槌田(1982)による〔『資源物理学入門』(13-24p)から〕



第1章 エネルギーとは何か
 1 多義語としてのエネルギー

 エネルギーという現代では物理学のことばが、経済学など社会現象を説明するのに使用されている。しかし、このエネルギーということばは、用い方によって異なった意味になるのに、一般にはそのことが注意されていない。これでは、言語混乱におちいって滅亡したというバベルの塔の神話が思い出される。つまり、依頼者が、「あるエネルギー」を要求したとして、供給者が「別のエネルギー」を開発しているのではないかと思われる現象が続出しているからである。そこで、まず、エネルギーということばの持つ意味を整理し、流行する詭弁を指摘することから書き始めようと思う。
 エネルギーということばに、いくつもの意味のあることを示すのは簡単である。たとえば、石油ショック直後に開講された東京大学公開講座『エネルギー』(東京大学出版会)をとりあげてみる。この講座の趣旨は、10名の東大教授がそれぞれの専門の立場から、同一のテーマを中心に講義することにより、問題点を浮きぼりにしようというものであるが、この「エネルギー」という講座の話題を順に追ってみると次のようになっている。
 まず、第1番目の講義はエネルギー保存則の成立である。第2番目は自然エネルギー、第3番目はエネルギーの循環が話題である。このようにいくつかの自然科学的エネルギーの話の後、第8番目の講義は経済とエネルギー、第9番目は、エネルギーと国際紛争というようになっている。たしかに、これもエネルギーには違いない。しかし、何となくちぐはぐの感をまぬがれない。第10番目の教授自身もさかんにこれを弁解している。
 そこで、我々人間が、エネルギーということばで何を表現しようとしているのかを考えてにたい。大きく分類して、エネルギーには四種類の意味がある。
 @ 活動を意味するエネルギー
 エネルギーということばの語源を求めてみる。すべての学問はアリストテレスに始まるといわれるが、エネルギーもアリストテレスのフィジカ(自然学)とメタフィジカ(自然学の後にある学問、形而上学と訳すことが多いが、不適当)にでてくるのが最初らしい。
 アリストテレスによれば、物事には、デイナミス(注1)(潜在、能力)から、エネルゲイア(現実、活動)をへて、エンテレケイア(完了)へと変化する流れがある。このエネルゲイアが、エネルギーの原意なのである。
 つまり、エネルギーとは「活動」を示している。これは、現在もなお、生きており、日本語のエネルギッシュや、精力的なという意味の英語energeticは、アリストテレスのエネルゲイアにもっとも近い意味のことばである。
 A 力または能力を意味するエネルギー
 その後、エネルギーは活動という意味から転化して、活動の原因としての「力」とか「能力」とかいう意味に用いられるようになった。つまり、アリストテレスのいうデイナミスに相当する。先に引用した「住民運動のエネルギー」というのは、これにあたっている。
 特に、英語のenergyということばには力(force)や勢力(power)という意味があり、また力強さを意味することもある。これらはすべて、活動の原因を示している。
 B 物理エネルギー
 このエネルギーということばは、物理学の用語として転用されるようになった。現代の物理学者は、エルゴン(ergon)というギリシャ語が仕事、働きを意味するから、これに接頭語enをつけたものと説明しているが、これはこじつけであろう。
 というのは、19世紀なかごろでは、まだ力と仕事の区別が、物理学上さだかでなかったからである。たとえば、エネルギー保存則をヘルムホルツは1847年に提起したが、彼の講演の原題は「力(kraft)の保存について」なのである。それが後に、同じ意味であった力とエネルギーということばを分離し、エネルギーに対して、没価値の、現在用いられているような「物理」エネルギーの概念を押しつけたのである。もはや現代物理学は、この「物理」エネルギーを使わないで記述することは困難である。したがって今さら、命名しなおすことはできそうにもない。だが今日のエネルギー問題の誤解の原因がこの強引な命名にあることを考えると、命名ということは重大なことである。それは、後に詳述する「エントロピー」というなんだかうさんくさいことばについてもいえることであって、物理学者の反省すべきことと思う。
 C 経済エネルギー
 このエネルギーということばは、経済など社会のことばとしても用いられるようになった。ヘルムホルツの力の保存則から20年程度後の1865年に書かれた経済学者ジェボンズの有名な『石炭問題』という本にはenergyということばが盛んに用いられている。すでに、そのころから、動力や燃料を総称することばとして、エネルギーということばが用いられていたのである。したがって、物理エネルギーと経済エネルギーのどちらが先に使用されたのか、私にはよくわからない。ことによると、物理エネルギーの方が、後から命名されたのかも知れないのである。
 以上述べたように、エネルギーということばには、四種の意味がある。したがって、エネルギーということばを用いる場合、または、エネルギーということばを聞いた場合、そのどれにあたるのか考えてから対応しないと、詭弁に気がつかないことになる。
 たとえば、物理エネルギーと経済エネルギーは、一般にはまったく同じ意味だと考えられている。たしかに、どちらもジュールだとかカロリーだとかという共通の単位で計測可能である。しかし、このふたつは、似て非なるものなのである。すくなくとも、物理エネルギーは没価値、一方経済エネルギーは価値を議論する。そこでこのふたつのエネルギーの違いをもっと詳細に検討しようと思う。エネルギー問題の混乱の原因がここにあるからである。

