高橋・石田(1993)による〔『環境学を学ぶ人のために』(ii-iv、16-22p)から〕


『 新しく生まれつつある学問としての「環境学」は、まだ形を整えてはいない。しかし、それがはっきりした姿を現わすときには、それはおそらく四つの互いに関連し合う領域から構成されることになろう。
 第一は、われわれの毎日の生活を支えてくれている環境の仕組みを知ることである。これには、既存の自然科学、社会科学、人文科学を利用できる。たとえば、自然環境について言えば、大気の循環や水の循環がどのような仕組みで大気温を一定のレベルに保ってくれているのかというような環境の仕組みは、これまでの自然科学の研究の成果を整理し直すだけでかなりのことが知られるようになるだろう。
 第二は、人間の活動が環境にどのような影響を与えているかを明らかにすることである。これは、第一の領域ほど簡単ではない。人工のフロンガスが宇宙から流入する紫外線の量を増やすことになるとは、事前には誰も思い及ばなかったのである。人間の活動の種類は絶えず増加し、規模は大きくなり、場所も年々広がるとなると、それが環境に与える変化も、常に新しい様相を帯びて来ることにならざるをえないだろう。しかも、その変化がいずれも目に見える変化であればまだいいが、実際は、むしろ目につかないか、目に見えない変化であるばあいが多い。それだけに「環境学」に与えられる課題は重いと同時に、その課題の達成もなかなか困難である。無論、この領域での知識を増やすということも「環境学」の大切な仕事ではあろうが、それと同時に、人間のどういう種類の活動が環境のどの部分にどういう変化を与えることになるだろうか、という予測に役立つ形で知識を整理していくことも大切であろう。
 第三に、人間によって変化させられた環境が、今度はどういう形で、またどういう筋道で人間にマイナスの影響を与えることになるかを明らかにする領域がある。これの研究は、第二の領域と密接な関係をもって進められることになるだろう。
 第四は、その活動によって環境を変化させている人間の側を考察することである。「分かっちゃいるけで、止められない」という科白があるが、みんながそれぞれに自動車やバイクを乗り回せば大気を汚染することが分かっているのに、「自分だけは」と、止めることが出来ない。炭酸ガスの排出を減らせば地球温暖化をストップできるというのに、経済成長率を下げることになるからと、これも止めることが出来ない。人間と社会の側でのこの仕組みを明らかにして、どうにかしてその仕組みを変えることが出来ないかを探るのも、やはり「環境学」の大きな課題となるだろう。』

