『第1章 いま、何が起こっているのか?
1.1 環境ホルモンに対するアピール
環境ホルモンは、公式には「内分泌攪乱物質(ないぶんぴかくらんぶっしつ)」という。米国のホワイトハウス科学委員会が1997年に主催したワークショップは、この「内分泌攪乱物質」をつぎのように定義した。
生体内ホルモンの合成、分泌、体内輸送、結合、作用あるいは分解に介入することによって生体の恒常性(ホメオスタシス)の維持、生殖、発達あるいは行動に影響をあたえる外来物質
つまり、私たちの内分泌系を乱し、私たちの子孫にまで悪影響をおよぼす外界からの有害物質、というわけである。内分泌系とは、ひと口でいえば、われわれの生殖、発達、成長、行動などに中心的な役割を果たしているホルモンの活動の場である。
内分泌系を乱す化学物質の存在することは、これまでにも散発的には指摘されていた。しかし、環境ホルモン問題を世界にアピールしたのは、何といっても、米国の生物学研究者のT・コルボーンと生態学研究者のJ・P・マイヤーズとジャーナリストのD・ダマノスキの三人によって執筆された『Our
Stolen Future』(図1-1:略)の1996年における刊行である。
それとならんで環境ホルモンについて警鐘を鳴らしつづけたのは、英国の国営放送BBCである。このBBCの科学番組をプロデュースしてきたD・キャドバリーも、1997年に『the
feminization of nature』(図1-2:略)と題した本を出版している。
ヒトと野生生物の棲息する地球で、いま、何が起こっているのかを知るためには、この二冊を読むのがもっとも手っとり早い。忙しい読者のために、まずはこの二冊を少しアレンジして紹介しよう。そこには耳なれない専門用語もでてくるが、それらは次章以降で説明するので、気にしないで先に進んでほしい。
1.2 コルボーンらの警告
『Our Stolen Future』は『奪われし未来』という題で邦訳され、1997年に翔詠社から出版された。原著は316ページであるが、邦訳書も約400ページの分厚い大作である。この要約の一部はつぎの通りである。
●野生生物の異常
『奪われし未来』の中でもっともショッキングなのは、つぎからつぎへくり広げられる野生生物の信じられない異常生態である。それらを箇条書きにして以下に列挙する。
ザッとこんな具合である。これらの異常は、酸欠、ウィルス、近親勾配、などの自然現象によるものではないという。環境に人間がくわえた化学物質がその大きな原因らしい。
●精子の減少
これらの異常現象はヒトに関しても報告されている。その一例はヒトの精子の数の減少と異常な精子の増加である。
『奪われし未来』においては、まず、コペンハーゲン大学のスカッケベック教授らの1992年における調査結果が紹介されている。それによると、精子の数の減少のみでなく、多くの男性に停留精巣や尿管萎縮も認められる。ヒトの精子の平均数は1940年には精液1ミリリットルあたり1億1300万個であったのが、1990年にはわずか6600万個にまで落ちこんだ。45パーセントの減少である。精液量は25パーセントの減少であった。
スコットランドでの精子調査結果も紹介されている。それによると、1940年生まれの男性の精子の数は精液1ミリリットルあたり平均1億2800万個であったのが、1969年生まれでは7500万個にまで減少した。
ベルギーにおける調査は、1990年から93年にかけての360人のデータと1977年から80年にかけてのデータを比較している。それによると、正常な形態をした精子の割合は40パーセントから28パーセントに減少している。また、まともに泳いだり動ける精子の割合は53パーセントから33パーセントに減少した。
一方、フランスチームの研究結果も紹介されている。フランスチームは、コペンハーゲン大学による調査結果を信用できなかったため、独自の調査をおこなった。そえによると、1945年生まれの男性の30歳のときの精子数は精液1ミリリットルあたり平均1億200万個であり、1962年生まれの男性の30歳のときの精子数は平均5100万個であった。この調子でいくと、2005年に30歳になる1975年生まれの男性の精子数は精液1ミリリットルあたり約3200万個になるという。これは、1925年生まれの男性の精子数の4分の1である。
