高橋(1998)による〔『現代科学技術と地球環境学』(235-242p)から〕


7.4 地球環境学が目ざす方向

 新たな学問がなぜ自然科学、社会科学、人文科学の融合が必須の条件か。自然科学・技術には限界があり、公害から地球環境に至る現象には十分対応できないことは前節に述べた通りである。地球環境学によって、調査、計画、提案すべき主要テーマは以下の諸点である。
(1)新たな地域・都市計画、施設や構造物の設置、さらには種々の製造計画において、その必要性、計画の意義、それらが地球の有限環境に照らしての必要性は何か。
(2)その行為、その施行による影響、特にその行為、施行が地球環境の容量のなかで許容されるか。
(3)それらの計画、行為、施行が市民・国民・国際社会からの評価、さらにそれらとの合意を得るプロセス。
 これらに対応するには、従来の学問体系、従来の自然科学の方法ではほとんど不可能であり、社会・人文科学との新たな協同による学問体系の再編成、技術体系の見直し、自然との共生の哲学の確立が必須の条件である。

(a) 学問体系の再編成
 地球環境学のあるべき方向は、前節で述べたように、単に既存の諸科学の共同研究に止まらず、学問分類や学問体系の立て直しが必要である。地球環境問題は単なる自然現象ではなく主として人間活動が原因であるから、人間ならびに生物を含む自然環境内の相互作用を総合的に明らかにすることが必須である。自然科学と社会科学、人文科学との横断的共同作業は最近進められてはいるが、単なる協力体制に止まらず、文科と理科という学問の大分類間の壁を徐々に取り払うべきである。いかに共同研究が進んでも現段階では文科と理科の相違はきわめて明確である。それは、自然観、社会観、人生観の相違にまで及んでいるとさえいえよう。現在の学問分類が厳然と存在する限り、共同研究が終われば、再びそれぞれの分野に戻ってしまう可能性が高い。共同研究という仕組みに止まっているのでは、相互の知識交換はできても、それぞれの学問分野での方法論、慣習を変えることはできない。
 社会においても理科的人間、文科的人間と分類されている。大学進学時点で数学や解析能力に優れている者は理科へ、文学や法律・経済、さらに政治に向いていると考えられる者は文科へという傾向が強い。というよりはむしろ、数学が不得意な者が文科へ、文学などに余り興味を示さず数学がある程度得意であれば理科へという選択傾向が強い。偏差値に象徴される受験システムがその傾向を助長している。社会人となっても、大部分の卒業生は文科・理科に峻別された社会構造の中で大学、官庁、会社を問わず、それぞれに定められた途を歩んでいる。
 科学技術の進歩に依存し、つねに成長型経済に支えられて拡大の一途をたどっていた時代には、文科・理科の分離社会はきわめて効率よく機能し、それが社会秩序を安定させていたとさえ考えられる。しかし、地球環境問題をはじめ、最近の一連の社会現象の特徴として、進んだ科学技術を駆使する不祥事件が相次いで発生している。それもまた文科・理科に峻別された高等教育、社会構造と無関係ではないであろう。
 文科・理科の壁は現実には取り払われる兆候がある。新しい学問は境界領域から発生する。現在すでに大学の新学部の中には文科・理科の教授が同席する傾向が現れ始めている。それを例外的措置と考えず、新動向への萌芽と評価し、育てる方向に誘導すべきであろう。地球環境問題に限らず、最近の自然現象、特に技術が絡む問題における社会的要因の占める度合いはいよいよ多く、自然科学と人文・社会科学の両分野に跨る課題が増加している。もはや両科学者が分担して研究するという段階ではなく、その内に新たな科学体系も創出すべきである。その先鞭としての地球環境学は、自然科学、社会科学、人文科学の異なる研究方法の比較検討から、それぞれの研究方法の共通点などに基づいて、新たな総合的研究方法を確立しなくてはならない。そのためには、具体的課題、たとえばCO2削減、酸性雨などについての共同研究を進める過程で新しい方法を見出し、徐々に確立されて行くことを期待したい。すなわち、地球環境学確立への道は、必ずしも従来の諸科学の発展の延長線上にはない。もとより従来の科学が蓄積してきた研究方法は尊重しつつも、従来の学問分類、定式化された方法論に捕われない新たな途を開拓すべきである。
 差し迫った地球環境問題の解明と対策提出を求められている地球環境学が、新たな学問の途を切り開くことは、単にこの学のみならず、転期を迎えている文明や他の諸科学の革新への挑戦にも資するであろう。
 文科と理科という大分類への検討と同じく、自然科学や工学においても、環境問題への対応を契機に境界学問が育ちつつある。自然科学では物質の科学と生物学・生態学との間に共通する方法の開発、自然科学としての生態学・地理学と開発技術間の境界領域学問の確立、社会科学の分野からは法学・経済学・人文科学の分野の環境倫理・環境文化論、前述の理工農学との境界学問の展開が必要である。