 3 「環境学とは」
 「環境学」の学問としての性格

 「環境学」という言葉は新しい。それは学問の世界でまだ十分に市民権を得ていない学問である。そして何よりも、その内容がまだ十分にできあがっていない学問でもある。
 環境学は、人間にとっての環境を対象にする学問である。人間にとっての環境というのは、個人にとっての環境である社会環境、文化環境等をしばらくおけば、人間を取り巻く自然のことにほかならない。人間の手がすでに加わっている自然でもかまわない。要するに、人間との間で物理的、化学的、生物的な次元での影響関係が存在しさえすればいいのである。
 ところで、自然を対象にする学問としては、すでに物理学、化学、地学、生物学などの自然諸科学がある。そうであれば、これらをそのまま「環境学」と呼んでもいいのではないか、よいう疑問が生じて来よう。
 既成の自然諸科学は、たしかに人間を取り巻く自然を観察することから始まった。しかし、その方法は、分析的であり、その認識の目標も、対象としての自然の内在的な論理(法則、原理)を明らかにすることであった。そして、分析の結果を総合して体系化するに際しても、そこに示されるのは人間からは独立に存在する自然像であった。生物学のように多様な現象を扱い、法則認識からは比較的遠いと思われている学問でも、結局は、生命とは何か、進化の法則は、動物の行動の原理は、といった一般的、抽象的な認識を目指すことになっている。
 ところが、環境問題が要求しているものは、自然を人間との関係において明らかにすることである。したがって、それは自然といっても、人間を取り巻いている自然に限定されてくる。つまり、対象は空間的に規定された具体的な存在である。そして、認識の目標も、巨大になった人間の力が環境のパラメーター集合にどのような変化を与え、さらにそれがブーメラン現象としてどのように人間にはね返って来るか、その過程を明らかにすることである。そのような課題を果たすべきものとしての「環境学」は、きわめて実践的な学問である、と言わなければならない。
 実践的な学問と言えば、農学や工学もそうである。ここで「実践的」と呼ぶのは、その学問の立てる目標が直接に人間にとって何らかの役に立つものであることを意味している。農学や工学のばあいは、新しい品種の生物を作り出したり、優秀な肥料や農薬を発明したり、効率的で安価な電気自動車を開発したり、というように、それが立てる目標は、あらかじめ、個別的・具体的にイメージされ得るものである。
 これにたいして、環境学のばあいは、そのような個別的・具体的な目標をイメージできるばあいもあるにしても、基本的には、人間を取り巻く環境の構造を明らかにするという一般的な仕事がその主要な課題になるはずである。そしてそのうえで、人間の活動が環境に与える変化、それの人間へのはね返りの具体的なプロセスをはっきりさせることが、つぎの課題となる。つまり、存在の普遍的な原理の探究でもないが、さりとて、個別的な具体的な課題の解決でもない、という中間的な性格をもった学問とならざるを得ないだろう。
 どこまで体系的であるかは別にして、環境そのものを取り扱うものとしては、大気(気候をふくむ)、地形・地質、水文、土壌、海洋、生活圏の中にある化学物質、生態系、こうしたものについての学問が、環境学を構成する内容として、まず考えられる。しかも、それらは、いずれも人間の生活との結びつきにおいて考察されることが必要である。すでに「環境科学」と呼ばれているものがあり、そこには、いま挙げた分野の学問がふくまれているようであるが、それもこのあとの点、つまり人間生活との結びつきを考察の中にふくめなければ、「環境学」と呼ぶことはできない。
 また、環境の変化が人間に与える影響を取り扱うものとしては、前述の学問のうちのいくつかのものと、医学などが挙げられよう。さらに、環境に影響を与える人間の側での活動についての研究も、これにふくめることが考えられる。
 あとの点について、少し付け足しておけば、環境問題を深刻にしている主な要因は、すでに述べたように、ふくれあがった人口、巨大な生産力、それを支える科学技術の性格、肥大する欲望、それを制度的に再生産し続けている資本主義のシステムである。これらはいずれも、個々人の意思を超えて、客観的なメカニズムとして働いている。したがって、このメカニズムを対象に研究することも、環境学のうちにふくめることが必要である、と言わなければならない。
 環境問題の特性
 環境学の内容を以上のように考えると、たいへん広範囲の領域をカバーしなければならないことになる。厄介なことは、全体としての環境をそのまま認識しなければならないことである。さきにも見たように、たとえば、原理的な学問である物理学は、さまざまな現象を取り上げても、抽象的な法則の認識へと認識活動を絞っていくことができる。また、実践的な工学は、はじめから特定の個別的な目標を設定して研究を行なう。これらに較べて、環境学には、環境という物理的・化学的・生物的複合物の構造を整理して全体的につかむことが要求される。そのことは、ある意味で理論的な学問と、記述的な学問とのミックスという性格を環境学に与えることになっている。
 しかし、環境学の課題はそれだけでは終わらない。人間が生活するかぎり、その活動は生活の場としての環境に大なり小なりの影響を与えているはずである。ただ、そこまでは一般的に言うことはできるが、では、個々の活動がそれぞれに環境にたいしてどういう変化を与えているかは、そんなに容易に知ることはできないし、また、人間のすべての活動についてその環境への影響のすべてを追跡することも難しいだろう。
 よく引き合いに出されるフロンについて考えてみよう。
 フロンは、炭化水素の水素をフッ素、塩素で置換した人工の物質で、1930年頃、冷媒として開発されたものである。冷蔵庫、クーラーに用いられるほか、化学的に安定しており、毒性もないので、スプレーにも利用されていた。ところが、1974年になってアメリカのローランドが、フロンガスがオゾン層を破壊するとの説を科学雑誌『ネイチャー』に発表して、議論を引き起こした。82年になって、日本の忠鉢繁が南極のオゾン層が減少しているという観測結果を発表したが、特別の注目を引かず、3年後、英国のファーマンが、南極では75年以来オゾン層が減少していると発表、これをフロンガスと結びつけた。こうして、やっとこの年、「オゾン層保護のためのウィーン条約」が締結されることになったのである。
 まず、フロンをオゾンとの関係で見ることが必要だが、さまざまな物質のうちでとくにフロンに着目するチャンスは、おそらくまったくの偶然をわずかに上回る程度の確率のものであろう。オゾンとの関係で見れば、それがオゾンを破壊することはすぐに了解できるかもしれない。しかし、環境への影響に気づくためには、フロンがオゾンを破壊するという化学の知識があっただけでは駄目で、少なくとも、それが大気圏に放出されて成層圏に達するという物質移動のルートと結びつけなければならないのである。分かってしまえば何でもないことだが、スプレーの殺虫剤から皮膚ガンの増加に結びつくためには、「風が吹けば桶屋が儲かる」以上の因果連鎖をたどらなければならなかったのである。
 この教訓から、環境問題については、とりあえず、つぎのことが言えそうである。
(1)つねに全体としての環境が問題になること。したがって、実験室の知識として知られていることでも、そのままではほとんど役に立たない。
(2)環境のある部分をいじったとき、どこに影響が出るかは、事前に分からないことが多い。したがって、問題の所在をあらかじめつかむことが難しい。
(3)影響が出ても、気がつくのが遅れる。さらには、その影響を確認することが難しい。近年、世界政治の問題にまでなっている「地球温暖化」にしても、専門家の中には、この現象を否定する人もいるのである。
(4)原因と結果とを結びつけることも、また難しい。「地球温暖化」の事実を認めるにしても、それを人間活動の結果としてのCO2の排出と結びつけることに反対する学者もいる。慎重な学者になれば、一層そうなるのかもしれない。
 環境学は、それを少なくとも自然科学的部分に限っても、こうした難しい環境問題の実際を扱っていかなければならないのである。もちろん、そのためには、環境の構造、仕組み(動きかた)を組織的につかんでおくことが必要であり、そのことはまた、環境を記述的につかむことをも要求するから、多くの研究者と資金との投入が必要となる。
 さらに、社会科学的な部分について見れば、これまでの社会科学は、環境からの資源の調達、環境への物質・エネルギーの廃棄の問題は無視して、ただ効率的な生産・流通のシステムとして社会を組織することのみを、考えて来た。そして、われわれの資本主義のシステムはむしろそのことを原理とするシステムである。この点を明らかにすることが、環境学の社会科学的な部分の役割の一つになるだろう。できれば、そのうえに、環境に悪影響を与える人間活動をチェックする社会システムの構築を考えるという役割が加わることになろう。』