以上のように、各国とも精子の数が減少しているが、これは、ここ半世紀のあいだに激変した性行動や喫煙・飲酒の習慣によるものではないという。もしも、そのような後天的な原因によるものならば、若年層でみられた著しい精子減少が高年齢層でもみられるはずである。原因は胎児のときの発育環境によるものだろうとコルボーンらは推測している。
●ごく微量のPCBやダイオキシンが原因
前述の野生生物の生殖異常とヒトの精子の減少は、すでに地球全域を汚染してしまった有機塩素系化合物のPCB(ポリ塩化ビフェニル)やダイオキシンによるものではないかとコルボーンらは疑っている。有機塩素系化合物とは、炭素と水素からなる有機化合物の化学構造の中に塩素がはいりこんだものである。彼女らがあげた状況証拠のいくつかを紹介しよう。
コルボーンらはこれら以外にも多くの観察結果を紹介している。たとえば、PCBは甲状腺ホルモンにも悪影響をおよぼすという。彼女らは、結論としてダイオキシンやPCBが危険なのは発ガン性のためだけでなく、子どもの生育と、生殖にも有害なためだと強調している。
●PCBとダイオキシン以外の化学物質
PCBとダイオキシンに関してコルボーンらは多くのページをさいているが、その他の化学物質に関する記述は意外に少ない。その中でも比較的くわしく説明しているのは、ジエチルスチルベストロール(DES)という合成ホルモン剤である。これは流産防止に約500万人の女性が服用し、さらに「事後に飲む経口避妊薬」としても利用された。その最盛期には妊婦必携の妙薬として絶賛された。
ところが、その後の研究により、生まれてきた女の子にも男の子にも生殖器の奇形が認められた。また、膣ガンや子宮ガンを誘発することもわかった。おどろいたことに、別の調査によると、DESは、避妊は別として、流産予防に何の効力もないどころか、流産、早産、新生児死亡などに拍車をかけていたそうである。
クローバーなどの植物がもつホルモンについても紹介されている。この天然物質は、それを食べた動物に対して避妊薬としてはたらき、その動物に子孫を残さないようにしてしまう。
これら以外にとり上げられている合成化学物質は、ビスフェノールAとp-ノニルフェノールという一般にはなじみのなかった物質である。
ビスフェノールAは、スタンフォード大学でポリカーボネート製のフラスコを用いてイースト菌を培養しているときに偶然見つかった。フラスコから溶出したビスフェノールAがイースト菌の異常増殖をひき起こしたのである。
このイースト菌の増殖に影響するビスフェノールAの濃度は2〜5ppb、つまり、5億分の1〜2億分の1であったが、当時、ポリカーボネートを合成していたジェネラル・エレクトリック(GE)社は、その溶出液中のビスフェノールAの濃度を10ppb(1億分の1)までしか測定できなかった。
ビスフェノールAがイースト菌を異常に増殖させたのは、それがホルモン作用(エストロゲン様作用)をもっていたからであるが、その効力は天然エストロゲンの2000分の1であった。缶詰の内側のプラスチック・コーティングからビスフェノールAが検出されたという研究も紹介されている。
今後、本書でごく低い濃度をあらわす略号がでてくるので、それを図1-3にまとめて示しておく。ppbとpptは、10億分の1と1兆分の1の濃度であるが、通常の濃度にでてくるグラムやリットルのような質量や体積の単位がふくまれていない。これは「グラム/グラム」という具合にグラムがうち消されてしまっているからである。あまりにも少ない量であるため、それが質量とか体積であるということが重要ではなくなるのである。
t (トリリオン) b (ビリオン) m (ミリオン) k (キロ) |
10億 100万 1000 |
(109) (106) (103) |
m (ミリ) μ (マイクロ) n (ナノ) p (ピコ) f (フェムト) |
100万分の1 10億分の1 1兆分の1 1000兆分の1 |
(10-6) (10-9) (10-12) (10-15) |
ppm (parts per million) ppb (parts per billion) ppt (parts per trillion) |
10億分の1の濃度 1兆分の1の濃度 |
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物質名 | 用途 |
わが国での使用状況 ★=使用されている |
内分泌攪乱作用 ●=確定またはほぼ確定 ▲=疑い濃厚 △=疑われる |
ポリ塩化ジベンゾ-p-ダイオキシン(PCDD)(ダイオキシン類) | 廃棄物の焼却過程、化学物質の合成過程で発生 |
