コワニエで、この人は幕末に来日し、10年間日本に滞在し、生野鉱山の開発を指導し、明治7年(1874)に「日本鉱物資源に関する覚え書き」を残した。これが日本の地質と鉱床とを概説した最初のものである。
日本の地質学の黎明期に活躍した日本人は和田維四郎(1856-1920)で、この人は、東京大学の前身である東京開成学校の鉱山学校で学び、1873年にウィーンで開催された万国博覧会に協力し、日本各地から多数の鉱物標本を集めた。これが有名な「和田標本」で、今では到底採集することができない見事な鉱物や鉱石が含まれている。この貴重な標本は現在、三菱マテリアル株式会社が保管し、一部は大宮市にある同社の中央研究所に、また一部は兵庫県の生野町営鉱物標本館に展示されている。
明治10年(1877)、東京大学の設置と共に、東京大学に地質・採鉱・冶金科が開設された。初代の地質学の教授はドイツ人のE・ナウマンで、和田維四郎は助教授であった。和田は1878年に「本邦金石略誌」を著わし、二年後の1880年に「鉱物の晶形学」を書いた。ナウマンと和田は、日本の地質と鉱物資源の調査を進めるには、国費による大組織が必要であることを痛感して「地質調査所」の発足のために奮闘した。いろいろのいきさつはあったが、明治15年(1882)の2月13日に農商務省の一機関として地質調査所は設立された。
和田はナウマンの帰国後、東京大学の教授になり、同時に地質調査所の初代の所長を勤めた。日本人による「独立した地質学」に移行したのはこの時である、といってよい。
明治18年(1885)の東京大学の地質科の教授陣は、小藤文次郎(地質学)、原田豊吉(古生物学)、和田維四郎(鉱物学)であった。原田はドイツに8年間留学し、ミュンヘン大学で博士号を受けている。和田はベルリン大学で鉱物学を学び、小藤はライプチヒ大学で岩石学をF・チルケル(1838-1912)に学んでいる。日本の地質学はまさにドイツ地質学の輸入であった。この時代には東京大学には鉱床学講座はなかった。
1909年に東京大学を卒業した加藤武夫(1883-1949)は、明治専門学校(現在の北九州工業大学)をへて、1920年に東京大学の鉱床学講座の初代の教授になった。加藤はその後24年間にわたって教授を勤め、日本の鉱床学の発展に、とりわけ鉱床の分類体系化に生涯を捧げた。加藤もドイツのフライベルグ鉱山大学に留学している。加藤は鉱石顕微鏡学、熱水性の含金銀銅錫鉱脈、黒鉱鉱床、含銅硫化鉄鉱鉱床、接触交代鉱床等、ほとんど全ての型の鉱床を研究し、それらの成因的位置づけを明らかにすることに努力した。その成果を1927年にとりまとめ、「鉱床地質学」と題する教科書をつくった。この本は、その後の20年間に9版を重ねたが、1937年に内容を一新して「新版鉱床地質学」として出版された。これが日本人によって、日本語で書かれた最初の鉱床学の教科書である。この本は757頁に及ぶ大著で、鉱床学を専攻する学生には座右の書として愛読された。この本の中には多くの海外の鉱床が紹介されているが、そのほとんどすべては加藤が自ら踏査したものであると序文にかかれている。交通不便の当時の事情を考えると、これは驚異的なことといわなくてはならない。
加藤のほかに、日本の鉱床学の黎明期に活躍した人に、地質調査所の平林武(1872-1935)がいる。この人は黒鉱鉱床の研究に先鞭をつけ、この研究は秋田大学の大橋良一や、九州大学の木下亀城にひきつがれた。明治44年(1911)に開設された東北大学理学部にあった大湯正雄(1882-1921)は鉱床学に熱平衡論をとり入れ、阿武隈山地の変成鉱物や、カナダのサッドベリー鉱床を研究した。大湯の助手だった渡辺万次郎は、日立鉱山の研究をはじめ、日本の多数の鉱脈の研究を進めた。
昭和5年(1930)には北海道大学に理学部が新設され、その翌年に理学部に鉱床学講座が設置された。この新しい鉱床学講座には、加藤武夫の高弟である鈴木醇、渡辺武男が着任し、クロム鉱床や接触交代鉱床(スカルン鉱床)の研究を発展させた。
当時の鉱床学者は、誰をとってみても、幅広い分野を研究の対象とし、特定の研究テーマに偏ることがなかった。人材を育てるためには博識でなくてはならなかった。このような先覚者の指導をうけた二代目、三代目とも言うべき鉱床学の専門家は今や1,000名をこえ、今日の鉱床学研究を支えているばかりでなく、国内の鉱床はもとより、海外の鉱床の開発にも取り組んでいる。現在、海外で活躍しつつある日本の鉱床専門家は枚挙にいとまがない程で、1980年には海外鉱床の開発に参加している日本人技術者は2,111名に達している。
新鉱床に関する情報や、数々の研究成果は、世界の種々の学術雑誌に発表され、地球的規模での交流が行われている。とくに1905年にアメリカで創刊されたEconomic Geology、1951年に日本で創刊された「鉱山地質」、1966年にヨーロッパで刊行されたMineralium
Depositaはこの分野での専門誌として大きな役割を果たしつつある。』