(b) 技術体系の見直し
 現実に地球上に技術を展開する農学と工学に関わる技術体系の立て直しが問われている。技術の進歩は明治以来の日本の近代化を支え、第二次大戦後の国土復興、高度成長を推進した原動力であった。産業革命以来の欧米文明の発展の基礎は、現代科学の方法を巧みに利用した技術革新の連続であった。日本の近代化はそのハード技術を効率よく導入し、一挙に欧米の水準に追い付くまでに至った。
 しかし、高度成長期のさなかから発生した公害の噴出は、科学技術の従来の発展の方向に疑念を抱かせた。しかし、それまでの科学技術のまばゆいばかりの発展に基づく生活水準の向上、次々と世界を驚かした技術革新の成果は、ハード技術への反省の意欲を鈍らせていた。そのような状況下、地球環境問題といういままで経験しなかった難問に直面して、従来の科学技術のそのままの延長上の方策では簡単には対処できないことが徐々に明らかになりつつある一方で、地球温暖化やオゾンホールに代表される将来の危機をいち早く発見したのは、科学の進歩の賜であり、それへの対応にも技術は懸命に努力しつつあり、部分的にはその成果に期待できよう。
 しかし、現在問われている地球環境悪化を防ぎ、持続可能な発展のためには、循環型社会の形成、ゼロエミッションへ向けての合意が強く求められている。そのためには科学技術の各分野ごとの対応では根本的解決にはほど遠く、さらにはライフスタイルの変革が求められ、現代文明への批判がさかんになるに至って、学問の再編成とともに技術体系の見直しも検討されなければならない。たとえばCO2排出量増加への対応としては、個々のエネルギー産業の改善は重要であるが、それのみでは総体的には真の解決にはならないことも明らかになりつつある。要はエネルギー体系を構造的に変えなければならず、そこにはハードからソフトへの構造的変化が必要であることが、ようやくあまねく認識されてきたといえる。といってもハード技術の全面的否定ではなく、ハード技術のさらなる発展に期待しつつも、自然エネルギーを極力発展させることを含む、エネルギー効率のよいライフスタイルの提示などのソフトエネルギーへの依存度を高めることである。ソフト技術の採用自体が、従来の技術の延長上ではなく、エネルギー体系の変革を含む新たな技術体系全体の見直しを求めている。
 国土開発においても、大規模開発至上主義ではなく、身の回りの生活向上へ、より多くの配慮を含むソフト開発が強く求められる。たとえば、高齢化社会を迎えるためには、クルマ優先に根ざす歩道橋への反省を含むさまざまな課題が身近に満ち満ちている。大規模開発をはじめ従来型の技術の必要性を全面的に否定すべきではないが、今後はいっそう強く環境への影響に関する配慮が求められるであろう。よいうよりは、環境アセスメントをさらに進めて、積極的に基本計画の段階から、開発目標のなかに新たな環境創造の視点で、環境問題を内部化する計画を樹立すべきである。
 いままで技術の共通目標は、未開拓の分野を可能な限り切り拓き、われわれの生活範囲を拡大し、より経済的に豊かな居住環境を創造することであった。この目標に邁進することが、技術者の使命であったし、その目的意識が、明治以降の日本の近代化、第二次大戦後の高度経済成長の基盤づくりに有効に働いたのであった。しかし、すでに縷々紹介したように、いまや技術体系の見直しが迫られ、そのため技術者の新たな目標および資質、あり方の再考が求められている。具体的にはたとえば、高度に専門分化された個々の技術を進めることはもとより、より重要なことは、それらを総合して、環境対策に有効に利用できる方法を開発することである。ハードからソフトへの技術の移行は、当然のことながら技術者の意識改革を要求しており、関連各学会、技術者教育など、技術者社会の自覚と改革が望まれる。その場合、技術者が従来の狭い範囲の技術者社会の壁を積極的に開放し、前述の学問再編成、技術体系の見直しの先導的役割を果たすことこそ、今後の技術者集団の重要な役割である。