 2 エネルギー問題の混乱の原因
 物理エネルギーの基本原理は、保存則である。これに対し、経済エネルギーの基本原理は、消費則である。保存と消費は対立概念であるから、物理エネルギーと経済エネルギーを同じものとすると、矛盾になってしまう。つまり、別ものなのである。
 そこで、何のための経済エネルギーの消費かと考えてみる。それは、活動を得るための経済エネルギーの消費であることに気づくであろう。アリストテレスの定義を用いれば、経済エネルギーは、活動になる潜在能力であって、デイナミスを意味しているのである。そのように考えると、活動になる潜在能力を消費して、活動にするという意味で消費が定義されることになる。
 エネルギー問題の混乱は、社会が活動の源としての経済エネルギーを求めているのに、そのエネルギー供給の技術を持つ科学技術者には消費可能の意味が、どうにも理解できないところにある。科学技術者にとってのエネルギーは、あくまで物理エネルギーであって、消費されるわけはなく、形を変えるだけであって、保存されていると信じているのである。それにもかかわらず、彼らは「エネルギー問題の専門家」を自称している。
 いわゆる科学技術者の書いた論文を読むと、その論理構造は次のようになっている。「社会は、エネルギーの不足に直面している。このエネルギーの不足に対しては、エネルギーの豊富で応えればよい。つまり、巨大エネルギーまたは無限エネルギーの供給を科学技術者が果せばよい。そういう意味で、原子力は、燃えないウラン238も利用できれば3000年分のエネルギーが確保され、核融合では、海水の重水素によって、何億年分かは保証され、太陽エネルギーを用いれば、それこそ無限にエネルギーの不足に悩むことはない。社会が、もしも、そのような巨大エネルギーの供給を受けたかったら、研究開発そして実施のための巨額費用を出し惜しみすべきではない。そして、これに伴う多少の被害は容認すべきである」と。
 だが、すでに述べたように、社会が要求しているのは、経済エネルギーである。これに対し、いわゆる科学技術者の供給しようというのは巨大な物理エネルギーである。これでは、契約そのものに齟齬がある。いかに社会が巨額の費用を差し出そうと、科学技術者の作り出すものは、社会が要求しているものとは別のエネルギーなのである。何となく、『裸の王様』の童話の機織師が思い出されてならない。

