『1 コスモロジーの系譜
コスモロジー(宇宙論)は、私たちを取り巻く全体世界がどこまで続き、いかなる形となっており、どのようにして始まったかを考える分野である。それはとりもなおさず、「私たちは、何処から来て、何処へ行くのか」という、古代から抱き続けてきた人類の問い掛けへの終わりない模索と言えるだろう。あるいは、空間(宇)と時間(宙)と物質の起源や在りようへの飽くなき挑戦である。
その原初的な現れは、天地創造神話であったり、生と死を循環する宇宙伝承物語であった。大海に浮かんだ円盤状の大陸、灼熱の溶岩から生まれた島々、先祖神の胸や足や頭から成長してきた山野など、古代社会における宇宙論は、環境や風土・君臨する神・民族の歴史などが色濃く反映されており、人類学的にも極めて興味深い。
やがて、天球上の星の動きを観察し、記録を取り、地上の変化と対照することにより、規則的な運動に気づき始める。そのもっとも古い記録はバビロニアに残っており、そこで使われていた10進法・12進法・24進法・36進法・60進法は、現在においても、角度を測り、時間を刻む単位として使われている。空間と時間を切り取る方法の発見が、科学としての宇宙論の第一歩であった。そして、この宇宙を構成する天体が、季節によって変わりつつも不変の星座を描く星々と、その星の間を縫って動いていく惑星(プラネット、さまよう人)の二種類あることがわかってくる。時空を旅する星の動きを通じて、宇宙を把握する糸口を掴んだのだ。
バビロニアからエジプトへ、エジプトからギリシャへ受け継がれた星の運行の記録から、紀元前3世紀までに、神の気まぐれとは無縁な「法則に則った」二つの宇宙論が提案された。一つは天動説(地球中心説)であり、もう一つは地動説(太陽中心説)であった。つまり、この宇宙の中心に、地球を据えるか、太陽を据えるか、の問題であったのだ。むろん、太陽が東から昇り西に降るように見え、月が従者のように地球の回りを経巡っていることから、直感的に受け入れやすい天動説が勝利した。地動説には、太陽や惑星の見かけの動きをいったん疑い、天の配置を考え直すという反芻の時間が必要であったのだ。アリストテレスの権威が背後にあったからかもしれない。その後2000年の間、天動説は人々の宇宙観を支配した。
右のような、天体の規則的な運動に着目した西洋の宇宙論に対し、東洋では極めて形而上的な宇宙論のままに推移した。天球の観察は、不規則な現象や突発的な現象の記録に重点がおかれ、規則的な運動への興味がなかったからである。「天行不斉」、天は不規則な現象を通じて地の異変を予言すると考えたのだ。したがって、彗星・流星・日食や月食・客星(あるいは新星)の膨大な記録は機密扱いであった。太陰暦が近年まで使われたように、天の運行には、生活に密接した範囲からの興味しか抱かなかったとも言える。
ルネサンス・大航海・宗教改革と15世紀から17世紀にかけての世界史を揺るがせた運動は、宇宙論にも大きな影響を与えた。矛盾を内包した旧来の慣習への疑い、新たな眼で現実を見直す時代的雰囲気、東の文明と西の文明の邂逅、そして桎梏に囚われない文化の創造。それらが、コペルニクスの地動説の復活を生み、ガリレイの実験科学の源泉となり、ケプラーの経験則の発見へとつながり、最終的にニュートンの古典物理学の完成をもたらした。地球が動いているという直接証拠はなくても、地動説は人々の常識となったのだ。
併せて、ガリレイが最初に天を観察するのに使った望遠鏡は、人々の宇宙を拡大するのに大きな寄与をした。天の川が太陽と同じ星の集まりであることを眼にするや、宇宙は太陽系から無数に星の世界へ広がり、さらにハーシャルは、星の集団たる星雲が宇宙に点々と散らばっている多世界宇宙へ人々を誘った。いみじくも、カントは「島宇宙」という概念を自らの哲学の根拠に据えた。18世紀の宇宙論は、実証科学の道を歩みつつ、人々の世界観を構成する上での重要な水先案内役を果たすようにもなったのだ。
しかし、宇宙論の歩みは一直線ではない。時空を探る手段の能力によって、認識しうる宇宙に限界があるからだ。眼視観測から写真撮影へ、金属鏡からガラス鏡へ、そして撮像から分光へと、19世紀は宇宙観測の飛躍を準備した世紀であった。その準備があればこそ、20世紀前半の宇宙論の革命が成就した。口径2.5メートルのウィルソン山天文台の望遠鏡によって、銀河宇宙像が確立し(1924年)、さらに宇宙膨張が発見(1929年)されたのだ。この宇宙は、銀河が物質分布の単位となっており、かつ銀河は空間の膨張によって互いに遠ざかっている。この現代宇宙論の基礎を成す二大発見は、ウィルソン山望遠鏡を駆使して宇宙を追い詰めたハッブルによって成し遂げられた。その背景には、アインシュタインの天才が不可欠でもあった。宇宙全体の運動を記述する物理学を独力で拓いたのだから。
といっても、膨張宇宙がすんなり受け入れられたわけではない。ニュートンがそうであり、アインシュタインですらそうであったように、人々の常識では、宇宙は永遠で不変であり、決して動いてはならないものであったからだ。動く(膨張する)宇宙には始まりがあり、必然的に進化する(刻々と姿を変える)。ダーウィンの進化論が当時の人々の反発をかってしばらくは沈滞の時代を余儀なくされたように、膨張宇宙論にも雌伏の時期があった。宇宙の距離の測定法に問題があって、宇宙の年齢が地球より若いという矛盾を抱えていたこともある。
しかし、そのような状況下でも、ガモフは1940年代に、その想像力をいっぱいに広げて、膨張宇宙論からビッグバン宇宙論へと展開させた。進化する宇宙像を具体的に描き出したのだ。皮肉にも、ビッグバン宇宙の名付け親は、定常宇宙論の旗頭フレッド・ホイル卿であった。ホイルはガモフ説を揶揄するつもりで、ビッグバン(大ボラめ、ズドンだな)と呼んだのだ。しかし、大爆発(ビッグバン)で宇宙が始まったとするガモフの夢想を、心ならずも実に的確に表現してやったことになる。ビッグバン宇宙は、1965年に、その直接証拠である宇宙背景放射が発見されて、揺るぎなく確立した。さまざまな未解明の難問はあるものの、ビッグバン理論は現代の標準的宇宙論の地位を占めている。
1980年代に入って、宇宙論は二つの方向から新たな展開を見せた。一つは、ホーキングに代表される宇宙創成理論や、グースと佐藤勝彦が提唱した宇宙誕生直後のインフレーション的膨張など、宇宙のごく初期の躍動的な宇宙モデルである。その背後にはミクロ世界を扱う素粒子物理学の理論の整備があった。いわば顕微鏡で見る微視的宇宙の理解が進んだのである。もう一つは、ハイテク機器の宇宙観測への応用によって、泡宇宙やグレートウォールなど思いがけない宇宙の大規模構造の発見である。これによって、私たちが描いてきた宇宙像がまだまだ小さいことを思い知らされた。宇宙は人類が想像する以上の過去を隠し持っているのである。
今や、口径8〜10メートル級の大望遠鏡が世界で10台近くも稼働し始めている。これによって、観測的宇宙論という新分野が育ちつつある。天文学の正統法である望遠鏡で見る大宇宙の姿が炙り出されようとしているのだ。21世紀は、さらに宇宙の神髄に近づいていく重要な時代となるだろう。』