河野(1986)による〔『地球科学入門−プレート・テクトニクス』(1-9p)から〕


『図1.1(略)は赤道上にある静止衛星から撮影された写真で、幾分雲もあるが大西洋の両側の海岸線がくっきりと見える。まず地球が本当に球形をしていることに注目してほしい。ガリレオやコロンブスにとっては“地球は丸い”というのは信念であったかもしれないが、実感することは困難だったであろう。ありがたいことに、地球が“球”であることを本当に見ることができ時代になった。
 次に、大西洋をはさむ南アメリカの東岸とアフリカの西岸の海岸線の形がよく似ていることに目を引かれよう。このことは古くから注目されていたようで、メルカトール(Gerhard Mercator、1512-1594)の作った、彼の考案した図法による最初の世界地図(1569年)を見て、哲学者のフランシス・ベーコン(Francis Bacon、1561-1626)が大西洋両岸の大陸が移動した可能性を指摘したという話まで残っている。しかし“大陸移動説”という学説が作られたのは今世紀に入ってからのことで、その発展は主としてドイツのウェゲナー(Alfred Wegener、1880-1930)の功績であった。ウェゲナーが主に研究したのは気象学であり、その専門でも何冊かの本を出版しているが、現在では大陸移動説の創始が彼の最も重要な功績と考えられている。彼が大陸移動説についてまとめた“大陸と海洋の起源”は、すでに現代の地球科学の古典となった。彼はそのなかで、過去に大陸が大規模に移動したことを示す証拠を集め、世界中の大陸が全てひとかたまりになっていた時代が以前あったことを推定し、この超大陸に“パンゲア”という名を与えた。
 ウェゲナーが大陸移動の証拠として取り上げたのは、海をはさんだ大陸間での海岸線の相似ばかりでなく、造山帯など地質学的な構造や、そこに産出する生物の化石に見られる共通性、過去の気候帯の分布など、極めて広い範囲のものを含んでいた。ここではその1,2例を示そう。図1.2(略)は、約3億年昔にあたる石炭紀から二畳紀(ペルム紀)のころにあった大陸氷河、あるいは氷床が分布した地域を示したものである。過去の時代に氷河があったことは、岩石に残っている氷河による侵食のあとや、昔の氷河が残したモレーン(氷堆石)の存在からわかる。ところで、ヒマラヤやアルプスなどの高山にある山岳氷河を除けば、現在の氷河は両極にごく近い地方にしか存在しない。これらのうちでも大陸氷河あるいは氷床と呼びうる大規模なものは、グリーンランドと南極大陸にあるのみである。しかし、今から1万年ぐらい前までは地球の気候は大変寒冷で、北アメリカ北部やスカンジナビア半島などは広く大陸氷河におおわれていた(図6.6参照:略)。このような、気候が非常に寒くて氷河が地球上に広く分布した時代を氷河期というが、約3億年前も今から数万年前と同じように氷河期の1つだったわけである。
 石炭紀から二畳紀にかけて、気候が寒冷だったために氷河や氷床が大規模に広がっていたとしても、図1.2にはおかしな点がいくつかある。まず第1に、大陸氷河の分布している地域が広すぎる。アフリカでは氷河の分布は赤道にまで達しているではないか。第2に、南半球各地には広く氷河の痕跡があるのに、北半球ではインド以お外には全くそれが見られない。第3に、図中の矢印は氷河の動いた方向を示しているので、氷床の中心から外へ向かう方向、つまり極地から低緯度の方への向きを表わしていると考えられるが、その中心は南極ではなくアフリカにあるように見える。この第3の点については、この時代に地球の回転軸(つまり極)が今の位置ではなく、アフリカ南東部にあったとすれば幾分説明できる。しかし、その場合でもアフリカ以外の大陸での氷河の分布が極から遠すぎることについては事情は変わらない。
 これに対しウェゲナーの説明は次のようなものであった。この時代には諸大陸はひとかたまりになってパンゲア超大陸を作っていた。パンゲア(Pangaea)とはギリシア語から作られた言葉で、“全ての陸地”を意味する。パンゲアのうち、現在南半球にある大陸(インドを含む)の配置が図1.3(略)に示されている。こうしてみると、現在では地球上の遠く離れた位置にある大陸氷河の痕跡が全く極を中心とした高緯度地方に集まり、図1.2のような矛盾はない。また、現在北半球にある大陸はこの時代にはいずれも低緯度地方にあったことになり、上にあげたおかしな点は全く解決される。約3億年前の時代にパンゲアの存在を考えると、氷河ばかりでなく砂漠や石炭、岩塩の分布など、当時の気候を強く反映している証拠についても合理的な説明が可能になる。このことを示したのが図1.4(略)で、例えば石炭は主に当時の赤道の近くに見られ、高温で乾燥した気候でできた砂岩は赤道の両側の亜熱帯的な地域に分布しており、この様子は現在の地球上で見られる熱帯雨林や砂漠などが赤道を中心として帯状に広がる気候帯の分布にそっくりである。
