池内(1998)による〔『宇宙論のすべて』(45-46p)から〕


12 量子宇宙
 宇宙が誕生した頃は超微視的な状態であったから、宇宙そのものは量子力学によって波動関数で記述しなければならない。そのような微視的宇宙の創成や進化を論じるのが量子宇宙である。このような宇宙では、「トンネル効果」や「ボース凝縮」のような量子効果が顕著に現れる。しかし、重力場の量子化には成功していないので、重力が効く現象に対しては近似的な理論である。
 自然を記述する物理学の理論には、原子サイズ以下のミクロ世界を記述する量子論と、重力(万有引力を一般化したもの)が重要なマクロ世界を記述する一般相対性理論がある。従って、通常の大宇宙の運動については、一般相対性理論を用いたアインシュタインの宇宙方程式が用いられる。しかし、宇宙空間のサイズが原子以下の時代では、物質の状態は量子力学で記述しなければならない。といっても、宇宙そのものについては、そのサイズがコンプトン波長より大きければ古典的な一般相対性理論を使ってよい。このような時代では、物質間の相互作用については量子力学で記述し、それによって得られたエネルギーや運動量密度をアインシュタイン方程式に代入して、宇宙にどのような作用を与えるかを調べることになる。インフレーション宇宙は、このような記述によって導かれたもので、物質間の相互作用の量子論的な効果によって生じた宇宙斥力が卓越するために、宇宙の指数関数的な膨張が起こると主張する理論である。
 また、この宇宙には、物質でできた銀河だけが存在し、反物質でできた銀河は存在していない。ところが、宇宙創成時には、物質も反物質も同じ量だけ生成されたと予想されている。では、なぜ、この宇宙の反物質は消えてしまい、物質だけしか残っていないのだろうか。この問題は、ロシアの反体制知識人として有名なサハロフが提起し、日本の吉村太彦が素粒子の統一理論の下で一つの解答を与えたことが知られている。この場合も、アインシュタイン方程式で記述される宇宙の中で、素粒子がどのような反応をするかを量子論的に解くことが必要である。その結果、素粒子の弱い相互作用による反応率が物質と反物質で同じでないことと、その反応が宇宙膨張について行けずに落ちこぼれること、の二つの効果が組み合わされて物質のみが残されることがわかった。
 宇宙のサイズがコンプトン波長程度であった時代では、重力そのものも量子論的に扱わねばならない。これを「量子重力」と呼ぶ。フリードマン宇宙は、重力を量子論的に扱っていないので、時刻がゼロ(サイズがゼロ)の密度や温度が無限大となる「特異点」にまで適用できない。つまり、極微からの宇宙の創成を論ずるためには、量子重力理論が不可欠なのである。しかし、現在まだ量子重力理論は完成していないから、宇宙創成については近似的な議論しかできていない。
 ホーキングたちが提案する宇宙創成論では、物質の存在状態が現在とは大きく異なっている状況を考える。そのような場合の「真空」のエネルギーは、現在と比べて非常に高かったと予想する。ただし、ここでいう真空とは物質の最低エネルギー状態のことで、重力まで量子論的であれば、同じ物質場でも最低エネルギー状態が高いと考えるのだ。−水の分子はいつも同じH2Oだが、水蒸気・水・氷の状態ごとに最低エネルギー状態が異なっているのと似ている。
 ホーキングたちが、このような真空のエネルギーが高い物質場での宇宙の状態を調べると、量子論的な状態でしか存在し得ないことが示された。つまり、宇宙の始まりは、量子論特有の不確定性関係に従っており、時間やエネルギーの大きさ(空間尺度)が決定できない状態にある。やがて、真空のエネルギーが減少するにつれ、宇宙がトンネル効果によって量子論的な状態から古典的な状態となって姿を現してくる。古典的な状態とは、宇宙の時間や空間が現在のそれらにつながるフリードマン宇宙のことである。言い換えると、この宇宙の時間と空間と物質が、エネルギーの高い真空から同時に創成されたのだ。
 このような宇宙の創成物語は量子宇宙論の中心課題だが、今後、量子重力理論の完成と足並みをそろえて厳しく追究されていくと思われる。』