佐和(1997)による〔『地球温暖化を防ぐ』(4-6p)から〕


 時間的視野の長短と空間的視野の広狭
 地球温暖化がいかなる危害をもたらすのかについては後述するが、その前に言っておかねばならないのは、空間的な視野を地球規模に押し広げ、時間的な視野を50年くらい先にまで引き延ばすことにより始めて、地球温暖化がもたらす深刻な危害の実相が明らかになるということである。日本に住んでいる読者にとっては、地球温暖化問題は人ごとのように思えて仕方がないかもしれない。なぜなら読者の平均余命をたかだか65年とすると、地球温暖化の元凶である二酸化炭素(CO2)を今のまま排出し続けたとしても、今後65年間のうちに、人が住めなくなるほど日本の気温が上昇するなどといったことは、あり得ないからである。
 まず空間的視野の広狭から入ろう。地球温暖化の結果、南極の氷、アルプスやヒマラヤの山岳氷河が融解し、海水が膨張して、海面が50センチメートルほど上昇するとしても、内陸部の国々に住む人々にはほとんど何の被害も及ばない。日本のような島国であっても、せいぜい砂浜が失われるくらいの被害にとどまるであろう。しかし、小島嶼国に住む人々にとっては、国土の相当部分が海水面下に沈んでしまうのだから、大変なことである。小島嶼国連合(AOSIS:Association of Small Island States)が、先進諸国に対して、2005年までに、CO2の排出量を20%削減して欲しいとの厳しい数値目標を提示するなど、温暖化防止に熱心なのは当然のこととしてうなずける。もともと小島嶼諸国の一人当たりCO2排出量は相対的に少ないはずだから、小島嶼国に住む人々にとっては、先進工業国が加害者、自分たちが被害者という加害・被害の明解な図式が成り立つことになる。同じ地球上に住む人々の中に、加害者と被害者が同時にいるというのは、あってはならないことではなかろうか。と同時に、空間的視野を広げることによってはじめて、被害者の存在が見えてくるのである。
 次に、時間的視野の長短に話を進めよう。地球温暖化の被害が顕在化するのは、50年先、100年先のことである。したがって、地球温暖化の被害者は私たち現世代ではなく、私たちの次世代そして次次世代なのである。「世代間の公正」というわかりづらい公準をあえて持ち出さなくても、私たち一人一人が、子々孫々のとを気にかけるか否かを自問してみればよい。もしその答えがイエスならば、地球温暖化防止のために、自分のできる限りのことをするのが、責任感ある人間としてのごくごく当たり前の営為なのではないだとうか。
 時間的な視野の長短、空間的視野の広狭の次第によって、地球温暖化問題への関心と取り組みは大きく左右される。このことこそが、地球温暖化対策についての合意形成を難しくする最大の障害なのである。
 もう一つ付け加えれば、地球温暖化対策として提案される施策のほとんどが、何らかの既得権益を侵害するという点もまた、対策へ向けての合意形成を阻む一因として見逃せない。たとえば、世界的な規模で化石燃料の消費削減を実行しようとすれば、中東の石油輸出国やオーストラリアのような石炭輸出国が反対するのは、当然のこととしてうなずける。運輸用エネルギー消費を抑制するために、貨物輸送をトラックから鉄道にシフトさせようとすれば、むろんトラック業界が大反対をする。要するに、人間の経済活動のほとんど何もかもがCO2の排出を伴うがために、いかなるCO2排出削減策であれ、何らかの経済活動を抑制・縮減することにならざるを得ないからである。しかしその半面、CO2排出削減策により利益を授かる産業界もあることを見落してはなるまい。
 このように地球温暖化問題は、それが及ぼすであろう被害の予測についても、またそれへの対策の選択についても、合意形成がはなはだ難しいという意味で、21世紀に向けて人類が抱える極めつきの難問の一つなのである。この難問を克服することこそが、私たち現世代に課せられた重い課題であると同時に、20世紀型工業文明の見直しを人類に迫るという意味で、地球環境問題は、すぐれて歴史主義(ヒストリシズム)的な問題なのである。またそれは、自然科学、社会科学、人文科学、そして工学が連携して取り組まねばならない、すぐれて学際的な問題でもある。』