『アルフレッド・ウェゲナーは1880年11月1日に父リヒアルトと母アンナの子としてベルリンで生まれた。父のリヒアルト・ウェゲナーはプロテスタントの牧師であり、またシントラー孤児院の院長をしていた。アルフレッド・ウェゲナーは高校を卒業した後、1899年9月にベルリンのフリードヒ・ウィルヘルム大学に入学し、数学と自然科学(特に天文学)を学んだ。各地の大学をめぐり歩いて学習するという、当時のドイツの大学に特有な習慣に従い、ウェゲナーも1900年の夏をハイデルベルク大学で、また1901年の夏をインスブルック大学で過ごしたが、その他の期間はずっとベルリン大学で学んだ。1901年から1年間は兵役についている。1904年11月には学業を終えベルリン大学から博士の学位を得た。
ウェゲナーの最初の職業は、ベルリン近郊のリンデンバーグ航空気象台の助手であった。彼はここで気象観測に従事するかたわら、兄のクルトと一緒に気球でビターフェルトからユトランドまで3日間をかけて飛行し、当時の気球による滞空時間の世界記録を更新している。ウェゲナーが単なる科学者ではなく、探検家でもあったことを考えるとこのことは興味深い。ついで、1906年から1908年にかけては、ミリウス・エリクセンのひきいるデンマークの探検隊に気象学者として加わり、グリーンランド東部へおもむき2回越冬した。
グリーンランド探検からもどった後、ウェゲナーはマルブルク大学の講師に採用され、気象学、天文学および宇宙物理学の講義を担当するとともに学問の研究にはげんだ。彼が主に研究したのは気象学であり、1911年に出版された“大気の熱力学”をはじめとして数冊の著書がある。この研究の縁から当時の著名な気象学者であったケッペン(Wladimir
Koppen、1846-1940)と親しくなり、1913年にはその娘のエルゼと結婚した。2人の間にはヒルデ、ケーテ、シャルロッテの3人の娘が生まれた。1919年から1924年まで、ウェゲナーはハンブルクのドイツ海洋観測所でケッペンのあとをついで理論気象部門の責任者となり、また同時にハンブルク大学の助教授をつとめた。1924年から、ウェゲナーはグラーツ大学の地球物理学および気象学教授となり、1930年にグリーンランド探検の途上でなくなるまでその職にあった。
ウェゲナーが大陸移動説を考えついたのは1910年のことで、やはり世界地図を見ていてであったといわれる。その翌年、ブラジルとアフリカの植物化石の比較についての論文が発表されたのに刺激され、ウェゲナーは1912年1月6日フランクフルト・アム・マインで開かれた地質学会において彼の仮説を“大陸の起源”として初めて発表した。この仮説はあまりよい評価を受けなかったようだが、ウェゲナーはその後も精力的に地球科学の各分野から大陸移動を支持する証拠を集め、それらを“大陸と海洋の起源”
Die Entstehung der Kontinente und Ozeane (初版1915年、第4版1929年;日本語版、都城・紫藤訳、1981)としてまとめた。大陸移動説の強力な論拠の1つである古気候学の証拠については、ウェゲナーは義父のケッペンと共著で“地質時代の気候”(1924)を著わしている。ケッペンとウェゲナーはまた、氷河時代がどうしておこるかを説明するために、ミランコビッチ(Milutin
Milankovic、1879-1958)による地球の受ける太陽輻射量の時間変化の理論を導入したことでも知られている。
大陸移動説とならんで、ウェゲナーの終生の事業となったのはグリーンランド探検であった。はじめてデンマークの探検隊へ参加した際には(1906-1908)、極地探検の歴史ではじめて測定器をつんだ凧や気球を数十回にわたってあげ、3100mの高度までの気温・湿度・風速などを測定することに成功した。第2回目のグリーンランド探検は、前回の探検の際の共同研究者であったデンマーク人のコッホ(Johan
Peter Koch、1870-1928)を隊長として、1912年から1913年にかけて実施された。この隊はたった4人の隊員からなり、1912年夏に1200kmに及ぶ北部グリーンランドの横断に初めて成功した。第3回目と第4回目のグリーンランド行きはウェゲナー自身が率いたドイツの探検隊によるもので、まず1929年夏にウェゲナーと3人の隊員がルート偵察のための予備調査を行ない、次いで1930年4月に20人の隊員からなる探検隊の本隊がグリーンランドへ向かった。探検の最も重要な目標は北半球の気候に対するグリーンランドの氷床の影響を調べることで、そのために北緯71度線に沿ってグリーンランド西岸、東岸と中央部の高地の3か所に基地が設置された。このうち中央の基地(Eismitte)は3000mの高度があり、気象条件が過酷な上に物資の補給も十分でないため、夏の終わりにウェゲナー自身が2人の隊員とともに西岸の主基地から補給におもむいた。
1930年11月1日、ちょうど50歳の誕生日に、ウェゲナーはグリーンランド人のビルムセン(R.Villumsen)と2人で、400kmはなれた西岸の基地へ戻るために-54℃の雪嵐の中を出発した。しかし悪天候のために2人は遭難し、基地へ帰りつくことはできなかった。翌年5月になってから、捜索隊がウェゲナーの遺体を基地から190kmはなれた氷の中から発見した。ウェゲナーは心臓発作か何かで死亡し、ビルムセンは彼の遺体を埋葬した後に1人で基地に向かったらしい。しかし、ビルムセンの行方は結局わからず、また彼がウェゲナーの日記を持ち去ったために遭難当時の詳しい様子もわかっていない。』