『1 「環境」とは
「環境」という言葉
まず、「環境」という言葉から見ていこう。「環」のもとの意味は、「◎型の輪の形をした玉」のことで、そこから広く「輪の形をした物」を指す、という。動詞としては、「めぐる」とか「めぐらす」とかと読み、やはり「○型にとりまく」ことを意味している、という。「境」は、「さかいめ」という意味もあるが、一定の広がりをもった場所とか地域とかという意味もあるようだ(藤堂明保編『学研漢和大字典』1978年)。面白いことに、環境を意味するドイツ語Umweltのumも日本語の「環」と同様に、「周囲」とか「取り巻く」を意味し、Weltも、ふつう「世界」と訳されるが、人間を取り巻く特定の生活圏を指してもいる。英語のenvironmentにしても、そのvironは、古くは「円」を意味していたというから、やはり、日本語の「環」と同じイメージをもった言葉であると考えてよかろう。
つまり、「環境」というのは、まず何かがあって、その何かを取り巻くものとして現われて来るものなのである。言い換えれば、「環境」というものはそれだけで独自に存在するものではなく、まずわれわれの注目する「あるもの」があって、その「あるもの」に付随して初めて現われて来ることができるものなのである。このばあい、この「あるもの」は、何であってもいい。ともかく、われわれの注目する何かである。この「あるもの」の外部にあって、それに何らかの影響を与えているものが環境≠ニ呼ばれているものである(図-1:略)。
主体にとっての「環境」
われわれが「あるもの」に注目したとき、それを取り巻くものとして初めて環境が立ち現われて来るものであるならば、いま、この環境の中の別の「あるもの」をわれわれが注目するようになると、これまでの「あるもの」は、新しい「あるもの」にとっての環境を構成する一要素へと、その役割を変えることになる。このように、「環境」というのは相対的な概念であって、何であれ、これはつねに環境の要素である、という風に固定しているものではない。
野生の熊にとって鮭の遡上する川は環境の重要な構成要素であるが、川を遡上する鮭にとっても、熊は好ましくないけれども避けることのできない環境要素である。また、果樹園の花にとって蜜蜂は好都合な環境要素であるが、蜜蜂にとっても果樹園の花は好ましい環境である。
以上のことから、環境あるいは環境問題には、それを考えるばあいにどうしても頭に入れておかねばならない特別な性格があることが分かる。それを一口で言えば、主体中心的な性格である。環境というものがつねに主体との相対的な関係でしか存在し得ないということは、主体の立場でしか環境を評価し得ないことを意味しているからである。しかし、そのことはまた、主体となり得るものがいくらでも存在し得ることを考えれば、主体の数だけの環境が存在することも意味している。とは言え、実際には、同一の要素が共通な構成要素としてそれぞれの環境の中に入り込んでいることとなる。そうなると、同一の要素について、主体によって評価が異なって来ることがあり得ることになる。たとえば、高速自動車道路はドライバーにとっては快適でも、沿線の住民にとっては騒音・大気汚染・景観等々の面で迷惑このうえないものである。生物界に例をとれば、日当たりのいい場所を好む植物もあれば、日陰を好むものもある、という具合である。
ところで、われわれは人間である。したがって、われわれが「環境」と言うとき、ほとんどのばあい、われわれ人間にとっての環境のことを念頭においている。本書の各章で扱われる「環境」も人間にとっての環境に力点がおかれるだろうが、他の生物と人間とは、さまざまな程度に環境を共有し、同じ生きもの同士として共通の利害をもつ面も少なくないので、他の生きものにとっての環境を大切にすることが、人間にとっての環境を大切にすることにつながるばあいが多い。
自然環境・社会環境・文化環境
一般に、環境と言うとき、われわれはすぐに自然環境のことを思い浮かべる。たしかにそれは生物としての人間にとって基本的に大切な環境である。だが、人間は自然的存在であると同時に、社会的・文化的な存在でもある。そうした存在としての人間にとっての環境ということになると、個人のばあい、その属する家族や、職場や、学校などが、またもっと広くその社会が、その個人が生活していくうえでの環境を形成している(図-2:略)。これらは、とくに社会環境と呼ばれる。また、言語や宗教や道徳・風習、さらには学問や芸術なども重要な環境であり、これらは文化環境と呼ばれる。ただ、社会環境と文化環境との間の区別はそれほど厳密なものではない。そして多くのばあい、個人が生活していくうえでの環境は、濃淡の差はあれ、社会環境としての性格と文化環境としての性格とをあわせもっているのが普通である。
もっとも、その点では、京都の北山杉の森林に代表されるような自然環境も、純粋な自然というよりも人間によってそのような形に作られたという面があるから、文化環境としての性格をもあわせもっていると言えよう。
人間への影響のあり方から見るとき、やはり生物としての人間に影響を与える環境もあれば、社会的存在としての人間に影響を及ぼす環境もある。山の景色、海の景色などになると、それ自体は自然そのものであるが、文化的な存在としての人間に影響を与える。したがって、景観としては、自然に景観も、都市景観などのそれ自体文化的な産物であるところのものと同じ性格をもつことになる。
このように、人間の環境には多様なものがあるが、この章の以下の叙述では、とくに断わらないかぎり、広い意味での自然環境を中心に話をすすめることにする。というのも、「地球環境の危機」と言われたりするように、現在の主要な問題はさまざまな規模での自然環境の危機≠ニして現われているからである。
