グランツ(1998)による〔『エルニーニョ』(24-29p)から〕


第2章 エルニーニョとは

エルニーニョの定義
 「エルニーニョ」という言葉の意味は、人によって異なる。スペイン語のel nino(注:後ろのnの上に〜をつける)」は、少年あるいは子どもという意味である。この頭文字を大文字にした「El Nino(注:後ろのnの上に〜をつける)」は幼子のイエスという意味になる。
 ペルー人にとっては、さらに別の意味もある。ペルー沿岸を北から南に向けて、ときたま発生する暖かい海流のことである。ペルー人は、この海流を20世紀初頭にはすでにエルニーニョとよんでいたが、そのはっきりした由来とよびはじめた時期については不明である。現在うけいれられている解釈によれば、クリスマスの時期(北半球では冬、南半球では夏)になると、ペルー沿岸にいつもの冷たい水にとってかわり暖かい海水が季節的にあらわれ、それが数ヶ月間つづくことに由来しているという。ふだん海水が冷たいのは、冷たい海水が海の底から湧き上がっている(湧昇)からである。この栄養塩にとんだ冷水は海面にまで上昇し、富栄養帯をつくりだしている。
 1892年にリマで開かれた地理学会で、ペルー海軍の船長であるカミロ・カリジョが講演し、次のように発言した。これがなぜエルニーニョと名づけられたかという情報(噂)のもとになっている。
 「ペルー北部のパイタ港から、小さな船でペルーの船乗りが南北に出航しているが、かれらが暖かい海流をエルニーニョと名づけた。この現象がクリスマスの直後に顕著になるからである」(Carillo、1982)
 ペルーとエクアドル沖に出現する暖水は、ときに2、3ヵ月以上もつづき、翌年のかなりあとまでつづくことがある。この暖水の出現は、沿岸地域の生態系と社会経済活動に多大な被害をおよぼしてきた。
 ペセはリマでの国際地理学会で講演し、「豪雨は猛暑の夏に生じており、この暖流がペルーの乾燥地帯に大量の雨をもたらしたと考えられる」と述べた(Pezet、1895)。エルニーニョ現象がいつ人びとに認識されたかはわからないが、ペルーとエクアドルの自然環境には大雨と洪水が関係していることから、エルニーニョ現象は何百万年もつづいてきたということはたしかである。
 20世紀初めには、アフリカ東海岸から南米西海岸にいたるまで、エルニーニョの発生と熱帯地域のさまざまな自然環境の変化は関係がないと思われていた。エルニーニョの影響はペルーとエクアドルだけの関心事であって、そうした影響は局地的な海洋と大気の変異による局地的な現象と考えられていた。
 1970年代半ばまでに、エルニーニョはさまざまな定義がなされた。90年代半ばになるとさらに何十もの定義がされるようになり、科学論文や書籍には単純な定義から複雑なものまで、あらゆる定義がなされた。次の二つの定義はその例である。
 「エルニーニョとは、太平洋赤道域の東半分で海面水温が異常に暖かくなる12〜18カ月の期間をいう。中規模もしくは強いエルニーニョは、平均5、6年に1回のわりで不定期に生じる」(Gray、1993)
 「エルニーニョとは、エクアドルとペルー沿岸で1月、2月、3月にあらわれる暖かい海流と、地域気象におよぼすその影響をいう。ENSOは、東太平洋と西太平洋の間の大気圧の不規則な振動が関連している太平洋中部から南米海岸までの事象をさす」(Palca、1986)
 こうしたさまざまな定義のなかには、いくつかの共通点がみられる。列記すると、エルニーニョとはこういうことである。
・海水面の異常な温暖化である。
・エクアドルとペルー北部、ときにチリの沿岸にあらわれる現象である。
・太平洋を横断する海面での気圧の変化(南方振動)と関係している。
・くりかえしおこるが、規則的な間隔ではない。
・ペルー沖を南に向かって流れる暖かい海流である。
・西への赤道貿易風が弱まることをともなっている。
・クリスマスの前後に発生する。
・12カ月から18カ月間つづく。
 エルニーニョ現象を特定するのに用いられてきた技術的な定義の例として、次のものがある。