(c) 自然と人間社会との共生を目ざして
 環境問題の深刻化とともに、「自然との共生」が流行語のように流布されている。「自然との共生」はもとより、今後の環境技術のあるべき方向であることに間違いない。しかし、この概念は、科学技術者はもとより、行政の当事者から一般市民に至るまでの自然観にも関わる課題である。「自然共生」、「環境にやさしい」などの表現のもと、各種新技術が、多くの分野で展開されている。ここでいう新技術とは、たとえば種々の開発事業において自然材料を利用するとか、景観に配慮するなどの、デザイン、施工面の技術革新に止まるのではない。それらはもとより望ましい方向ではあるが、それら技術の行使に当たっては、確固たる自然観に基づいたものであるべきである。ここに自然観とは、地球の環境は有限であるという自明の事実を体得したうえで人間を含む生態系への深い理解が必須の条件である。
 共生の対象としての自然は、特にわが国のように開発による土地利用の変化の激しい場合には、時代とともに自然そのものの変貌がいちじるしい。われわれが「自然」と認識する水田を中心とする農村風景は、明治以降、そして第二次大戦以後、すっかりその風景を変えてしまった。明治、大正から昭和初期の作家が描いた田園の景観、現在高齢者が幼少時代に接していた農村の姿はすっかり消えてしまったといっても過言ではない。自然を舞台とする第一次産業においても、絶えず自然に働きかけ、そこから必要な生産物を取り出すのであり、そのための準備作業としての土地改良などが、自然の姿を次々と変えて行く。第二次大戦後、農業土木機械の導入が、農地と農村の地形の変化に拍車をかけたことはいうまでもない。
 戦後の急激な都市化が、大型土木機械の発達によって都市域のみならず、国土全体の景観をいちじるしく変貌させたことは誰の目にも明らかである。国土の変貌は、単に目に見える地表面のみを変えたのではない。都市化に代表される開発は、河川流域の水循環をもいちじるしく変えたのである。これについては、本講座第7巻『水循環と流域環境』において改めて解説する。
 すなわち、われわれが目の前にし、あるいは航空写真や衛星画像で接する自然景観とは、自然自身の絶えざる働きに、人間が技術を駆使して生きるための営為が加わったものである。換言すれば、景観には人間の長年にわたる努力の積み重ねによる軌跡が内蔵されているのであり、人間の技術と労働によって変貌してきた自然が、その時代ごとの人間活動に対する自然的与件である。しかし、従来、この自然における生態系および水循環への認識は不十分であった。人間活動は当然生態系に複雑な影響を与えずにはおかない。時間的に刻々変動する複雑な環境に置かれた生態系が、自然の挙動や人間活動に対応してどのような動的反応を起こすかを予測することこそ、今後のわれわれに課せられた最も重要な研究テーマのひとつである。この生態系の動向に重要な役割を演ずるのが水であり、その循環に注目するならば流域単位で把握することが必要となる。
 自然景観を上述のような歴史的所産と認識し、長い時間スケールと流域単位の広い空間スケールのなかに生態系ネットワークを位置づける視点に立つ新しい学問としては、最近、景観生態学(landscape ecology)が提唱されている。これを具体的に適用するならば、河川工事における生態系への配慮も、上下流連続したネットワークとして計画されるべきであり、農林業地域の自然に対しても、個々の地域ごとの計画ではなく、全国土生態系を念頭に置いた国家数百年の再配分計画をまずえがくべきである。
 流域から視た生態系を考慮するならば、かつては非生産的で経済的価値がないと考えられていた湿地(wetland)の重要性が浮かびあがってくる。一時代前までは、現在都市化された地域にも多くの湿地があり、そこは遊水地としての役割とともに生態系保全の役割も果たしていたのである。もちろん、元湿地を元に戻すことはできないであろう。しかし、そこに新たな都市生態系を創造し、自然復元への緒を見出す努力こそ、自然との共生を目ざす途である。
 わが国のようにすでに高密度に開発された国においては、自然をそのままに遺し得る地域はきわめて限られており、すでに開発された地域においていかに「自然」を回復するかが、今後の地域計画の焦点になる。自然林と人工林の関係、人工化された河川の改修、都市の緑化などにおいて、いかに新たな生態系を創出し、自然が復元できるか否かに、自然との共生の成否がかかっている。広義の社会資本と見なし得る自然は、人間の営為によって次々と変わり行く社会資本である。そのためには、自然との共生を大前提とした社会資本形成の開発や地域計画における発想の大転換を要するであろう。

