小林(2000)による〔『リスク学事典』(34-35p)から〕


10. リスク学の基礎学と関連学問領域 Fundamentals and Related Fields in Risk Research

領域

 リスク学は広く人間活動のすべてを対象とする実用学際科学である。自然環境および社会環境と人間活動とのかかわり、あるいは、相互作用の結果として生ずるリスク事象(risk event)について、
@それが如何なるものかを明らかにし(リスク同定 risk identification)、
Aそれがどのように起こり、その結果はどうなるのか、その所以、因果関係を調べ(リスクの定性的解析評価 qualitative risk analysis, -assessment)、
Bそれがどのくらいの頻度で起こり、大きさはどのくらいなのか、といった、相対的(comparative)あるいは絶対的(absolute)な大きさを推定、あるいは、算定し(リスクの定量的解析評価 quantitative risk analysis, -assessment)、
Cこれにいかに対処するか、いかにしてその顕在化を効率よく押さえるか、その方策(リスク管理 risk management)を考案、実施、評価し(性能実地評価 performance assessment)、あるいはまた、
Dこのようなリスクにかかわる情報をわかりやすく一般公衆や施政者に伝え(リスク情報伝達、リスクコミュニケーション risk communication)、これらの結果を総合して、
E個人や社会がとるべき態度や方策についての意思決定(decision making)、あるいは国、地域、ひいては世界の政策決定に資すること、
を目的としている。

内容

 「リスク管理(risk management)」は「危機管理(crisis managemant)」としばしば混同されて用いられる。リスク管理はリスクの顕在化、すなわち、リスク事象の発生を防ぐ予防策である。危機は損害の大きいリスク事象であって、リスク管理が有効に機能しない結果として、リスクが顕在化した(実際に起こってしまった)事象である。危機管理は起こってしまった危機の対処(方策)である。危機に備えての対処方策を「緊急事(時)対策(emergency countermeasures)」といい、これを日頃準備しておくこと、あるいは準備してある状態を「緊急時対応準備(emergency preparedness)という。緊急事(時)対策は危機(事故)が起こったときに、被害を最小限に止めるよう、かつ、リスクを増すことがないような方法で、迅速に対処できるように、常時整えられていなければならない。緊急事(時)対策が不十分であった結果として、危機が的確に収束できないようなことにならないように、十分な緊急事(時)対策を用意しておくことも「リスク管理」の一分野である。
 一方、一般的に、事故(危機)は緊急事(時)対策において想定していなかったような原因や様式で発生することが多く、そのような場合には対応準備の枠組みを越えての、臨機応変、そこで活用可能なあらゆる人的・物質的資材を動員しての、的確なリスク管理に基づく、危機の克服が求められる。これが真の意味での「危機管理」である。
 リスク管理と危機管理は、金融機関の破綻、原子力施設の放射線被曝事故、青少年の暴力傷害事件、特別公務員の規律違反、HIVやC型肝炎ウィルス感染増加、地震や噴火といった自然災害、地下鉄の脱線事故、さらにはコンピュータハッキングやウィルス感染など、今日の社会が経験し直面しているあらゆるリスク事象に対して適用される概念であり、対処法である。
 今日のわれわれの生活はいくつかの基本的な社会的基盤(social infdastructure)の上に成り立っている。これらの社会的基盤として重要と考えられる要素を仮に10項目選ぶとすると、
@情報通信、
Aエネルギー源(電力、石油、ガス)、
B交通・輸送、
C金融・経済システム、
D食料・水供給サービス、
E医療(福祉)サービス、
F清浄な生活環境保全、
G教育システム、
H緊急時対応システム、
I安定した政治的(社会的)制度、
があげられる。
 これらの社会的基盤が故障し、破綻すると、それは直接に国民の健全な生活を脅かすことになり、考えうるすべてのそれらの故障・破綻の原因と過程はすべて、リスク因子である。したがって、リスク学がその対象として優先的に取り上げるべき領域は、これらの社会的基盤にかかわるリスクであり、これらの社会的基盤の成立と持続にかかわるそれぞれの学問領域がすべて、リスク学の基礎・関連学問領域となる(第1章第2項参照)。
 このようにリスク学は対象とする事象がきわめて広範で、その内容が多岐にわたる学際的科学であるので、その基礎となる学問も非常に幅広い。
 概括的に述べると、政治学、地政学、法学、社会学、経済学、心理学、倫理学、教育学などの社会科学;機械、電気・電子、土木工学などの工学一般;化学、地学、地球化学、気象学、宇宙科学、海洋科学など理科学全般;医学、生物学、生態学、人口動態学、疫学、薬学、農・水産・畜産・林学、など生物科学全般;さらに、特にこれらの学問の共通的基盤としての統計学、推計学などの数量科学(確率論、曖昧理論、その他)、情報科学がリスク学の基礎学である。これらに加えて、関連する学問領域として、システム工学、都市工学、原子力・宇宙工学、環境科学などの学際科学があげられる。
 より具体的に述べると、個々のリスク事象ごとに必要な基礎専門学問分野と関連領域がある。一例として健康にかかわるリスク事象のうちHIV/AIDSについてのリスク解析・評価、リスク管理を取り上げてみよう。リスク学は、HIV感染・AIDS発症のリスクを個人のレベル、および社会・集団のレベルで評価し、そのリスク管理方策を検討し、決定する。これには、個人レベルでは臨床診断学、臨床検査学、血液学、免疫学、栄養学、薬学、行動心理学など、社会・集団のレベルでは保健学、人口動態学、統計学、社会経済学(保険など)、情報科学、政策科学などが基礎学としてかかわり、関連学問領域として、肝炎、結核その他の感染症一般にかかわる学問が関与する。
 表1にリスク学の分野と主要な関連学問領域、および内容を例示する。
表1 リスク学の分野と関連学問領域
分野

自然科学

社会科学
リスク分野 工学的
リスク
環境科学的リスク
(生態学的リスク)
生物学的・医学的
リスク
心理学的リスク 経済学的リスク 政治学的リスク
主要な基礎学・関連学問領域と手法の例示

数量科学(統計学、推計学)・情報科学
システムズ
アナリシス
生態学
曝露量測定学
(Dosimetry)
実験生物学
基礎/診断
医学、疫学
心理学
社会心理学
社会経済学
厚生経済学
政策科学
費用-効果・費用-便益分析
→最適化・正当化
内容 故障頻度
事故確率
曝露量(Dose) 確定的・確率的影響 リスク認知
相対的リスク
費用-効果、費用-便益、
損害-便益の評価
社会的合意形成
Dose-Response関係
→リスク算定/水量
リスク解析・評価・管理(Risk Analtsis, -Assessment, -Management);リスク情報伝達(Risk Communication)
インパクト(Output) リスク容認、リスク管理の科学的妥当性 技術のパブリックアクセプタンス(PA) 意志・政策決定(Decision Making)