 「海面温度の指標は、赤道の南緯4度、北緯4度、西経160度および南米の海岸線によって囲まれる地域の温度が、異常な季節状態を示す指標である。異常温度は3季節異常つづき、そのうち最低1つの季節につき平均より0.5度以上高い場合で、南方振動指数(オーストラリアのダーウィンとタヒチの海水面の大気圧の差にもとづく指数)が同期間にマイナス1.0以下である場合をエルニーニョという」(Kiladis and van Loon、1988)
 いくつかの定義は、エルニーニョ現象はなにをひきおこすかということにもふれている。たとえば、「深層からの冷水の湧昇が減る」とか、「貧栄養の海水が出現する」、「地球上の大部分に気象変化をおこす」といったふうにである。
 海面水温の低い期間が終わると、しばらく高い水温の期間がつづき、また低い水温もしくは通常の水温の期間がやってくる。再発をくりかえすという変動パターンは、通常の年にみられる気候の変異の一部であるといっていい。再発するまでの期間には諸説あり、2〜10年、4〜7年、3〜4年、3〜7年、5〜6年、5〜7年とさまざまである。
 ほとんどすべての定義が、ペルー沖と太平洋中部赤道域の海面水温の異常上昇にふれている。統計的に厳密にいえば、たぶん異常なのだろう。それは、海面水温が平年にくらべて異なっており、1度、2度、3度、それ以上というように、任意に設定した値をもとに異常かどうか決めることができる。
 しかし、こうした平年なみの状態からの変化は、おこりうる性質のものであり、エルニーニョを異常な現象といってもいいが、いっぽうで、正常な現象と考えることもできる。エルニーニョを研究している科学者たちが、こうした定義をきちんと決めることができない状況では、一般の人びとや政策決定者はなおさら混乱してしまう。
 人びとがエルニーニョについて耳にするとき、かれらはペルー沖の「どこか」の水域で「なにか」がおこっているというふうに考えることが多い。研究者がエルニーニョの議論をつづけ、マスコミがそれをとりあげるにつれ、一般の人びとの、海洋と大気の相互作用に関する知識はましてきている。人びとの多くがいまでは、太平洋赤道域での環境変化はペルーの海岸沿いでおこっているだけでなく、影響は広範囲におよんでいることを知るようになった。それゆえ、科学的文献はしだいに、太平洋全域におよぶ海面水温と大気圧の振動の変化(ENSO)をあつかうようになったのである。
 ここ10年間、マスコミでとりあげられたことにより、人びとはエルニーニョという言葉に親しみ、なれるようになった。しかし、マスコミ関係者は、エルニーニョ・南方振動(ENSO)を、わかりやすく人びとに説明することのむずかしさを告白している。そのため一般的には、太平洋赤道域での変異をENSOとはよばずに、たんにエルニーニョとよぶことが多い。
 言葉の定義に関しては、辞書にはしばしば複数の意味が記載されている。ときには矛盾した意味がのっていることもある。「リーダー」という言葉を例にあげてみよう。辞書には、「リードする能力をもっている人」というのと、「行動をおこす人」とがのっている。2つの意味は重複する部分もあるが、かならずしも同一のメッセージを伝えているわけではない。
 同じように、エルニーニョにもさまざまな意味がある。つまり、エルニーニョという言葉は、(1)地域的な海水面の温暖化という意味と、(2)より広範囲の太平洋赤道域のENSOという両方の意味があるのである。研究者の一部には、エルニーニョとENSOを同じ論文のなかでかわるがわる使うことさえある。
 私なりの、エルニーニョの定義を次のように示しておくが、この本では、地域的および、より広範囲な海水面の温暖化をさす言葉として使われていることを理解してほしい。
「エルニーニョ」
スペイン語で「El Nino(注:後ろのnの上に〜をつける)」。
(1)幼子のキリスト。
(2)ペルー沿岸に季節的に発生する南向きの暖かい海流に対して、ペルーの船乗りがつけた名前。
(3)ペルー沿岸に通常みられる冷水(湧昇)域に、たまに暖水がもどってくる現象につけられた名前で、この現象がおこると、海岸地方の魚と鳥の個体群が消滅する。
(4)太平洋赤道域の中部、東部、あるいはその両方における海面水温と、西太平洋の海面大気圧の上昇に対してあたえられた名称。
(5)ENSO(エルニーニョ・南方振動)をさす言葉で、太平洋赤道域の大気と海水の相互作用の変化のこと。