小宮山(1995)による〔『地球温暖化問題に答える』(1-7p)から〕


序章 地球温暖化問題とはなにか−新しいパラダイムの出現
 親しみやすい大きさの星

 地球は宇宙に浮かぶ無数の星のひとつである。それはちいさな星であるから、飛行機に一日乗れば世界中のどこにでも行くことができる。木を切りすぎれば砂漠化が進行するし、工場や自動車の排気ガスは国境をこえて世界中の大気を汚染する。現代人がいだく、こうした「限りある地球」という実感は、昔からあったというものではない。
 そもそも人びとが、自分たちが生活する場を「限りある」と意識しはじめたのはいつのころからだろう。あかねさす紫野ゆきの標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る−そう歌われた万葉の時代の人びとにとって、大地は、おそらく無限の空間だったのではないだろうか。戦国の武将にとってはどうだったろう。織田信長は卓抜した世界観の持主であったといわれる。しかし、その信長が宣教師の話から想像した世界ですら、われわれがいま頭に描く地球のイメージとは異なった、茫漠たる広がりだったのではないだろうか。母なる大地とうたわれた時代も、そう遠い昔ではなかったのである。
 現在、大量の人や物や情報が国境をこえてゆきかい、スペースシャトルからは青い美しい星、地球の映像が送られてくる時代になった。われわれにとって、地球は有限というばかりでなく、親しみやすい大きさの存在に変わりつつある。とくに、地球環境問題が文明に重大な影響を与えかねないことが指摘されるにいたって、地球はいまや新しいパラダイムとなりつつある。
 人類は、社会をつくり産業を展開する代償として、自然を変えてきた。そうした自然の変質が社会問題として認識されたのは、産業革命以後のイギリスが最初であったといってよいだろう。川も空も汚染され、都市の衛生状態は悪化し、伝染病が蔓延し、多くの労働者が犠牲になって死んでいった。日本でも、足尾鉱毒事件、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害が、大きな社会問題となった。多くの人びとが被害をこうむったこれらの悲劇は、原因がわかりさえすれば防ぐことができる。有害な物質を出さなければよいのである。
 こうした有害物質による地域的な公害とは異質の環境問題が、顕在化しつつある。それは、オゾン層破壊、酸性雨、砂漠化、海洋汚染、種の多様性の減少、ゴミ問題、そして温暖化等々、地球全体にひろがるいろいろな問題である。
 これらのなかで、生命圏のバランスを根底からくつがえす可能性があり、しかもその原因が文明の基盤と表裏一体をなしているという意味で、もっとも深刻なのが温暖化である。この問題が科学者によって予測されたのは、けっして最近のことではない。古くは1860年、光の散乱のティンダル現象で名高いティンダルが、大気の組成変化によって気候変動のおこる可能性があることを指摘している。日本では、驚くことに宮沢賢治が、CO2(炭酸ガス、二酸化炭素)による温暖化現象を題材に『グスコーブドリの伝記』という童話を書いている。ただし温暖化が困るというのでなく、温暖化させて冷害を防ごうというのである。冷害による飢饉で両親を失い、森を追われた少年ブドリが「カルボナード火山島が爆発したら、CO2が大気中にまきちらされ、世界の平均気温が5度くらい暖かくなるだろう」というクーボー大博士の話を聞いて、みずから犠牲となって大噴火をおこさせて飢饉を救うという美しい物語である。東北の恒常的な冷害にこころを痛めていた賢治は、それを根本的に救うとすればCO2による温暖化しかないと思いたったのだろう。じつは、火山の噴火はCO2と一緒に噴き出す粉塵の影響の方が大きく、かえって寒冷化をもたらすことになる。その意味ではまちがいなのだが、世間でも学会でもほとんど知られていなかったこの時期に、CO2により気象を制御しようと思いついた、宮沢賢治の明晰さに敬服する。
 こうした経緯からもわかるように、CO2による温暖化は、長いあいだ、知る人ぞ知る科学的知見にとどまっていたのである。その後とくに話題にのぼることもなかったのに、なぜ、最近急に注目されるようになったのだろう。温暖化問題の本質を探るかぎがここにある。