 3 科学技術におけるエネルギーの混乱
 エネルギーということばは、すくなくとも、物理学的意味では混乱がないと信じられている。しかし、これも必ずしも、そうではない。
 このことを、最初に指摘したのは、気象学者エムデンであった。彼は、1938年、『ネイチュア』という有名な雑誌に「冬に何故暖房するか」という論文を書いた。その論文の目的は、エネルギーは単なる会計係、エントロピーこそ主役であることを指摘するためであった。エントロピーについては、第2章で述べるとして、ここでは暖房についてのみ考えてみる。
 エムデンは、「素人は部屋を暖めるためというだろう。ある科学者は部屋にエネルギーを供給するためというだろう。しかし、これでは素人の方が正しく、科学者の方が間違っている」という。
 その理由は、外から加熱や攪拌などによってエネルギーを加えると、部屋の空気は暖まり膨張する。したがって、空気の一部は、すきまから逃げ出してしまう。もしも、理想気体だったとすると、加えたエネルギーと逃げたエネルギーは等しく、部屋のエネルギーはちっとも増えていないのである。
 エムデンは、さらに、議論を進めて、「冷たい地下室から赤ぶどう酒のびんをとり出し、暖かい部屋に持って来たとする。それは温かくなる。しかし、その増えたエネルギーは部屋の空気から得たのではなく、冷たい外気から得たのである」と述べた。その通りなのである。
 このエムデンの指摘に注目した物理学者がいた。有名な理論物理学者ゾンマーフェルトである。彼は、このエムデンの問題を彼の熱学の教科書(『熱力学および統計力学』大野訳、講談社)に採用した。そして、理想気体ではなく、普通の気体に拡張し、気化の潜熱(つまり蒸発熱)を考慮して、計算しなおしてみた。その結果、部屋を熱するためにエネルギーを加えると、それを上まわるエネルギーが逃げ出してしまうことを知ったのである。彼は、「したがって、部屋の空気のエネルギー密度はエムデンの言ったように一定であるどころか、過熱によって減りさえするのである」と結論した。
 このゾンマーフェルトの議論は、さらに拡張できる。よく知られているように、E=mc^2によって、エネルギーと質量は等価である。このエネルギー量は莫大である。そこで、部屋を暖めるとは、エムデンのいうように部屋から気体を抜き取ることを意味しているので、その抜け出した気体の質量から計算したエネルギーは莫大であって、とうてい部屋の加熱に使ったエネルギーとは比べものにならない。
 このような混乱のおこる原因は、この物理エネルギーが相対的概念であって、絶対的概念ではないところから生ずる。つまり、エネルギーの原点は任意であるから、注意して用いないと、とんでもない結論になってしまうのである。
 純粋物理学の範囲の中だけでは、面白くないので、もうすこし話題を拡げてみる。物理エネルギーの混乱として、電力をとりあげてみる。電力がエネルギーであることは、誰も疑っていない。しかし、結論から先にいうと、電力はエネルギーではない。これは単に便宜的な呼び方である。
 電力とは、発電機を動かしている動力を、遠方の、たとえば、モーターへ運搬する方法なのである。動力を運搬する普通の方法はテコである。歯車も、滑車もテコの応用で動力を運搬する。しかし、テコ力をエネルギーとはいわない。
 もう少し、電力に近いものを考えてみる。それは油圧機械である。油圧と電圧が対応し、ピストンの単位時間に動く距離と電流が対応する。しかし、この油力のことをエネルギーとはいわない。
 では、電力でエネルギーと呼ばれるものは何かというと、それは運搬されたエネルギー量のことである。これならテコにも油圧機械にも存在するのである。したがって、電力だけ特別扱いすることは、またおかしいのである。