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● |
ポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)(ダイオキシン類) | 廃棄物の焼却過程、化学物質の合成過程で発生 |
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● |
PCB(ポリ塩化ビフェニル) | 電気絶縁体、熱媒体、溶媒など |
1972年生産中止・1974年使用禁止 |
●※1 |
コプラナーPCB | PCBに微量ふくまれている | − | ● |
PBB(ポリ臭化ビフェニル、PCBの塩素が臭素に置き換わったもの) | 難燃剤 | ★ | ▲ |
オクタクロロスチレン | 有機塩素化合物の合成過程における副生成物 | − | △ |
2,4-ジクロロフェノール | 染料中間原料 | ★ | △ |
DDT | 有機塩素系殺虫剤 |
1971年から不使用・1981年使用禁止 |
● |
DDE | (DDTの代謝物) | − | ● |
DDD | (DDTの代謝物) | − | ● |
HCH(BHC) | 有機塩素系殺虫剤 |
1971年使用禁止 |
● |
1,2-ジブロモ-3-プロパン | 有機塩素系殺虫剤、土壌燻蒸剤 |
1980年から不使用 |
▲ |
アルドリン | 有機塩素系殺虫剤 |
1971年から不使用・1981年使用禁止 |
● |
エンドスルファン(ベンゾエピン) | 有機塩素系殺虫剤 | ★ | ● |
エンドリン | 有機塩素系殺虫剤 |
1981年使用禁止 |
● |
キーポン(クロルデコン) | 有機塩素系殺虫剤 |
使用歴なし |
● |
クロルデン | 有機塩素系殺虫剤 |
1968年から不使用・1986年使用禁止 |
● |
オキシクロルデン | (クロルデンの代謝物) | − | ● |
ジコホル(ケルセン) | 有機塩素系殺ダニ剤 | ★ | ● |
ディルドリン | 有機塩素系殺虫剤 |
1973年から不使用・1981年使用禁止 |
● |
トキサフェン | 有機塩素系殺虫剤 |
使用歴なし |
△ |
トランスノナクロル | 有機塩素系殺虫剤 |
1986年使用禁止 |
● |
ヘキサクロロベンゼン | 有機塩素系殺菌剤、有機合成原料 |
1979年使用禁止 |
● |
ヘプタクロル | 有機塩素系殺虫剤 |
1975年から不使用・1986年使用禁止 |
▲ |
ヘプタクロルエポキサイド | (ヘプタクロルの代謝物) | − | ▲ |
ペンタクロロフェノール | 有機塩素系殺菌剤、除草剤、防腐剤 |
1990年から不使用 |
△ |
マイレックス | 有機塩素系殺虫剤 |
使用歴なし |
▲ |
メトキシクロル | 有機塩素系殺虫剤 |
1960年から不使用 |
● |
2,4-D(2,4-ジクロロフェノキシ酢酸) | ベトナムの枯葉剤(オレンジ剤)の成分 | − | ● |
2,4,5-T(2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸) | ベトナムの枯葉剤(オレンジ剤)の成分 | − | ● |
アトラジン | 除草剤 | ★ | ● |
アミトロール | 除草剤、分散染料、樹脂の硬化剤 |
1975年から不使用 |
● |
アラクロール | 除草剤 | ★ | ▲ |
トリフルラリン | 除草剤 | ★ | ▲ |
※1 PCBの毒性は、現在、微量にふくまれているコプラナーPCBによるものといわれている。 ※ [使用禁止]=法的に禁止。 [不使用]=農薬を使うには「登録」が必要だが、この「登録」の有効期限が切れたままになっていること。つまり、「登録」が失効し、事実上使われていない状態。 |
物質名 | 用途 | わが国での使用状況 | 内分泌攪乱作用 |
アルディカーブ | カーバメイト系殺虫剤 | 使用歴なし(輸入オレンジに残留) | △ |
カルバリル | カーバメイト系殺虫剤 |
|
△ |
ベノミル | カーバメイト系殺虫剤 | ★(輸入バナナ、輸入マンゴーに残留) | △ |
メソミル | カーバメイト系殺虫剤 | ★(小松菜、レタス、白菜に残留) | △ |
ジネブ | ジチオカーバマイト系殺菌剤 | ★(トマト、きゅうり、絹さやに残留) | △ |