人間にとっての環境の役割(1)−物質代謝
人間にとっての環境の役割は、およそ二つの方向から考えることができる。
人間にかぎらず、すべての生物は、生きていくために、エネルギーや必要な物質を外界から取り入れることが不可欠である。まず、そうしたエネルギーや物質の供給源としての環境の役割がある。また、生物としての人間は、体内で不要になった熱や物質を排出しなければならない。それらを引き受けてくれるのも環境の重要な役割である。さらに、文化を持った人間を考えれば、衣服を着ること、住居に住むこと、道具を使うことなどのために必要なエネルギーや物質を資源として提供してくれる環境の役割も無視できないし、不要になったそれらを捨てる場所としての環境の役割も大きい。エネルギーおよび物質の量としては、後者の方が、人間の体内を通過する前者のばあいよりもはるかに大きい。
いずれにせよ、自然環境は、人間が生活するために物質代謝を行なうその物質とエネルギーを供給してくれるばかりでなく、不要になったそれらを引き取ってもくれる。人間が生きて生活していくために不可欠のもの−これが環境の人間にとっての積極的な役割である。
人間にとっての環境の役割(2)−不変の環境
これにたいして、環境が人間にとってもつ第二の役割は、むしろ消極的なものであって、役割という言葉さえ不適切に思えるほどのものであるが、ともかく、その役割を一言で言うならば、不変の環境を提供するということである。この役割は、その重要さにおいて第一の役割に決して劣るものではない。
生命体としての人間を見ても、前述の物質代謝という絶えざる変化の過程を経ながらも、また外部環境の多少の変化にもかかわらず、それは、生命活動の一定の状態を保ち続けている。これは、生物学者によってホメオスターシス(内部環境の恒常性)と呼ばれている生命体特有の性質である。体温・血圧・脈拍や血液の組成など、ほぼ一定の範囲に保たれているのがその例である。だから、体温を測定して病気かどうかを判断するという方法が成り立つのである。
生体内のこうした精密で微妙なバランスが一定に保たれていることは、外部環境の変化がそれほど大きくなければ、その変化が内部環境の変化に結びつくことを遮断ないしは緩和する機構が働いていることを示している。しかし、外部環境の変化が一定の限度を超えると、もはや内部環境の恒常性は維持できなくなる。冬山での凍死や、炎天下での日射病など、その例である。生物が生きているのは、外部環境の恒常性(内部環境のばあいよりはゆるい程度においてではあるが)が保たれているからである。
このことは、あまりに当然なこととして、とくに人びとの注目を引くことは少ないが、案外重要なことである。そして、このこともまた、たんに人間の生体にだけ当てはまることではなく、人間の日常の生活にとっても言えることである。
たとえば、重力の強さが、突然、いまの二倍になったとしよう。そうすれば、頭のてっぺんまで血液を行き渡らせるために、血圧は上がって心臓に大きな負担をかけるだろう。それだけでなく、朝、いつものように起きるつもりで上体を持ち上げようとしても、うんと頑張らなければ持ち上がらないだろう。要するに上半身と同じ重さのバーベルが胸の上に載ったと同じことだからだ。
しかし、自然のままでこのように重力の強さが突然二倍になること、大気圧が急に半減すること、気温がいきなり100度も変動することなど、いまのわれわれにはおよそ想像もつかない。というよりは、想像する習慣もついていないと言った方がより正しいかもしれない。われわれは太陽が明日も東から出るものと決め込んでいるのと同様に、これらの環境の状態を示し数値が急激に変化することはないものと、決めてしまっている。環境のさまざまな面の状態を示し値を「環境のパラメーター」と呼ぶことにしよう。そうすると、環境の変化というのは、この環境のパラメーターの変化として表現することができる。
人間の「環境」への適応−生物的適応と文化的適応
考えてみれば、生命の誕生そのものが自然の一定の状態の中で、それに適合するようにして行なわれて来たものである。海の生物、陸の生物と分化していくばあいも、それぞれの環境に長い間かかって適応するように進化していったはずである。そのばあい、もし環境がひっきりなしに急激な変化を示すものならば、生物が環境に適応することは不可能に近かったであろう。人間にしても、とにかくここまで進化して来れたのは、重力の強さ、大気圧、空気の組成、気温など環境のパラメーターが、長い間ほぼ一定の範囲の値に止まっていたからである。少なくとも、それらに変化があったばあいでも、その変化はきわめてゆっくりした変化であって、人類の先祖たちがその変化する環境に生物的に適応するような進化を続けることを許すものであったはずである。
要するに、すべての生物は、環境に合わせて自分を変えて来たのである。折角それに合わせたのにそのもとの環境が変わってしまっては、適応は不可能になる。
人間のばあいは、環境にたいしてさらに文化的な適応も行なっている。農業によって安定的に食糧を確保したり、衣類や住居をこしらえて寒暑・外敵を避けようとするのも、文化的適応の例である。
このうち、農業を例にとってみると、そこで用いられる農業技術もまた、やはり、一定の気候条件のもとで、かつ、それを前提にしながら、長年月をかけて、試行錯誤的に組み立てられて来たものであり、急激な気候の変化には、いかにも脆い。もちろん、環境の変化が時間をかけてゆっくり進行するならば、それにたいする人間の側での何らかの対応も可能なばあいもあろう。問題は、環境の側での変化が急激なばあいである。このばあいには、その変化した環境に適応する時間が人間に与えられないことになり、ばあいによっては生存そのものが危機にさらされることになる。』