 4 有効エネルギーの試み
 社会で用いられているエネルギーがどうやら物理学でいうエネルギーと違っているようだということは、科学技術者にもうすうす理解されている。たとえば、日本語でエネルギーの節約のことを、英語ではconservation of energyという。しかし、これは物理学ではエネルギー保存則のことなのである。科学技術者は、新聞などでこのことばに接するたびに、何となく居心地の悪い思いをさせられている。
 そこで、社会で用いられている「エネルギー」に相当する物理エネルギーを考えてみようという試みとなる。つまり「○○エネルギー」として、物理エネルギーを変形すれば、それが社会でいうエネルギーになっているのではないかというわけなのである。
 まず、熱学の自由エネルギー(注2)の転用が提案された。これは、物理エネルギーを変形したもので、保存則は成立しないが、等温変化で得られる最大仕事を示している。仕事は社会にとって有用なので、この自由エネルギーを使えば、物理のエネルギーを社会でも使えるのではないかということになる。しかし、社会において、等温変化などという条件は、化学工場の中の反応炉の中を除き、ほとんど存在しないのである。しかもその場合、仕事がとり出せるわけではない。
 もっとも、生物体内で発生する仕事は、この自由エネルギーで求めることができる。体温という等温状態で、化学エネルギーが仕事に変わっているからである。しかし、一般の社会現象では、自由エネルギーを用いても意味がない。つまり、物理エネルギーを経済エネルギーに近づける試みとしては失敗である。仕事と関連して自由エネルギーを定義することは、間違いというわけではないが不適当なのである。自由エネルギーとは、まったく「不自由」なエネルギーであった。
 そこで、この物理エネルギーを、仕事の生産に有効な部分と無効な部分の合計で示すという試みが提案された。つまり、エネルギー保存則の範囲で、エネルギーEを
   E=W+W'   (1)
とし、Wを仕事を生産するのに有効なエネルギー(注3)、W'を捨てるほかしようのない無効のエネルギーとする。
 運動エネルギーも、位置エネルギーも、そのまま有効エネルギーである。しかし、同じ力学エネルギーでも、高圧気体のエネルギーの場合、外気圧に相当する部分は廃物のエネルギーであって無効である。したがって、有効エネルギーWは、その分だけ減じておく。
 高温(T度)の熱Qも同様で、仕事をするのに有効な部分と無効な部分からなりたっている。この無効の熱は、熱機関の最大効率の理論から求めることができる。その値は、外気温をToとすると、W'=Q・To/Tで示せる。したがって有効エネルギーWは
   W=Q−W'=Q−(To/T)・Q   (2)
となる。
 ここでは、有効エネルギーにこれ以上深入りはしないが、この考えを拡張することにより、冷熱や真空にも、有効エネルギーが存在することを示すことができる。事実、液体天然ガス(LNG)を海水で温めて、普通の天然ガスに戻す時、発電することができる。
 しかし、これは奇妙なことといわねばならない。それは、LNGとは、天然ガスからエネルギーを取り除いて液化したものである。したがって、LNGはエネルギーの不足する状態である。それにもかかわらず、このLNGを気化させるだけで仕事を生産するのに有効なエネルギーをとり出せるのである。また同様に、真空とは何にもない状態である。もちろんエネルギーも入っていない。それにもかかわらず、この真空を用いて、発電が可能なのである。これを「有効」エネルギーと命名することにしても、やはり妙であるという現実には変わりはない。
 このような概念上の不満が残るとしても、この有効エネルギーという考えは、熱工学の分野に大きな影響を与え、効率の考え方の修正に役立ったのである。しかし、この有効エネルギー論は仕事の「生産」にこだわった理論であり、何故にエネルギーの「消費」なのかについて考えていない点で、まだまだ中途半端である。この理論は熱工学というやや単純な系で、しかも、個々の工程を独立に議論する場合に有効であるが、たとえば原子力発電を全体として議論し、その有効性を議論しようというような場合には、まったく「有効」ではないのである。
 つまり、物理エネルギーの範囲内の議論であって、資源全般に拡大することが困難だからである。これについては、エントロピー概念の導入が必要になるから、次章で議論することにしよう。

注1 デイナミス:ラテン語でいえばポテンシア。英語でいうとポテンシャル。可能性、潜在性、能力、力を意味する。物理学でいう動力学(ダイナミックス)の語源にあたる。しかし、意味からいうとエネルゲイアが動力学、デイナミスが静力学(スタティックス)のようにも感ぜられるから、良い命名という訳にはいかない。
注2 自由エネルギー:等温等圧変化では、ギブスの自由エネルギーを用いる。等温等容変化ではヘルムホルツの自由エネルギーを用いる。いずれの場合でも、等温の場合にのみ使用可能であって、温度が変化する場合には使えない。
注3 有効エネルギーエクセルギーともいう。1925年にグッドイナフが提案し、1956年にラントがエクセルギーと名づけた。熱工学では、最近よく使われるようになり、熱効率の考え方を整理するのには、重宝されている。これはランダウ・リフシッツ著『統計物理学』にある環境下での最大仕事と同じものである。
 しかし、エクセルギーや最大仕事よりも、エントロピーの方がより本質的であるので、私はエクセルギーをあまり推奨しない。それに、何故エネルギーのenに対して、エクセルギーのexなのかもはっきりしない。似たような命名は、またまた言語混乱の原因であろう。

参考文献
多義語としてのエネルギー 東京大学公開講座『エネルギー』東京大学出版会、1974年
エネルゲイア アリストテレス『形而上学』下巻、出隆訳、岩波文庫、第9巻、19〜45頁
エネルギー(経済) W.S.Jevons “The Coal Question” Augustus M.Kelley Publisher、1965 レプリント版、原著1865年
エネルギー(物理) A・ゾンマーフェルト「熱力学および統計力学」大野鑑子訳、講談社、368頁、原著1952年
有効エネルギー 信沢寅男「エクセルギー入門」オーム社、1980年
環境下での最大仕事 ランダウ・リフシッツ『統計物理学』第3版(上) 小林ほか訳、岩波書店、1980年、75頁、原著初版1951年