ジラム | ジチオカーバマイト系殺菌剤 |
|
△ |
マンゼブ | ジチオカーバマイト系殺菌剤 |
|
△ |
マンネブ | ジチオカーバマイト系殺菌剤 |
|
△ |
メチラム | ジチオカーバマイト系殺菌剤 | 1975年から不使用 | △ |
エスフェンバレレート | ピレスロイド系殺虫剤 |
|
△ |
シペルメトリン | ピレスロイド系殺虫剤 |
|
△ |
フェンバレレート | ピレスロイド系殺虫剤 | ★(輸入ブロッコリーに残留) | △ |
ペルメトリン | ピレスロイド系殺虫剤 | ★(ペットのノミ取り首輪) | △ |
合成ピレスロイド | ピレスロイド系殺虫剤 |
|
△ |
エチルパラチオン | 有機リン系殺虫剤 | 1972年から不使用 | △ |
マラチオン(マラソン) | 有機リン系殺虫剤 | ★(輸入小麦、輸入米に残留) | △ |
シマジン | トリアジン系除草剤 |
|
△ |
メトリブジン | トリアジン系除草剤 |
|
△ |
ニトロフェン | ジフェニルエーテル系除草剤 | 1982年から不使用 | △ |
ビンクロゾリン | 殺菌剤 | 1998年から不使用(輸入キウイに残留) | △ |
物質名 | 用途 | わが国での使用状況 | 内分泌攪乱作用 |
植物エストロゲン |
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●※2 |
DES(ジエチルスチルベストロール) | 流産防止薬、避妊薬、前立腺ガン治療薬 | 1971年使用禁止(前立腺ガン治療薬としては使用中) | ● |
エチニールエストラジオール | 低用量避妊薬 | 認可待ち(1998年現在) | ● |
物質名 | 用途 | わが国での使用状況 | 内分泌攪乱作用 |
トリブチルスズ(TBT) | 船底塗料、漁網の防汚剤 | 1997年生産中止 | ●※2 |
トリブチルスズオキシド | 船底塗料、漁網の防汚剤 | 1989年使用禁止 | ●※2 |
トリフェニルスズ(TPT) | 船底塗料、漁網の防汚剤 | 1997年生産中止 | ●※2 |
※2 内分泌攪乱作用は認められるが、ヒトにとって有害であるかどうかはわからない。 |
物質名 | 用途 | わが国での使用状況 | 内分泌攪乱作用 |
p-ノニルフェノール | 界面活性剤の原料、分解生成物 | ★ | ●※2 |
p-オクチルフェノール | 界面活性剤の原料、分解生成物 | ★ | ●※2 |
ビスフェノールA | ポリカーボネート樹脂、エポキシ樹脂の原料 | ★ | ●※2 |
フタル酸ジ〈2-エチルヘキシル〉(DEHP) | プラスチックの可塑剤 | ★ | ●※2 |
フタル酸ブチルベンジル(BBP) | プラスチックの可塑剤 | ★ | ●※2 |
フタル酸ジ〈n-ブチル〉(DBP) | プラスチックの可塑剤 | ★ | ●※2 |
フタル酸ジエチル | プラスチックの可塑剤 | ★ | ●※2 |
フタル酸ジペンチル(DPP) | プラスチックの可塑剤 | 生産歴なし | ●※2 |
フタル酸ジヘキシル(DHP) | プラスチックの可塑剤 | 生産歴なし | ●※2 |
フタル酸ジプロピル(DPRP) | プラスチックの可塑剤 | 生産歴なし | ●※2 |
アジピン酸ジ〈2-エチルヘキシル〉 | プラスチックの可塑剤 | ★ | △ |
フタル酸ジシクロヘキシル | 防湿セロファン用可塑剤、アクリルラッカー用可塑剤 | ★ | ●※2 |
BHT(ブチルヒドロキシトルエン) | 酸化防止剤 | ★ | △ |
スチレンダイマー・スチレントリマー | カップ麺などのポリスチレン樹脂にふくまれる | ★ | △ |
バンゾ〔a〕ピレン | タバコや排気ガスから発生 | − | ●※3 |
ベンゾフェノン | 医薬品合成原料、紫外線吸収剤 | ★ | △ |
n-ブチルベンゼン | 液晶製造用、合成中間体 | ★ | △ |
p-ニトロトルエン | 染料中間原料 | ★ | △ |
※2 内分泌攪乱作用は認められるが、ヒトにとって有害であるかどうかはわからない。 ※3 内分泌攪乱作用とは別に重大な毒性がある。 |
物質名 | 用途 | わが国での使用状況 | 内分泌攪乱作用 |
カドミウム | − | − | △※3 |
鉛 | − | − | △※3 |
水銀 | − | − | △※3 |
※3 内分泌攪乱作用とは別に重大な毒性がある。 |