 こうしたさまざまな証拠をつき合わせて、ウェゲナーは3億年前には一体であったパンゲアが後に分裂し、この超大陸から分かれたそれぞれの大陸は、長い時間の間に移動して現在のような配置になったのであると説いた(図1.5:略)。ウェゲナー以後に大陸移動説を熱心に支持した南アフリカのデュトワ(Alexander Du Toit、1878-1948)は、パンゲアのような1つの超大陸ではなく、南北両半球にそれぞれ1つずつ大陸があったと考え、それらをローラシア(Laurasia)およびゴンドワナランド(Gondwanaland)とよんだ。これら2つの大陸の間にはテチス海(Tethys)という現在の地中海のような細長い海があったという。また、スイスの地質学者アルガン(Emil Argand、1879-1840)もこの考え方に賛成し、後にテチス海が閉じたことによって、間にはさまれた地殻が圧縮されてもり上がり、ヒマラヤやアルプスなどの大山脈が生じたのだと主張している。
 大陸移動説は、地球科学の個別の分野でそれぞれの都合でさまざまに解釈され矛盾をはらんでいた現象に対し、統一的な説明を加えようとした作業仮説であるということができる。それまでの考え方にはしばしば矛盾があったことを示す例をあげよう。古生物学ではしばしば“陸橋”の存在が考えられていた。過去の生物の化石をしらべると、現在海をへだてて遠く離れている大陸に同じ種類の動植物が出現することがある。最も有名な例としてはグロソプテリスというシダ類植物の特徴的な化石を含むゴンドワナ植物群がある。これらの植物化石はいずれも陸成と浅海性の堆積物からなる古生代後期の地層中に出現するが、その分布はインド、オーストラリア、アフリカ、南アメリカ、南極大陸にわたっている(図1.2(略)で氷河の分布していた大陸と同じであることに注意して欲しい)。植物の種子が海を越えて風や海流で運ばれることはないことではない。しかしゴンドワナ植物群の場合は、このようにして運ばれたとするには距離が遠すぎるし、それ以外の北半球の大陸にこれらの化石が見られないのも不自然である。また、ほかにもカタツムリなど海をわたることは不可能と思われる小動物の同種のものが、海をはさんで両側に分布することがある。このような場合に、今はなくなってしまったが、かつては海の両側の陸と陸とをつなぐ細長い陸地(陸橋)があったことを仮定するのである。現存する陸橋としては、南北両アメリカ大陸をつないでいる中央アメリカ(パナマ地峡)が最も有名であり、その他、アフリカとアジアをつなぐシナイ陸橋などがある。
 現存するものもあるから、可能性は否定できないといっても、過去の時代における陸橋の存在は古生物学だけの都合から考え出されたものである。こうして、さまざまな時代の化石分布を説明するためにはさまざまな陸橋が必要だとされていた。しかし、他の地球科学の分野からの考察によれば、こうした陸橋のいくつかは決して存在したと考えることができない。陸橋に対する最も強力な制約は地球の構造についての知識から得られる。第5章でのべるように、陸と海では地下の構造が根本的に異なっている。海水量の増減に伴う数百mぐらいの海水面の上下変動によって海陸の境界は大きく変わるが、ここでいう“海”とは数kmの深さを持つ典型的な海底のことで、海水が少々減った程度ではほとんど影響を受けない地域である。地下の構造が全く違うために、多少の上下運動があったとしても水深5kmもある深い海が広い範囲にわたって陸になったり、逆に陸地が深海に変わったりすることはあり得ない。こうしたことは今世紀のはじめ頃から次第に明らかにされてきたが、全ての地球科学者にとっての常識とはなってはいなかった。だから、古生物学の都合だけで陸橋を作りだしたり、また後の時代に水没させてしまったりすることがまかり通っていたのである。同じ地球上の現象を対象としていても、分野ごとに問題に対するアプローチの仕方が違い、その分野でさえ困らなければかまわない、という調子で個々の学問が孤立した状態にあったわけである。そうした時代の水準から見ると、大陸移動説は、古生物、古気候、地質構造、造山運動など、極めて広い分野にわたる証拠を統一的に説明できる野心的な理論であった。この総合性の中にウェゲナーの天才が最も良く発揮されたと思われる。
 さて、大陸移動説は学界ではどのように受けとられたであろうか。地質学者や古生物学者の中には、かなりこの説を支持する人達もいた。彼らにとってみれば、これまで原因がわからず、いい加減な説明で放置していたことがらにウェゲナーがもっともな説明を与えてくれたのである。一方、地球物理学者の大多数ははじめはこの説に対して無関心であった。地球物理学にとってはまだ“統一理論”が必要になるほど、機は熟していなかった。しかし、イギリスのジェフリース(Harold Jeffreys、1891- )など一部の地球物理学者は、大陸移動説に強力な反対論を展開した。彼らの主張の最大の根拠は、大陸を動かし得るほどの原動力が存在しないという点であった。当時は、主として地震学から地球の内部構造が明らかになりつつあった時代であり、特にジェフリースは地震波の伝播など地球内部の諸現象に対して、物理数学の手段を駆使して多くの重要な仕事を発表していた。ジェフリースは、ウェゲナーが可能性をあげた大陸移動の原動力のいくつかの候補についての可能な大きさを見積り、それらは到底大陸を動かし得ない小さな力にすぎないと結論した。
 ジェフリースらの議論には数学的な裏付けがあり、ウェゲナーの議論が主として定性的な証拠に頼っているのにくらべ、よりもっともらしく思われるものであった。こうして、1930年代の終わり頃までには大陸移動説に対して否定的な見解が学界の大勢を支配するようになった。前にあげたデュトワなどの研究が細々と発表されてはいたが、大半の地球科学者達は真面目に大陸移動を考えることはなくなった。かくして、大陸移動説はいったん“死んでしまった”のである。』