 さまざまな見解
 「温暖化」は政治問題であるという指摘がある。この問題が世界的に大きな関心を呼ぶきっかけとなったのは、1988年、米国上院における一人の科学者の証言だった。この年、アメリカの穀倉地帯は猛暑と干ばつに襲われた。その原因が地球の温暖化である可能性をNASA(航空宇宙局)のハンセン博士が指摘し、さあ大変だとなったのである。しかし、猛暑や干ばつはそれ以前にもつねに地球上のどこかでおこってきた、いわば普通の現象である。アフリカでの飢饉のニュースなど毎年のことのようにさえ思われる。それでも「温暖化」などと騒がれることはなかったのに、アメリカで干ばつがおこったから温暖化だといって騒ぐというのは、なにかおかしいのではないだろうか。すくなくも、この問題をたんに科学的側面からだけとらえたのでは、全貌を理解することができないのは確かだろう。
 別の例では、1992年、ブラジルのリオで開かれた「地球環境サミット」に、当時の米国ブッシュ大統領が出席するかどうか世界の注目を集めた。米国大統領が出席すればサミットの権威は高まる。しかし、アメリカは世界一のエネルギー消費国であり、そのことは世界一のCO2発生国であることを意味する。サミットでは、エネルギーの使用を抑制しようといった議論がなされる可能性が高い。アメリカの国民はどう反応するだろうか。再選をめざす大統領選挙を目前にしたブッシュ氏は、出席すべきかどうか、大いに迷ったのである。それはあきらかに政治問題だった。サッチャー、ミッテランといった卓抜した政治家が、人心を地球環境に誘導したのだという意見もある。東西冷戦構造が崩壊したあとに、新しいパラダイムが必要になったといううがった見方である。たしかに、地球温暖化問題に政治的側面があることは否定できない。
 エネルギー問題だという指摘もある。温暖化の主因はCO2であり、化石資源を人間がエネルギー源として使用することに起因している。それが困るというなら、エネルギーを使用しないか、あるいは化石資源以外のエネルギーを開発するよりほかにないだろう、というのだ。
 南北問題だという意見もある。CO2の発生は、これから経済成長するであろう開発途上国で深刻な問題である。今後、これらの国でのエネルギー使用量が莫大に増えるだろう。開発途上国の一人あたりのCO2の発生量が先進国なみになったら、人口を考えてみると一大事だ。しかし、それを抑える権利を先進国は主張できるのだろうか。たしかに、地球温暖化は南北問題だという意見にも論拠はある。資本主義の自由市場の原理は大量生産・大量消費をもたらした。CO2の大量発生はその必然的な結果である。CO2問題は経済システムの問題だという意見にも説得力はある。
 さらには、人口問題だという意見もある。人類の誕生は500万年ほどの遠い昔であったといわれる。それ以来、人口はきわめてゆっくりと増え続け、1770年代の産業革命当時ようやく7億人になった。それが200年たらずのうちに56億人に達してしまった。遠からず100億人になると予測されている。生活レベルを下げてCO2の発生を抑制することなどできるわけがない。結局、人口を抑制するしかないではないか、という主張である。
 いや、教育の問題だという意見もある。一人ひとりがいきすぎた物質文明に思いをはせ、少しずつ無駄な消費をなくしていくことがスタートだ。事実、女性の教育レベルの向上が出生率を低下させるというのは、過去のデータが示しているではないか。
 結局は、倫理の問題だという意見もある。かぎりある資源を、ある世代だけで消費しつくす権利がいったいあるのか。われわれは、来るべき世代のために化石資源を残す義務があるのではないのか。
 こうした指摘には、いずれも、ある程度の説得力を感じる。それは、それぞれの指摘がこの問題の多様な側面のひとつを語っているからなのである。しかし、ひとつの側面を語ったことは、本質を語ったことにはならない。

 なぜ、今なのか
 ゴミを捨てることは、昔は悪いことではなかった。陸に捨てれば、虫や微生物に食われ、土壌細菌に分解され、土の有機物を増やすことになったのである。海に捨ててもおなじようなもので、魚の餌になったり、化学反応で酸化されたり生態系の循環に無理なく吸収されていったのである。人が活動してもその影響を地球が吸収してくれたという意味で、地球は無限であったといえよう。しかし、人口が増え、一人ひとりの物質の消費量が増え、それに応じてゴミの量が増えたために分解が間に合わず、捨てられたゴミは地球上のあちこちにたまりだした。
 象徴的なできごとが、CO2大気中濃度の急激な上昇である。生態系が依存する基本的な因子であるCO2濃度は、かつて地球が経験したことのない速度で上昇している。その原因は、化石資源の燃焼と森林の破壊である。化石資源を燃やしたり、熱帯雨林を切り倒したりすることによって放出されるCO2の量は急増し、1年間のCO2の放出量が大気中にあるCO2の全量の1%をこえた。50年前にはたった0.2%だったのが、50年で5倍に増えたのである。1%くらいたいしたことはないと思うかもしれない。しかし、1年で1%というのは、今後もこのままの放出量でいったとしても、100年で大気中にある全量とおなじだけ放出するということである。これまでのように50年で5倍になったりしたら、あっというまに大気中CO2濃度は2倍をこえてしまう。
 人間の活動が地球に年率1%のオーダーの影響を与えはじめ、地球が有限であることが誰の目にもあきらかになったというのは、まさにごく最近のできごとなのである。この事実こそが、いま温暖化を議論しなくてはならない理由なのである。
 つい最近まで、東西の冷戦構造が国際的なパラダイムとしてあった。国内的には、われわれは生産や経済の高度成長をめざして進んできた。一方、拡大しつづける資源の消費にたいして、1972年、ローマクラブが地球資源の有限性の指摘をおこなった。そして現在、物質文明の排出物全般にたいする地球の有限性にたいして警鐘がならされている。地球を視野にいれて考え、行動する必要が生じている。
 これまでに、温暖化がなぜおこるのか、温暖化によってなにが心配されるのかについては、ずいぶん議論がなされた。それと関連して、大気や、海や、生物や、地球の歴史や、太陽系などにかんするさまざまな書物も出版された。しかし、人類は温暖化にたいしてどう対処できるのだろうか。その議論が十分なされていない。なにが対策になりうるのかが論理的にあきらかにされて、はじめて多様な側面をもつ温暖化問題の、人類にとっての意味が明確になる。今後、なにをしなくてはならないのかがあきらかになる。本書の目的はここにある。
 高度に発達し、巨大化した科学技術が、われわれの存在基盤そのものを危うくする可能性を否定することはできない。しかし、人類は、自らがつくりあげた科学技術を、その英知によって、より快適な地球環境の創造に向かわせることができるはずであろう。これが、本書の基本的な立場である。』