中西(1995)による〔『環境リスク論』(4-7p)から〕


 リスク論とエンドポイント
 このような特徴をもった環境問題に立ち向かい、できるだけ合理的な手段で解決策を提示していくとき、どうしてもリスク論が必要である。なぜ必要か?そもそもリスク論とは何か?そのリスクをどのような原理で運用するのか?をこの本の中で考えていきたい。おって詳しく述べるが、最初に環境リスクの定義だけしておこう。環境リスクとは、環境への危険性の定量的な表現で、「どうしても避けたい環境影響」の起きる確率で表現されると定義できる。どうしても避けたい重大なことがしばしば起きることは、リスクが大きいことになる。
 化学物質の危険性管理について考えてみる。ある化学物質の発がん性が問題になっているとしよう。この場合は、「どうしても避けたいこと」はがんになることである。そこで、発がん確率が発がんリスクになり、その化学物質のリスクになる。
 化学物質の危険性をリスクというかたちで評価し、制御していこう、これが私の考え方である。危険性をリスクと表現することは、単なる言い換えではない。従来の考え方、ある基準があってそれ以下なら安全で、それを超えると危険であるという二分法的な考え方を否定するところからはじまる。リスクには、安全がない。リスク論とは、安全領域がない危険性とわれわれはどうつきあうかという科学である。
 リスク論には、安全領域がないから、そこに逃げ込んで、問題を解決することができない。リスクをどう管理するかという課題にいつもいつも直面することになる。これがリスク・マネージメントである。つまり、微妙な危険性もリスクとして評価する代わりに、ある程度のリスクは許容するという立場に立つのである。
 こういう考え方は日本人には向かないという話をよく耳にする。特に、官庁の人はそう主張する。たしかに、これまでの日本人は、リスク論など受け入れないというのが一般的であった。市民運動の要求、新聞や週刊誌の論調を見ていると、平常時は行政機関にすべてを委せ、事件が起こると行政機関の責任追及一色になる。絶対安全がどこかにあり、それを行政が用意してくれることが前提になっている論調が圧倒的である。
 しかし、私はリスク論が日本人に受け入れられないという常識を認めない。理由は三つある。一つはそれでしか、今まで以上の安全が保証できないこと、第二に、教育水準が高いこと、第三は、生活水準が高く、そのレベルがかなり揃っていること、つまり上下の格差が小さいことである。
 極端な不平等があれば、下層にいる人はリスクをどう管理するかなど考えず、上層の人の責任だと考えるだろう。ある種のリスク管理に莫大な資金が投入されようと、あるいは節約されようと、低所得者には所詮関係がないのである。しかし、社会が平等であれば、リスク管理の影響を直接受けることになるし、またそのための費用も負担しなければならない。そのため、社会のことを自分のこととして考えることができるようになるのである。
 リスク論は日本人には向かないという人は、日本人の変化を見落としている。過去と今の日本人を見ているが、どう変わろうとしているかを見ていない。重要なのは、日本人の気質ではなく、それを理解する物質的な基礎があるかどうかである。リスク論を理解する物質的な基礎の点で、日本は世界でもっとも条件が揃った国である。
 私のリスク論は環境保護派の市民運動側から猛反発を食らうと心配してくれている友人たちがいる。市民運動はしばしば絶対安全を要求してきたからである。心配は有難いが、私はそうは思っていない。もちろん、少し時間がかかるかもしれない。しかし、必ず理解される自信がある。それは、今述べたような物質的な基礎があるし、誰かに治めてもらうのではなく、自分たちで管理するという考え方になれば、リスクをゼロにするという考え方では対処できず、リスクとどうつきあうかという考え方に移行せざるを得ないからである。
 日本が世界中で所得格差の最も小さい富んだ国だからである。私は、気質を問題にしない、生活の物質的な基礎を見ながら、自分の理論を構築している。極端に不平等な社会であれば、リスク論が理解されないだけでなく、その適用が間違っているのである。
 化学物質と人の健康との関係で、リスク評価が課題になってきたのは、発がん性物質が増えてきたからである。それまでは、有害な物質については、行政が安全基準を出し、その範囲内で化学物質を使うというルールがあった。そこで提供される安全基準が必ずしも安全を保証するものでないことは、多くの人が気付いてはいるのだが、はっきりした事故がおきるまでは黙っているというのが普通であった。
 この安全基準の基礎になっているのは、一定量の有害物が体内に入っても人間の身体には治癒能力があるから安全であるという考え方である。これを、れわれはしきい値があるとか、恕限度があると表現する。
 ところが、発がん性物質が登場するようになり、発がんの機構が分かってくると、恕限度のある発がん機構を仮定することが無理だと考えられるようになってきた。恕限度がなければ、どんな少量でもその量に応じた危険性があることになるから、安全基準を決めることができない。であるならば、小さいとはいえ残っているその危険性を、どう扱えばいいかということが議論される必要になった。これがリスク評価の科学のはじまりである。実験では証明できないので、常に不確かさをともなうことになる。
 繰り返せば、リスクとは、不確かな、そして従来の意味からは安全と判断されるが、現実には灰色の危険域の危険性を、定量的に表現したものである。』