 7.5 地球環境学の成立条件
 現代科学技術は可能性の追求を目標とし、科学の方法はそれにまことに適した体系を形成してきた。従来の学問体系は、それぞれ個別の学問が、それぞれの可能性を限りなく追求することによって学問は進歩すると見なし、それが自動的に社会の進歩に貢献すると考えてきた。しかし、地球環境が提示した課題は、可能性の追求ではなく、地球の限界の探究である。

(a) 問題解決型の科学へ
 前節にも述べたように、地球環境問題に直面して、現代の科学の方法の単なる延長では、この問題を解くことがきわめて困難であるといえよう。換言すれば、まず科学技術の方向があるのではなく、まず解くべき課題があり、そのためにどのような学問があり研究があるかを考慮しなければならない。いわば、問題解決型の学のあり方、およびその学問体系の樹立である。新たなる学問体系は、まず人間にとって地球とは何か、地球とのよりよい関係を保つ価値観、地球観が前提であり、将来、自然と人間が融合した地球システムへの進化の方向が提示されることとなろう。換言すれば、人間活動だけが突出した「進歩」ではなく、生物界と調和した「進化」の世界への飛躍でなければなるまい。そこでは従来の科学と技術における「基礎と応用」という関係ではなく、「現象認識と問題解決」を同時に追求できる学問体系が求められる。

(b) 総合化の推進
 地球環境への学の挑戦のためには、すでに述べたように、いわゆる「総合化」が必須の条件である。関連の既成学問が、それぞれ独立に研究を重ねるだけでは、地球環境問題の一角を切り崩すに過ぎない。すなわち、地球環境問題に対しては、現在の学問分類の側に難点があるのであり、「総合化」とは現在の学問分類を肯定した上での概念である。要するに、地球環境問題の個々の課題を解くのにふさわしい科学の方法、学問体系を従来の学問成果を活かせるように新たに再構築すべきである。

(c) 政策提言へ向けて
 地球環境問題に直面して立て直す学問、すなわち地球環境学は、学問のための学問であってはならず、学問的根拠に基づく新たな自然観、価値観を育み、さらに現実の政策提言へと結び付ける必要がある。それが問題解決型学問の当然の方向であろう。地球環境問題をめぐって、政治家と学者との距離が以前よりはるかに接近していると考えてよいであろう。CO2削減をめぐる論議はその一例である。エネルギー消費とCO2排出量の関係、CO2排出量と地球温暖化の関係などについての基礎知識は、いまや多くの政治家の常識となっている。さらにCO2排出量削減は、一般市民の日常生活とも密接な関係を持っている。CO2問題は、野放図に生活の利便を追及しているわれわれへの警告である。CO2問題に限らない。すべての地球環境問題は、飽くなき物質生活の向上をのみ願うライフスタイルの変更を求めている。したがって、地球環境学は一般市民生活と深い関係を持ちつつ発展すべきものであり、机上の学問であっては成立しない宿命を持っている。
 人々の日常生活での身近な例を挙げれば、夏の冷房を1℃下げることが、単に電力節約に止まらず、CO2排出量にも関係し、ひいては地球温暖化対策にも連なることを、研究者は数的根拠を示しつつ、一般の人々に解説し協力を求める責任を持つ。テンプラ油を家庭からそのまま下水道へと流すことが、いかに多くの負荷を下水道へ与え水質汚濁を助長するかは、市民生活の常識であり責務とならねばならない。豪雨時に風呂の栓を抜かない、屋根への降水は樋から直接地下へ浸透させ下水道へと連結しないなどは、自然の水循環の保全であり、単に健全な水循環の確保に止まらず、環境社会構築のための常識となるべきである。雨水利用から水使用、排水方法、太陽エネルギーの利用、電力その他のエネルギー消費の在り方など、われわれの日常生活の隅々にまで地球環境問題が関与している。それらのいわば環境時代の生活の知恵を、研究者は科学的事実に基づいて市民に協力を仰ぐ義務がある。そしてつねに新しい環境の知恵を一般市民ともども探究し実行することによって、研究者と市民の連帯が求められる。かくして地球環境学は市民のものであり、市民を組織するNGOと研究者との密なる関係の必要なゆえんである。』